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 名前の覚えられない珈琲は、まだ熱さを保っていた。口にすると剰りに苦い。周章てて砂糖を取りに立った。珈琲店は客で満ちている。

「ブエロ・バリェホお待ちのお客様」

 とメニューの名前を頭に付けて客を呼ぶ声が響く。音量・音程ともに常に一定のレベルを保っている。パントリーで、備えられた砂糖を取り、木製のマドラーを取った。

 砂糖を三袋分投入した。それだけ入れて漸く無味になった。向いの席には紙カップだけがあった。そこに陰が射して、艶のある声が甦った。

「人を信頼してる奴の表情は判るだろ。これに嘘は混ぜられない。そこを利用してやるのさ」

 それは反乱軍の地下活動部隊幹部の台詞だった。共和国軍の警察組織に陰謀を仕掛ける場面だ。スパイ要員を下手に座らせ、久能氏は上手の物陰に身を置いた。幹部は陰の中から指示を出す。スポットライトに肩を掠めさせ、ステージには異形の影が伸びた。そして彼は、顔を見せないままにこの言葉を口にした。


 久能氏が握っていたのは、秋庭氏の横領の証拠ではなかったのだ。元来そんなものはなく、ただ身延さんの流用の事実を知っていて、それをネタに秋庭氏に脱退を迫ったのだろう。

 秋庭氏が去った後、劇団には資金が失くなった。表面から見ればそれは久能氏が告発した通りで、紛れもない窮状だった。現況を打破するには俺が経営を握る、と久能氏は事務室を占拠した。経営を建て直すべく、帳簿調べが連夜続いていた。事務方の下端としてぼくも駆り出されていた。

 そんな夜、久能氏と二人きりになった折に、ぼくは彼に言った。

「幾ら帳簿を見ても、秋庭氏の記帳した部分からでは何も出ては来ませんよ」

 久能氏の手が停まった。

「いったい四〇万円という具体的な数字は何処から出たんですか」

 なんだと、と久能氏は言った。

 あなたは知ってるのでしょう、何処に穴があって誰の責任なのか。

「知らんね。おまえこそ何か知ってるのか」

 と久能氏は睨みつけた。

 あの夜を境に、攻撃の対象はぼくに向けられた。久能氏は事務経費の領収書の綴りをひっくり返していた様だった。その末に、使途不明な領収書が通信費として処理されていると、言い出したのだ。

 何なのだろう、この高級な酒場の領収書は。アンダルシア料理、バルセロナの酒、そんな角書きの店名印がある。貧乏な役者には、まるで縁の無い店ばかりではないか。勿論、ぼくはそんな領収書を提出してはいない。


 珈琲店のテラス席に、フォックステリアを連れた女性が座っている。外はもう寒いだろうに、と思うが、犬連れでは仕方ないのか。主人の脇に座ってぼくをまっすぐに見る、その犬の表情が清々しい。犬は人への信頼を揺るがす事がない。

「意外に元気そうですね」

 と背後から声が掛かったのは、ミニシアターの座席での事だった。独立プロダクションの単館上映作品を見る為に、足を伸ばした街の小劇場だ。

 離合衆参していた時代の劇団で、一度だけ共演した奴がいた。彼とはウマが合って、その後も付合いは続いた。こいつがチケットを送って呉れた。今回は結構良い役で出ているから、と。作品はレイトショーだけの公開だった。そこで夕食を終えてから都心へ出たのだ。

 ミニシアターでは夕刻からの作品がまだ続いていた。終了をロビーで待った。次回を待つ観客は、僅か三人だった。前の作品が終って、客席の扉が開くと、眠そうな目をした客達がまばらに退出して行った。

 座席は十列程だった。その真ん中を選んで座った。場内には抑えた音で暗い音楽が流れていた。声が掛かったのは、そんな時だった。秋庭氏だとすぐに判った。

「あなたにまで迷惑を掛けてしまった様で」

 と秋庭氏は詫びた。撒き散らされた酷い嘘は、勿論耳に入っていますよ。劇団の情勢はきちんと把握する様にしていますから。

「あれから久能氏の追求は無いのですか」

と、前を向いたままぼくは問うた。

 探し出して返金させる、などと表向きには言ってますね。しかしお金が何処にも無い事など、彼も折込み済みですからね。実状は暗黙の了解で、互いに目を冥る事になっています。

 その時に客電が落ちた。派手なパンクロックの音響が響いて、トレイラーが始まってしまった。どぎつい赤の画面に、場内が染まった。

「映画が始まります。どうぞごゆっくりご鑑賞下さい」

 と言う声を、漸く聞き取った。明るい画面になった時に振り向いてみたが、後列は全て空席だった。

 こちらが劇団から距離を措いた様に、秋庭氏もまた縁遠い場所に身を潜めている筈だ。互いに消息を知る術もない。けれど、あの人はきっと綺麗に生きてるのだろうと思った。

 それは、フォックステリアの無垢な視線からの連想だった。ぼくに気付くと犬は、口を開いて舌を見せた。明らかに笑顔だ。犬は笑う、犬好きならば誰も納得している事実だ。彼はこの店で演じられたマチネの、観客なのだ。愚かしい老人の言葉に、脚本家の寓意を読み取りつつ、こうして笑っているのだ。

 ――などと、考えてしまうのは、犬の表情に思慮深さを見てしまうからなのだ。こんな風に人は、納得する為にストーリーを作るものかも知れない。


 目覚めれば曇り日だった。十二時を回っていた。駄目だ、今日も起きられなかったと、悔やむ。もう一度午前に戻りたい。戻る為にはもう一度寝て、起き直すしかないだろうか。

 昨夜、漸く電池を買って来た。数日ぶりに電池を入れれば、時計は何事も無かったかの様に動きだした。しかし日付は置き去りにされたままになっている。仕方なく手動で日付を合わせた。コイツの中では三日間が存在しなかったという事になる。

 壁にはプリントアウトされた写真がある。地元の昔馴染みが撮って呉れたものだ。酒場で出逢った時に渡され、持ち帰ってここに貼り付けた。存在しなかった日の、出来事の証明となるのか。あいつのブログに掲載したものだと言っていた。「チェを待つフィデル」とキャプションがある。キューバ革命ではないぞ、全く勘違いしている。

 暗い珈琲店の椅子で、難しい顔をしたぼくがカップを口に運んでいる。この表情を面白がったのか。苦い珈琲に困惑しているだけなのだが。テーブルにはもうひとつの紙カップが写り込んでいる。

 カーテンの隙間から射す日差しは、鮮明ではない。晴れていればともかく曇っていては行けない、などと思う。しかし今日、何処へ行こうとしていたのだろうか。                                  (了)

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ブエロ・バリェホの客 平方和 @Horas21presents

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