夜明けの質量
平方和
夜明けの質量
終電車を逃すまいと若手達は周章てて退出して行った。デスクにかじりついているぼくに、いたわる様な言葉を投げて連中は週末の帰途についた。誰もがすまなそうな言葉を口にしてはいたが、その口調に感情は篭っていなかった。打ち続いた仕事が終って、ようやくの週末なのだ。本心は解放感にあるのだろう。
誰もいなくなったのを見計らって、オフィスの灯りを半分落した。若手達がつけたままにして行ったオーディオからのFM放送が、ソウル系の音楽ばかりになっている。和む気分ではないので、スイッチを切った。少し冷えすぎている冷房を、若干緩めた。窓から見渡せる近隣のビルのオフィスも大半が暗くなっている。既に仕事をする時刻ではないのだ。
ぼくはパソコンのソフトをワープロに切り換えた。書こうとしている手紙の内容を思うと、気が重かった。こちらの立場や状況を悟られない様な文章を書かなければならない。それは複雑な作業だった。
複雑な文章を組み立てる思考の空間の外に、纏いつく様に黒い揚羽蝶が舞っている気がした。それは捕えると、手の中で形を失くすのだ。ぼくはその感覚を知っていた。実際それは嫌な手応えだった。
今朝も徹夜でここにいた。未だ陽の昇らないままに辺りが明るむ数十分は、ほんのひととき暑さを忘れられる時刻だった。その気温に応えてひぐらしの鳴く声が、遠くから聴こえていた。オフィス街の中に僅かな緑をたたえた公園の辺りで鳴いていたのだろう。他の蝉とはまるで違う情緒を感じて、ひぐらしには惹かれてしまう。その声には緩急と強弱の、泰然とした揺れがある。それが感情に訴えるのだろうか。
やがて曙光が差し初める。けれどこのビルの谷間では、日差しは先づ屋上の連なりに留まる事になる。街路に残る蔭を辿って駅へ向かった。夜明けの列車の乗客は、概ね疲れ果てている。けれどこの季節にだけ、妙にはしゃいだ一群が乗り込んで来るのだ。
残り少なくなった夏の休みを楽しもうと意気込んで、旅装の人々は表情を輝かせている。疲れた乗客との落差は大きい。眠気を払うのに何等有効な手段ではないと判っていて、けれど意識を保つ為にぼくは、理由もなく足を組んでいた。その足の先を横切った乗客も旅装だった。
離れた場所の座席についたふたりの女性は、母と娘だと知れた。高校生らしい体格と服装の娘を連れて、楽しそうにしている女性に、見覚えがあった。もう二十年も経っているというのに、面差しはまるで変わりなかった。
「あのひとはどうしてるかな」
と、この人の事が話題に上ったのは、つい先日の事だった。そんな偶然は、やはり往々にして起こり得るのだろう、と思った。
全く消息を知らない、とぼくは友人に答えた。友人は何年ぶりかで上京して、ぼくを尋ねたのだ。大学時代の友人だったが、こいつは早々にドロップアウトして田舎へ去ってしまった。それなのにどういう腐れ縁なのか、こいつはぼくを忘れず、こうして時折顔を見せにやって来た。
忙しい時間を遣り繰りして、夕食を共にする時間を作った。互いにとって馴染みのある街の、酒場を選んで待ち合わせた。年若い会社員達で賑わう店の片隅に、ようやく腰を落ち着けた。僅かだけ酒を呑んで他愛のない話をした。
養ってるつもりなんてないよ。生活を買えばもれなく女房がついてくるってなもんだ、と友人は笑った。故郷で彼は実用品とも土産物ともつかないものを、手作りして生業としていた。まるで気さくに接して呉れるから、ぼく達の間には何のわだかまりもないかの様にさえ思えてしまう。こいつはかつてのぼくの仕打に、まるで恨みを残していないのだろうか、と思った。
どうして夢の話などになったのだったろうか。ぼくは時折、高校生に遡った夢を見てしまう。その話になった。夢の中でぼくは家族に起こされて朝食の食卓にいる。登校すべき時間になっている。その高校の場所が妙に遠いイメージなのだ。電車を乗り継ぎ、バスに乗り換えて辿り着く程の場所らしい。
夢の中のぼくには、その道程が未だに理解出来ていないらしかった。どう行ったら良いのだろうか、とぼくは考えていた。出掛ける時間は迫っているというのに、答えが見つからず、ぼくは焦っているのだ。
友人はその話に笑った。今ではどういう訳か早起き出来るのだが、学生の頃には俺も寝覚めが悪くてね、と友人は話題を変えた。布団の傍らで三十分もぼんやりしていたものだ、と友人は言う。実はあの時にこそ骨格がきしんで、背が伸びていたんじゃないかと思うんだ、と笑った。
ひとしきり笑った後で友人は続けた。若いという事は、何につけ丹精だったものだ。字ひとつ取っても、点や画をおろそかにしてはいなかった。歳を重ねるというのは無念だな。かつて丁寧に書けた字が、だんだんと崩れて来てるよ。
そう言われて、ぼくは自分の字を顧みた。何を焦って暮しているのだろう。慌ただしく書いて、細部があやふやになってしまっている。学生時代もこんな字を書いていただろうか。全てを手書きしていた時代の、手紙を思い出していた。
今日も暑い一日だった。出先で時間をもて余し立ち寄った本屋で、平積みされた本を眺めていた時に、顎から汗が落ちて困った程だ。会社への帰途にあたる真新しい駅の、プラットホームはタイル敷きだった。光沢のあるタイルは日差しを反射し、下から人々を照らしていた。
そんなホームを先端まで歩いた。上りと下りの線路が左右から寄り添う流れの舳先に立つと、風が吹いた。意外な涼風だった。夕刻になると涼風は、街角にも吹いた。暑かった日中を思うと、何かの間違いの様にさえ思えた。
友人とひとりの女を競った。確かあの年も暑い夏だった。ぼくは奥の手を使った。やがてはそれを悔いて身を退いた。それから長い孤独の人生を送って来た。
退くという事を友人も語った筈だ。酒席の話題はどんな風にそこへ流れ着いたのだったろうか。あいつが語ったのは、自分自身についてだったのかも知れない。けれどそれは偶然にも、ぼくの抱える問題に答える結果ともなっていた。
人が状況に悩み落ち込んだ時、これ解決する為には、どんな親身な相談も無駄だろう、と友人は語り起こした。どう解決したのだ、と問うたぼくは、過去の出来事を語っているかに見せてその実、切実にその時そこで答えを欲していた。
解決方法といえば状況を変える以外にはなかった、と友人は語った。だからこそ東京を捨てた。だが今は、その事を恨んでなどいない。
自分のしでかしたとんでもない悪事の証拠を押えられているという事で、却って逃げ道を絶たれていると認識していた。だからこそ正直に暮して来れたのだ、と友人は言った。
夜更けの列車で帰る友人を送って、夜の街を駅まで歩いた。その道すがらに化粧品店の店頭に張られたポスターに目を留めたのは、ぼくとあいつと殆ど同時だったかも知れない。娘程の年齢の女優のアップの写真だった。似ているな、と友人は言った。同感だった。
ぼくはテレビや雑誌でこの女優を目にする度に常に、別れた人、という感覚を抱いていた。いつか別れた恋人という情感だけを持つ不思議な存在として、この女優を見て来た。こいつに言われてようやくその理由に行き着いた。その女優にはあの人の面影があった。女優の年齢こそが、あの人と別れた年齢に合致していた。そう思う時、ポスターの表情が生彩を増した様な気さえした。
別れた人だ、とぼくはつぶやいていたのだろうか。訊きとがめた様に友人は疑問を口にした。「どうして別れた」
最初は友人に譲ろう、とさえ思ったのだ。あの人を見初めたのは友人の方が先だった。その時にも友人が、関心を喚起したのだった。彼女は、親しくしていたグループの仲間にすぎなかった。恋愛に結び付く様な関心を抱いた事はなかった。
友人の評価に従って、その笑顔に目を留めてみた。それは親愛の情を抱かせる良い表情だった。その時ようやく、この娘と親しく出来たらいいだろうな、というイメージを持った。
ある日、彼女が可愛らしく思えた。髪型を変えたのだろうか、と思った。翌週の講義では、それを意識していた。髪型の変化に注意して、彼女を見た。やはり可愛らしく思えた。髪型だけとは思えなかった。小さな変化を、彼女が遂げていたという事だ。その理由を思索し、どうやら彼女は恋をし始めているのだ、と結論した。その対象を想起した時、譲る訳には行かない、と思った。そして企んだ。かつて入手した一枚の物件を行使した。友人は姿を消した。
そうしてあの人を手に入れたのだ。あの人は、ぼくには不似合いな程に明るく素直な人だった。その日も暑かった。ぼく達は連れだって歩き、会話にいそしんでいた。
通り添いの家の軒下に犬がいた。アスファルトの焼ける日中は散歩に出られないのだろう。犬は扉際に寝転んで、物憂げだった。欠伸をして、尾をふわりと振った。その様子に彼女は、台詞をつけた。欠伸しつつ犬は、退屈だね、とつぶやき、尾はそれに応えて、頷く動作をしたのだ、という。感性は随分と隔たっていた。
クーラーをつけると彼女は肌寒がった。だからぼくの部屋で過ごす夜、ぼくは窓明け放って、名残る暑さに耐えた。けれど一夜睦むと彼女は不思議に同じ体感温度となった。並んで眠る時だけクーラーの作動する室温に馴染んだ。
幾度めかのデートの時に、別れを切り出さずにはいられなくなった。君の感性にぼくでは不足だろう、と説明をする前に、彼女の方から、私こそが相応しくないの、と言い出した。
私にも黒い心はあるから、と言って彼女はいつか授業で書き留めたノートを開いた。丁寧な字で古い短歌が書かれていた。
「のろい歌かきかさねたる反古とりて黒き胡蝶をおさへぬるかな」
授業の通りの解釈を語って、妬みを告白した。
ぼくが排斥した友人は、大学を去って故郷へ戻っていた。それは仲間内では、退っ引きならない縁談があって、と噂されてしまっていた。彼への想いを残している、と彼女は告白した。それはまるで、罪悪を明かす事で罪の荷が下ろせるのだ、と信じているかの様だった。そうして彼女との短い夏の恋は終った。
ポケットを探ると、あの再会の日に友人が置き忘れて行った安物のライターがあった。アルミニュウムの表面に、透明な緑の幾何学模様が書いてある。
昼の車両には、そこそこの乗客があってぼくは座席を見つけられなかった。だからドアの脇に立った。手の上のライターが車窓の日差しを反射した。その緑の光沢が、妙に郷愁をそそった。それは何処から来るものなのだろう。ぼくはライターをまぢかに引き寄せて、緑の光沢の中に、遠い視線を落して見た。
幼い日にこんな風に、ソーダ水のグラスを覗き込んで見た気がする。グラスの向うで辺りは深海に沈んだかの様に見えたものだ。デパートの食堂の風景が、一瞬見えた気がした。遠い昔の情景だった。クーラーは無かったのだろう。天井で大きな扇風機が回っていた。
退屈していた夏休みの午後に、母が買物に行くと聞いて無理やりついて行ったのだ。目当てはアイスクリームかソーダ水だった。どちらにするかを迷ったものだ。今思えば比較の基準も根拠もない二者択一なのだが。
回想の空間から立ち帰る時、故郷の小さな街は目の下で次第に小さくなって行った。あたかも鳥瞰する様な光景だった。郷愁とは、引き離される事への痛みに似ていると思った。
「貴君の名誉の為、自らの進退を決する猶予を与える」
生意気な文章を書いたものだ。だがこれは義憤に駆られた文章に見えなくてはならなかった。ぼくはそんな文章を、細工する必要があった。断じて恋敵を排斥する事が目的と、悟られてはならなかった。
友人からいつか数冊の資料を借りた事があった。その間に挟まっていた一枚の手書きの文書が、どうも胡散臭かった。どうもそれはぼくらが受けた入学試験の問題と一致している様な気がした。だからぼくはそれを手許に残した。
やがて担当教授の手跡を知るに及んで、その文書の意味が判った。裕福なあいつは、これを親にねだって買って貰ったのではないだろうか。他人がどんな事をしていようと、大して関心を持つ性格ではなかったから、そうと知ってもつき合いはそれ迄と変わらなかった。
けれど事が恋愛となるとぼくも目の色が変わってしまった、という事だ。ぼくは正義漢を演じた。そして手許にある文書をかざして、友人を批判した。友人は悪びれる事なく、事実を認めた。やがて彼は大学を去った。
そうまでして成し遂げた恋も、はかなく終った。手許には存在の意味を失った文書だけが残った。ある夜ぼくはそれを台所のガスレンジにくべた。ブラックメイルとは脅迫状の事だと当時、映画か何かで知った。薄い紙はガスの青い炎に焦げてその本性を現したのだろうか。たちまちのうちに黒い塊に姿を変え、それと同時に質量を失って揚羽の様に舞い上がった。
ぼくは周章ててそれを追い、空中で握り潰した。紙の表面のざらついた感触や、握り固める時のきしみに似た音を、ぼくはその一瞬にイメージしていた。その時確かに、ぼくは形ある物を壊した筈だった。けれど実際には、まるで手応えを感じられなかった。黒い物体として姿を現した悪意をこの手で捕えた筈なのに、その息の音を止める瞬間に、まんまと逃げられてしまった様な気がした。てのひらに余った握力がどうにも不快だった。
その時、彼女の言った古い短歌の本当の情景に思い至った。与謝野晶子もまた、反古の半紙を手あぶりにくべたに違いない。
出勤の交通はJRだった。帰路にはクライアントの会社から地下鉄に乗る事が多かった。だから今日の様に出先からJRを利用したりすると、出勤がいつまでも続いているかの様な気分になった。それはまるで円周を描いているかの様なイメージだ。
扉脇に立って、戸袋にあたるガラスに張られた小さな広告を見ていた。連日の徹夜に、神経は参っている。妙に目蓋が震える時がある。視線が意識もなく逸れる時がある。そんな症状のひとつに違いない。缶飲料の広告の中で男優が僅かに動いた気がした。
夜は更けてプリンターのファンの音だけが響いている。手許に置いた珈琲は、とうに冷めていた。ワープロに向って数時間になる。打ち込んで消した文章は、相当の数になるだろう。
ぼくはまたブラックメイルめいたものを書かなくてはならない。かつて悔いた筈の事を、こんな年齢になってもう一度繰り返そうとしている。あの時握り潰した物の、嫌な手応えを忘れる事など出来ない筈なのに。
ぼくの担当する企画の経費の中からぼくが出しているリベートを、匿名で告発しようとしているのだ。リベートの受給者は、ぼくの会社を見限った。今回のキャンペーンの終了を以て、取引きを終らせようとしている。そうさせる前にこの人物を排斥する必要があった。
この人物の上司に宛てて、リベートの事実を明かす。そうして当人を担当から外させる。けれどこの情報源は悟られない様にしなければならない。書かなければならない文章には、細心の注意が必要だった。
始発電車の時刻が近付いていた。すっかり昼夜のずれた生活をしていて、これで当り前だと思い始めている。そうまでして支えているのはリベートで繋ぎ留める仕事だ。いったいこんな事をぼくは望んでいたのだろうか。
かつて排斥した友人は、ぼくに蹴落された場所で豊かな生活をしている。仕事に息も詰まり掛けているぼくとは、まるで対照的な人生だ。二十年という歳月の末に、こんな結果が待っていようとは、思いもしなかった。
表向きだけは正義を振りかざしてその実ぼくは、また罪悪を背負い込もうとしてしている。一体この仕事が、それ程のものなのだろうか。これを失う事など、大した事ではないのかも知れないではないか。
罪の荷を下ろす事を語ったひとがいたではないか。状況に悩む時の解決方法を語った友人がいたではないか。回想に耽けるのは逃避の兆候なのだ、と判ってはいた。冷めた珈琲は、酸味ばかりを舌に残した。ワープロの文章はいくら時間を掛けて書いても、まるで要領を得ない。遠くでひぐらしが鳴き始めていた。
始発電車の車窓の情景が、どこか違うと思った。ビル街の蔭りが昨日より重い。まして先週あたりに比すれば、まるで違う暗さだ。ここから自宅のある駅までの距離で、確実に夜は明ける。すると夜明けに要する時間が短くなっているという事なのだろうか。ここから夜明け迄の時間が同じだとすれば、今の暗さの密度は秋の歩みと共に濃くなっているという事なのだろうか。
短い文書をぼくは、ぼくの上司に宛てて送信した。経費として提示した項目のどれが、実際にはリベートだったのかを明確に書いた。社内的にはぼくが排斥される事になる。それがクライアントにまで波及するかどうかは、会社の倫理観に任せるしかない。何がどうなるにせよ、動きに従うだけの事と、ぼくは覚悟を決めていた。 (了)
夜明けの質量 平方和 @Horas21presents
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