3日目 AM

 兄貴は俺に気のない態度を取る。

 兄貴の秘書は俺に気のあるそぶりを見せる。


 小柄で、真面目そうな子だ。きっと将来、良妻賢母になるタイプ。

 肩の辺りで切り揃えられた殆ど茶色に近いブロンドの髪。オーナーの執務室前に据えられたデスクの下で大人しげに揃えられた、膝丈スカートから伸びる脚。むちむちっとしてて、でも足首は不思議なほどきゅっと締まってる……もっと見せてくれ、もっとだ……って、おねだりしたくなるくらい最高……


 彼女はまず、デスクトップ・モニターの向こうからちらっと目を向け、俺の両脇に腰掛けているバーバリアンズに笑みを投げかける。子供好きなんだな、すばらしい。

 そこでしばらく意識を留まらせてから、やっと決意が固まったんだろう。俺の方に、恐る恐る視線を移動させる。俺が微笑みかければ、すぐさまその頬は林檎の色に早変わり。軽く八重歯を見せるはにかみ笑顔は初々しくて、思わず内心舌なめずりをしてしまう。


 その心温まるやり取りを監視していたかのように、内線電話が鳴り響く。受話器を取った彼女は、もう一度俺へ横目を走らせてから、ぽっぽと顔へ一層の熱を集めた。

「ファンダメントさん、どうぞお入りください」

「ありがとう、ミズ……」

 デスクの上に乗った「V.オハラ」のメタル・プレートへ視線を落とし、俺は何度も瞬きをする彼女の瞳を覗き込んだ。

「オハラ。Vはヴィクトリア?」

「ヴィヴィアンです」

「へえ、凄いな。二重の意味でヒロインだ」

 もう一度ぱちくりする長い睫の動きを止めてやる為に、テーブルへ手をついて軽く身を屈める。低めた声は、耳たぶが息を掠めない程度の距離でも聞こえるけれど、二人っきりで内緒話をするにも申し分ない大きさだ。

「君はヴィヴィアン・リーで、スカーレット・オハラ。どう転んでも、強く美しく賢い主人公になるのを運命づけられてる」


 「あーあ」と背後から聞こえてくるわざとらしい溜息。ちびっ子達が、呆れ果てて肩を竦めているのが手に取るように分かる。

「ドニー!」

 そして支配人室から聞こえてくる厳しげな声。今にも飛び上がりそうなヒロインに、唇を窄めてみせるようなあざとい真似はさすがにしなかったけど。


 このホテル・テノーリオは、立地だけでも十分いい感じ。マーガレットペース・パークと入り江を挟んで向き合う海辺の位置、プライベート・ビーチ付き。

 すっくとそびえる、広げたトランプの手札みたいな形をしたシャンパン色の摩天楼は、ビスケーン湾の絶景を独り占め!……とまでは行かないけれど、立派なオーシャンビューだし、対岸にあるビーチのネオンは、まるでジュェリーショップのショーケース。お客様、どうぞあちら側の島でエキサイティングなナイトライフをお楽しみ下さい、って訳だ。

 うちの店も、一族が経営してる3つのホテルからお越しのお客にはペリエ・ジュエのそこそこ良いシャンパンをサービスしてる。


 まあ、俺が初めて来る宿泊客ならトリバゴで星4つ位はつけるホテル。身内としてなら……星3つか。


 この街に3つある「ファンダメントのホテル」を切り盛りするのは、親父の最初の奥さんの長男、ジェフリー・ファンダメント。こいつのせいで、ホテルは星を一つ失う。 

 そりゃ、客への愛想は良いんだろうさ。誰だってそうだ。みんな札束は好きだろ? それに足が着いてたら、どんな手段を使ってでも自分の元へ引き留めたいと思うだろ?


 俺が誰の目からでも親父の面影を見いだせるグッドルッキング・ガイなのに比べ、ジェフはチェコ貴族の血を引くお袋さんの血が濃かった。物静かだけど自信満々、プライドが34階立てのこのホテルより高い。

 壁際に寄せたフェデラル様式のテーブルに、プリンストンのボート部で主将を務めてた時代に勝ち取ったトロフィーを飾ってるって言えば、大体はお察し。


 11歳も年の離れたこの兄の事が、俺は昔からどうしても好きになれなかった。お互いのお誕生日会とか、親父の事業が更なる躍進を遂げたときとか、そう言うときにしか会わなかった奴だ。

 近頃は、もう少し話をする機会が増えたけれど。業務関連とか……まあ、つまり、金の話をするために。


 自分から呼びつけておいた癖に勿体ぶりやがって。ジェフはデスク前のアール・ヌーヴォー調な椅子へ渋々腰掛けた俺を、たっぷり3分間無視した。今日のウォールストリート・ジャーナル紙へ目を通すふりをしながら、意識は俺の一挙一動を意識を配っている。

 この振る舞いをマウンティングだなんて思ってるんだから、プリンストン卒も随分幼稚だよな。


「なあ、もしかしてあの絵、ラルフ・ローレン気取ってるとか?」

 最近手に入れた品らしい。赤を基調に、ゴッホみたいに荒々しい筆致で描かれた馬の絵を顎で示す。

 ふーっと大きな、恐らく嘆かわしさを表明する溜息をついた後、ジェフはようやく新聞紙を畳んだ。スーツは多分ラルフじゃなくてジョルジオ・アルマーニ。もっと着崩せばいいのに、もったいない。

「この前交通事故遺児へのチャリティ・オークションで手に入れた」

「ふーん。仕切ってたのはサザビーズ? クリスティーズ?」

「確かクリスティーズだったと思う」

「近いうちにさ。あそこのミスター・クアジンスキーと顔を繋いでくれないかな。今デートしてる子が、とにかく七宝の好きな子で、来月マンダリンでやるオークションに出品されるブローチがどうしても欲しいって」

 もう一度、ふーーっと大きな大きな溜息。総革張りの事務椅子にゆったりと身を預けながら、奴はその鼠色の目に、じっとりとした軽蔑と陰気さをてんこ盛りに湛えて見せた。

「女の尻を追うこと以外、頭にないのか」

 陰には陽を。慣れたもんだ。ひょいっと肩を竦めてみせることで、十分にいなせる程度には。

「それが仕事だからな」


 これだけ俺がフランクな態度を見せてるのに、ジェフは相変わらず辛気くさい顔。背後のぶち抜きではめこまれた強化ガラスの向こうじゃ、紺碧の海が泣いている。こんないい天気だってのに、そんな態度じゃばちが当たるぜ。 


「それで、何だよ。俺、プロモーターと今度やるパーティーの打ち合わせしに行かなきゃいけないんだけど」

「あの子達は?」

「え?」

 話が飲み込めなくて、一瞬素で間抜けな顔を晒してしまう。対してジェフの表情には、確かに緊張がよぎる。片手に持った新聞を、扇でも使うように仰ぎ遮り、視線を逸らす。

普段の厳粛で、人を見下したような色はどこへやら。尋ねる口調は逃げるように早口だった。

「ほら、あの。おまえのボディガードをしてる……」

「あ? ……ああ、あいつらね」


 そうだった、そうだった。こいつはロリコン、というか、俺がクラブでJAYーZとビヨンセ夫妻を見かけて喜ぶのと同じノリで、うちのちびっ子たちを愛でている。

 子供が欲しいならとっとと結婚すればいいのに。跡取りがいつまで経っても身を固めないから、親父は泣いてるぜ?

「連れてきてるけど……呼ぼうか?」

 勝手にニヤつく唇へ、ご機嫌を損ねたこいつが話を長引かせるような事になったら堪らない。いたぶりはとっとと切り上げて、ドアを開ける。


「これね、この記事にかいてあるの、ぜんぶうそよ。彼女はもう、このとき、アトランティック・シティのカジノ王とけっこんする気だったの。ボスとはあそびだった」

「あたしおもうんだけどさー、ボス、ほんとは気のつよい子より、しずかでやさしい子のほうがすきじゃないかって。母性にうえてるのよ、母性に……だからあんたなんか、ぴったりじゃない?」

 デスクへ乗っかったり、かわい子ちゃんの膝の上に腰掛けたりしていたり、その名の通り全く礼儀知らず。どこで躾を間違えたんだ。


 女子たちはネット版ヴァニティ・フェアのバックナンバーを閲覧しながら真剣に討議中。他人の仕事を邪魔しちゃ行けないって、いつもあれほど言い聞かせてるのに……

 まあ、今回はミズ・オハラも結構マジな顔して話を聞いてるから、ぎりぎりオーケイか。

「楽しんでるとこ悪いが、おまえ等ちょっと来てくれ」

 ドアから頭を突き出し指で招けば、獲物の匂いを嗅ぎ当てた猟犬よろしく二揃いの目がこちらへ据えられる。またまた赤面したおぼこちゃんを残し、二人は蛇の住処へ飛び込んできた。


 彼女たちがとことこ室内に入ってくる時も、「こんにちは、ミスター」って挨拶したときも、ジェフはバーアリアンズの一挙一動から目を離さなかった。

 椅子に腰掛けた二人にまじまじと見つめ返されると、ようやく呪縛が解けるらしい。椅子を回転させるとき、がたっと大きな音が鳴るほど勢いよく足をデスクにぶつけてる。引き出しから目当てのものを取り出そうと俯いたこめかみには、微かに汗が滲んでいた。

「ハワイから取り寄せたマカダミアナッツ・チョコレートがあるんだが、いかがかね」

 すぐさまこちらに視線を寄越す二人へ頷いてみせる。いくら俺たち兄弟がいがみ合ってるからって、菓子如きで恩を着せたりしてこないよ、多分。


 抱き上げて膝の上へ乗せてしまえそうな位置まで近付いてきても、骨の髄まで見栄ってものが染み着いた兄には、箱を差し出すしか出来ない。

 一粒取りながら「ありがとう」ってお礼を言うちび達は、その思惑を薄々察してる。上目遣いの笑みは確かに無邪気そうだけど、一抹の不審は瞳の奥から決して消えていない。

「遠慮はいらない、全部食べなさい」

 そんな上擦りを、株主総会でちょっとでも見せてみな。一瞬で総会屋の餌食にされるぜ。


 狐につままれたみたいな顔でダイアンが持ち帰ってきた箱から一粒失敬し、口に放り込んでから、俺は椅子の中でゆったりと足を組み直した。

「俺は忙しいんだよ、兄貴。話をしようぜ」

 おもむろに、兄貴はデスクの上のスマートフォンを取り上げた。人差し指で何事が打ち込めば、俺のスラックスのポケットで振動が起こる。


 テキストで送信された住所と氏名へ目を通しきらないうちに、奴は一言。

「そこへ行って、説得してこい」

「誰を。クレーマー? ルームサービスの炒飯に海老が入ってなかったとか?」

「違う。おまえの姉だ」


 ちなみに俺の兄弟構成だけど、親父と最初の奥さんの間に生まれたのがジェフ、ニューヨークでキュレーターをやってる姉、銀行に勤める兄。二番目の奥さんとの間にグループの顧問弁護士をしてる姉とレストランを4つ位経営してる投資家の兄、三番目の妻の一粒種たる俺に、4番目で今アンドーヴァーに放り込まれてる弟と……

 現行の奥さんとは、どうだろう。さすがにもう……いやいや、分からんぞ。


 記された住所はワインウッド。俺の記憶にある限り、そんな「洒落た地域」へ住んでる親族は一人もいなかった。

「父さんが1982年に、どこかのパーティーガールに産ませたらしい。2週間前、ジルのところへ連絡を入れてきた」

「へぇ! DNA鑑定は?」

「結果待ちだ」

 ジェフの表情が不愉快そうに歪む理由は、非嫡出子を30年以上放置していた親父に対する義憤。そして財産分与へ対する問題が今後一層ややこしくなりそうだとの懸念。恐らく比率は0.5:9.5くらい。


「親父は認知するのか」

「だんまりを決め込んでる。多分、鑑定の結果が出るまでは」

「つまりさ」

 椅子の前足を浮かせながら、俺はごろんとしたマカダミアナッツを奥歯で噛み砕いた。

「俺に親父のケツを拭って来いってことだろ。認知を諦めさせるように。そんなの、専門職のジル姉さんにやらせりゃ良いじゃないか」

「一回出向いたとき、盛大にやりあったらしくてな。もう二度と、顔に引っかき傷は作りたくないと怒ってる」

 偉大なるファンダメント家よ栄えあれ。多かれ少なかれ、親父の気の短さは子供たち全員に受け継がれてるって訳だ。

「俺の顔には引っかき傷が出来ても構わないのかよ」

 頷こうとして、ジェフは俺の隣でひそひそ話をしているバーバリアンズに気付いたらしい。「ひっかききずはやぁね、かっこわるいわ」「あたしたちが、やりかえそうよ」

「おまえは女のあしらいが巧みだ。それに」

 首を振りながら、奴は心底嫌々という風に言葉を続けた。

「14分の1ずつと16分の1ずつって言うのは、全然違う」

 ごもっとも。


「分かったよ。取りあえず会ってみる」

 それでもう、ジェフの顔は普段通りの高慢ちき具合を取り戻している。これまで生きてきた中で出した命令が、全て聞き届けられてきた男の顔だ。

 一言物申してやらねば気が済まなくて、ドアの前で一度振り返る。この親父そっくりのハンサムな顔を、思いきり突きつけるようにしながら。

「なんで親父は、お前じゃなくて俺に、自分と同じドナルドって名付けたと思う?」

 ジェフの目は俺ではなく、「チョコレート、ありがとう」って手を振るバーバリアンズをじっと見つめていた。

「死ぬまで自分の口座から金を出して、面倒を見てやらなきゃならないって知ってたからだろう」

 

 冷血漢の兄貴と違い、ミズ・オハラは血の通った天使だ。姿が見えなくなるまで、俺の背中に憧れの眼差しを注いでいた。

「ヴィヴィアン、とってもいい子よ」

 小脇に抱えたチョコレートの箱をガサガサ揺すり、メイが囁いた。

「ボスのこと、かっこいいって。とうぜんのはなしだけど」

「でんわばんごう、おしえてくれた!」

 ダイアンが旗みたいに振り回す皺くちゃのメモ書きに、思わず苦笑する。

「おまえらなあ。俺がどれだけ節制なしだと思ってるんだ」

 ヴィヴァルディの『四季』が小さな音で流れる役員用エレベーターに乗り込んだ途端、バーバリアンはきょとんと目を瞬かせて、それからお互いの顔を見合う。

 続いてダイアンが放った言葉付きは、普段の闊達さなど影も形も見あたらない、戸惑ったものだった。

「ちがうの?」



 ホテルから自称姉の家までは目と鼻の先だ。二本の州間高速道路が交差するジャンクションの方角へ、普段使いにしてるメタリックシルバーなポルシェ991の鼻先を向ける。

 「アート・スタジオ」を自称する古屋や、個性的なブティックに沿って10分も走らないうちに、後部座席で意地汚くチョコレートを食い散らかしていたダイアンが「でもさ」と声を張り上げた。

「ふつう、もっとびっくりしない? しらないおねえちゃんがいたなんて」

「まあ、予想できたことだからな」

 金を稼ぐのと同じくらい女を侍らすのが好きな親父は、本来結婚なんかして良い人種じゃない。結婚式のたびに、今度こそこの女と一生涯添い遂げますと誓ってるらしいけど、どうだかね。今の奥さんは俺とそんなに年が変わらないんじゃなかったっけか。


 自分の事を棚に上げる訳じゃないけど、俺の女遊びはさっぱりした綺麗なもんだと思うし、慢性的人間不信気味のジェフだってそうだ。

 上の兄貴や姉貴には結婚してる奴だっているが、今のところ大きな家庭問題を抱えてるって話は聞いてない。少なくとも、前妻が現妻の家の固定電話に300回近い無言電話を掛けたりとか、そういうことは。


「ちょっと、かわいそうな気もするけどね」

 窓の外を流れるショーウィンドウを眺めながら、メイが呟く。

「おとうさんに、おまえはうちの子じゃないっていわれるなんて」

 途端、しん、と静まり返った車内。バックミラーへ目をやれば、ダイアンすらも黙り込んで、ぼりぼりチョコレートをかじっている。


 二人の生い立ちについて、俺は詳しいことは知らないし、彼女たちも語らない。親父の紹介で連れてこられた時から今までずっと、彼女達はバーバリアンズで、小さな女の子だ。

 俺だって離婚の前も後も、親父とは仕事だ何だと碌に顔を会わせなかった。けど少なくとも金だけは十分にあったし、こうやってファンダメントの名前を名乗っている。何よりも、俺にはお袋がいた。二人にはいない。実際、昔尋ねたときそう言っていた。


「可哀想かな」

「わかんない」

 ショートパンツから覗く膝を掻きながら、ダイアンは素っ気なく答えた。

「わるいパパなら、いないほうがいいんじゃないの」

 悪い父親、良い父親。世間の連中は、俺が何か成果を上げるたびに、媚び諂った笑顔と共に誉めそやす。「さすがあのお父上の息子だ」。

 一般的な見解だと、ドナルド・ファンダメント・シニアは全くもって大した奴で、素晴らしい男なんだろう。で、子供たちにとってはクソ親父。

 間違いなくそうだ。言い訳は許さない。

「その通りさ。例の姉貴にも、その事を教えてやらなきゃ」

 いつも通りの肯定を期待して、わざと明るく促したのに、どう言うわけか返事は戻ってこなかった。



 カーナビに導かれるままたどり着いた一軒家は、想像を大きく裏切る佇まいだった。

 古びた木造二階建てだけど、定期的な最低限の手入れは施しているらしい。門柱の脇に並べたプランターにはパンジーが咲いていたし、ノーム人形はいい笑顔。

 貧困母子家庭って言うより、ブルーカラーの旦那がパートタイマーの妻や小学生の子供と住んでそうな感じ。


「ふつうのうちじゃん」

 小人のとんがり帽子を手で撫でながら、ダイアンが傾げた首の上から呟く。

「ふつうすぎて、つまんない」

 本当、あまりにも平凡だった。通りに並ぶ建物の壁という壁にカラフルなスプレーアートが爆発し、人と違う事こそステータスなこの辺りにおいて。


 とは言え、ドアベルを押すまでには、さすがに少し緊張も感じる。すり切れて文字の薄れたウェルカム・マットに靴の裏を擦りつけ、2度ばかり咳払い。

 日に焼けてひび割れたブラスチックのボタンが澄んだ電子音を響かせる時になっても、実のことを言えば、俺は全く考えていなかった。現れた相手に冷たくすべきか、優しくすべきか。


 音が途切れて10秒ほど後に、傍らの窓へ掛けられていたレースのカーテンが揺れる。ドアが開くまでに、時間は要さない。

「ミズ・パスクワーレイ、マリオン・パスクワーレイ?」

 俺の顔をじろじろ眺め渡した女性は、すぐさま口を開いた。放たれたのはぐっとくる、腹の底を震わせるような低音ボイスだ。「私の弟ね」


 家の外観が持つイメージと何一つ変わらない、こざっぱりした居間に通される。

 麻の敷布に覆われる布製のソファは二人掛け。ぎゅうぎゅうと尻を詰め込んで待つ俺たちの元に、マリオンは缶入りのコークとギネスを二本ずつ持って戻ってきた。

「その子たち、私の姪っ子?」

「いや、信じないかもしれないけど、ボディガードみたいなもんで」

「そう」

 それ以上追求することなく、彼女は引きずってきた食卓椅子に腰を下ろした。


 ダリル・ハンナとか、キム・ベイシンガーとか、あの手のイメージ。彫りの深い顔立ち、がっしりした骨格と、V8エンジンみたいな心臓を持っていそうな女性だ。もっとも彼女の髪は、渋皮色だけど。

 洗い晒しのデニムとTシャツの飾り気がない出で立ちは、ビールと組み合わされる事で警戒心を擦り落としていく。


「それで、なんのご用? 訴えを取り下げるよう説得に来たの?」

「その言葉通りのことをするよう、兄に言われましたよ。ミズ」

「堅苦しい言葉使いはなし。それと、友達はみんな私のことをマリオンって呼ぶわ」

「じゃ、マリオン。でも俺の目的は違う」

 缶の飲み口へ唇をつけたところで、キッチンから白い毛玉が姿を現す。


 サモエドと何かのミックスだろう。この暑さにもめげることなく、くるりと巻いた尻尾を元気に振っている。

「かわいい!」

 本当に懐っこい犬だ。興奮してソファを飛び降りたダイアンにも、怯んだ様子は見せない。むしろ自ら小走りで駆け寄り、ぽちゃぽちゃした頬を一心不乱に舐めている。

「ふわふわね」

 柔らかい背中を撫でながら、メイが自らとそれほど変わらない位置にある顔を、じっと覗き込んだ。

「でもなんだか、かなしそうなかおしてる」

「テリーは小さい頃から、そんな顔なの。二人とも、その子と一緒に遊びたくない?」

 マリオンの提案に、二人は是も非もなく頷く。

 今住んでるコンドがペット禁止だからって理由で、これまでペットに関してはおねだりされても一律却下してた。でもこんな嬉しそうなら、今年のクリスマスにでも検討してみるかな。


 庭で歓声を上げながら転げ回ってる二人と一匹へ向けていた目を、やがてマリオンはそっと伏せた。尻の下に敷いていた片足から、ミュールがことりと音を立てて落下する。

「母はいつも、早く孫の顔を見せて頂戴って言ってたわ」

「お母さんは?」

「死んだ」

「それは、悪いことを……」

 マリオンは首を振って、膝に乗せていたギネスをまた一口煽った。

「学があった訳じゃないけど、自立した女性だったわ。最後まで私の父親を一度も責めなかった。そもそも彼の名前を出したのも、死ぬ間際だったし」

「苦労したんだな」

「『狭いながらも楽しい我が家』よ。貴方は? 豪邸暮らし?」

「とんでもない」

 思わず口に含んでいたビールを吹き出しそうになる。

「俺のお袋はアバントーラのバナナ・リパブリックでレジを打ってたんだ。そこへたまたま、レストランで食ったボロネーゼ・ソースをシャツに飛ばした親父が駆け込んできて……ってシンデレラ・ストーリー。結婚してもケンドールの隅っこで大人しく暮らしてたよ」

「そんな感じがする」

 掴んだ足首を小さく回しながら、小さく声を立てて笑う姿は、言われてみれば親父に似ているのかもしれない。

 ほんの時たま仕事を休み、家でリラックスしながらお袋と共に俺の将来を設計していた親父に。


「愛されて……大事にされて育ったって感じがするもの」

「どうだろう。親父は俺が小さい頃に離婚してる」

「でも、お母さんとは仲が悪くなかったんでしょう?」

 そう言って細められた目尻へ、傷があるのに気付いたのは、窓から差し込むうららかな日差しのおかげだった。

「うちはあんまりね。お酒をよく飲んでたし。おかげで私もビールが大好き」

「アルコールって、気がほぐれるだろ。俺もよく、初めて客の前へ出る子には、ジャック・ダニエルズをダブルで飲ませてる」

「随分悪い仕事してるのね」

「性的なサービスを提供する接客業。君は? なんて聞いていいかな」

「平日はウェイトレス、休日の夜は救急病院の事務をしてる」

 答えながら、彼女はまたキッチンへと向かった。ミュールはもう両方とも脱ぎ捨てられ、大きめの足が傷だらけのフローリングでぺたぺた音を立てる。

「ビールを飲むか、時々マイアミ・マーリンズの試合を観に行く位しか趣味がないの。だから貯金も出来たし、それで今回名乗り出たって訳」


 彼女は、固い座面の食卓椅子へ再び腰を下ろさなかった。二人分の体重を受け止めたソファが、小さく泣くような音を立てる。

「私の夢は、この近くでカリブ海料理のレストランを開くこと。だからって、ファンダメント・シニアにお金をたかるつもりはないわ。財産分与の名簿から外してくれても全然構わない」

 背もたれに腕を引っかけ、こちらを掬い上げるような瞳は、アルコールのせいだろうか。精巧にカットされたエメラルドみたく、細やかに輝いて見えた。

「私が欲しいのは、ファンダメントの名前。これがあるだけで箔が付くし、メディアも記事を書いてくれる」

「本当に金はいらない?」

「必要な分は持ってるもの」

 意志の強そうな目に、嘘は見あたらない。彼女と同じように背後へ投げ出していた手を回収し、顎を擦る。

「それなら、兄貴たちも納得するんじゃないか」

「この前来た弁護士の女は、てんでだめ。しまいにはコップを投げつけてきたわ」


 出来るだけ彼女へ触らないよう、わざと気を遣って姿勢を正したのに。マリオンはお構いなし。寧ろ自ら積極的に、俺の二の腕へその雄大な膨らみを押し付けてくる。

「口利きをしてくれない?」

「うーん」

 気付けば飲み干していた二本目のギネス缶をへこませ、俺は呻いた。

「姉さんの頼みなら断れないって、言いたいところなんだけど」

「貴方を信用してる」

 薄いTシャツに描かれた、ミッキーマウスの手形を引き伸ばすほど、その胸はたわわで張りがある。

 そこはおろか、みっしりと弾力のある肉が詰まった上半身で擦るようにしながら、彼女は俺に耳打ちした。ビールと、よく干した藁のような匂いが、ふわふわと漂ってくる。

「だから本当のことを言うわ……正直ね、私たちって、本当に姉弟なのか、怪しいものなのよ」

「なんだって」

 べこべこと音を響かせるアルミ缶すら意識から遠のく。思わず俺は目を見開いた。

「母さん曰く、1980年代にデートしてた男性は、シニアだけじゃなかったって。比較的可能性が高くて、一番有名だったのが彼ってだけの話よ」

「でも、DNA鑑定したんだろ」

「それには秘策があるの」

 くっくと喉を鳴らしながら、彼女は額を俺の肩に押しつけた。

「だから大丈夫。これで隠し事はなし。どう、手伝ってくれる?」


 実際に血が繋がっているかどうかは別として。彼女みたいな女性が家族の一員になってくれたら、楽しいだろうなとは、確かに思う。


 俺は基本的に一人っ子として育てられたから、兄弟姉妹ってものへの憧れが強いことは自覚してる。

 それに、憎み合い、お高くとまり、堅苦しい家族の中、きっと彼女は素晴らしい清涼剤の役割を果たしてくれるに違いない。

 とにかくうちの一族ってものは、お互いの事を血に飢えた狼だと思ってるし、金品への終着が強すぎるんだよ。彼女の爪の垢を煎じて飲んで欲しい。


 もしも彼女を誘い入れた場合の戦略図を頭へ浮かべようとするけれど、ソフトボールみたいに反発するおっぱいが邪魔をする。

「何にせよ、君の母親が一時期でも親父と付き合ってたことは確かなんだな」

「ええ。証拠もあるわ」

 それまでお互い汗ばむほどくっつけていた身は、呆気なく離される。ギネスの缶を掴んで立ち上がると、マリオンはひらひらと手招きをしてみせた。

「二階の寝室に、確かアルバムがあったはず。上がって見せたげるわ」

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