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 稽古場には誰も居ない。ぼくはポケットに手を入れた。シリコンオーディオのイヤホンがある。ぼくはそれを取り出した。イヤーパッドは左右を赤・青と色分けし装着してある。先にそれを探り当て、そこからシールドを解き始めた。

 同輩はこれを絡まない様に巻いておく方法を知っている。

「八の字巻きってんだ」

 と自慢気に言うのは、音響のアルバイトをテレビ局でしていて、その技術を活かしているからなのだろう。特殊な技術など知りたくもない。絡んだイヤホンを解くのも、時間潰しとしては楽しいものなのだ。

 テレビ局のPAのシールドならば、さぞや長いのだろうな。けれどこちらは高々イヤホンだ。端まで辿っても三〇秒と懸かりもしない。しかしぼくは今日、ここで何をしようとしていたのだったか。思い出せないのは曇っているからという事にしておこうか。窓から見える空は、午後にしてはまだ明るい。そう言えば何処の窓も開いてはいず、どうも暑い。

 事務室からは秋庭氏の声がする。それでは貴方が、と怪訝な表情が滲む。ぼくは事務室の扉に忍び寄った。そこには秋庭氏ともう一人、女性がいた。彼が想いを寄せている身延さんだ。

「あちらの事務局には、みなさんの拠出金がありましたよね。実はその内、こちらに一緒に来る人達の出したお金は、劇団脱退時に案分されたんです」

 それがこの稽古場の家賃の敷金になっています、と身延さんは言う。

「それなら更新時に戻る筈でしょう」

 と秋庭氏が言うと、

「契約書を良く読んでいなかったんです」

 と彼女は嘆く。こう言う大人数が出入りする使い方ですから、年々修繕費が必要になって、いつの間にかゼロになっていたんです。敷金から天引きされる取り決めになっていたんです。

「今年の更新の敷金はもうありませんでした。そこでプールしていたレッスン費とチケット売上げから出したんです」

「するともう、口座に残金がありませんね」

 と、秋庭氏は声を落とした。契約を見落としていましたね。こういう事をあの人は容赦して呉れないでしょう。しかしこれを補填出来る様な蓄えは、私個人でも最早持ってはいないのです。


 こんなに身を乗り出せば、さすがに気付かれてしまうのではないか、と思うのだが、二人にはぼくの姿は見えていないらしい。それ程、話に集中しているという事なのだろうか。それともぼくは、本当はここに居ないのだろうか。

 足許にはボルトがひとつ落ちていた。大道具の部品だろう。ぼくはそれを拾った。後でこれをポケットから見つけた時、今聴いた事が事実であったと確信する為に。思い出す為のキィとして。


 稽古場を抜け出した。最寄りの駅のホームに居た。柱は線路を加工したものの様で、永い年月に塗り重ねられたペンキが、不思議なテクスチャに育っていた。その柱に寄り掛かると熱い。支えている天井から熱を伝え、それをこの根元まで溜めているに違いない。

「数多のトラブルを片づけましたよ。でも「片づける」とは仕舞う事なんです。結果は眼に見えなくなります」

 と言ったのは秋庭氏だった。あれは二人で事務作業をしていた夜だった。話題は久能氏の事だった。例によって印刷所などに迷惑な要求をしたらしい。この稽古場の建物のオーナーと揉めた事もある。他の劇団と揉めた事さえもある。

 久能氏にしてみれば、結果として全て自分の要求が通ったのだと思っているのだろう。しかしその陰では、古参メンバー達が駆け回り、頭を下げて事を治めていたのだ。

「前からそんな調子でしたから」

 と秋庭氏は言う。彼等が前の劇団を出ざるを得なかったのも、久能氏と他の幹部との間に対立があっての事だったらしい。久能氏に良かれと行動した一派は、結局は同罪と見做され、放逐されたのだ。

「子供の様だと、お笑いなさい」

 と秋庭氏は言う。しかし、人は十全には成長はしない、誰だって成長に不全な箇所を残しているものです。

 暑熱の線路の陽炎を踏み越えて、列車が到着した。何が古参だ、と思った。奴等はまるで問題解決能力が無い。当人の要求を通してやって、治めたなどと思っているのか。発車を知らせる電子音が鳴っている。駅のテーマ曲だ。こうまで暑いというのに、ぼくは柱から背を離せずにいた。

 起て歩き出せ、電車に乗れば何処へでも行けるとゆー事だ、とぼくは自分を奮い立たせた。


 帰途を辿る。ぼくは扉の脇に立っている。電車は高架を走り始めた。太陽の周りに掛かった雲には、大小の綻びが入っている。そこから光線が紗の様に降り注いでいる。携帯電話のレンズを向けてみようかと思った。しかしこの遠さでは禄に写りはしないだろう。それは剰りに淡い色彩だった。

「カメラってハイスペックを求めないで、適当な処で手を打ってローファイを楽しむもんぢゃないの」

 と言っていたのは地元の昔馴染みだった。奴の趣味は写真だった。デジタルカメラで撮影したデータを、パソコンで更に加工する。色彩を薄めたり、フォーカスを甘くしたりして絵画的な作品を作り出すのだ。これはあいつの好みそうな風景だった。

 古参の創設メンバー達は、久能氏の排除を狙っていた。彼のスペイン演劇嗜好に付き合っていては、劇団の方向を誤解されてしまう。彼の強硬な要求をここいらで撥ねつけなくてはならないという議論は、度々耳にしていた。

 混乱を来す政権とそれに立ち向う反乱軍の闘い。そんなテーマばかりを演じていては、左翼系の劇団だと認識されてしまう。古参メンバーにはもっと文芸寄りの指向があった。稽古でエチュードとして持ち出される脚本などでは、そう言った淡い感情を描くものもあった。

 秋庭氏は、そんな動きを知った久能氏の反撃に遭ったのだ。

 電車の窓に顔を寄せつつ、ぼくは頭の中で地図を拡げている。淡い陽差しの降り注いでいた場所。例え降り立つ事が無いとしても、今日、通過した場所としてその座標を記憶に残している。


 近郊都市でぼくは育った。駅から徒歩で帰れる。ぼくが高校を卒業した年に、父親が転勤した。母親もついて行ったので、実家にぼくひとりが残された。近隣の大衆食堂などに知り合いもあり、食生活に困る事は無かった。ぼくは大した目的もなく三流大学に通った。

 演劇部の連中がぼくを誘ったのは、タッパがあったからだ、と言う。背の高さを挙げつらわれる三枚目が、構成上必要だったらしい。役者になる気などないぼくが、学園祭の舞台で笑いを取った。そこから妙な自信を持ってしまったとも言える。

 卒業後は演劇部の知り合いから伝手を辿って、アングラ劇団に入った。弱小劇団は纏まりも弱く、公演ごとに解散し、そこからまた別の劇団が派生した。大きく居場所を代えたつもりはないのだが、自然な成り行きで、ぼくもまた幾つもの公演に名を連ねる結果となった。そんな流れの中で、誰かの口の端に上った名前を記憶に留め、ぼくはあの劇団に入ったのだ。


 駅前のビルの一階でリフォーム工事が行われている。入口近くにカウンターを設けてその背面に厨房設備を設置している。ホールのフロアには重厚さを感じさせる色調の、シートを貼ってある。既にテーブルと椅子も搬入され、片隅に積み上げられている。

 それを配置しさえすれば、今週末にでも開店出来そうだった。おそらくは都心で展開しているフランチャイズの珈琲店が、ここにも出店して来るのだろう。しかしこの雑然とした状態はまるで、搬入直後の舞台だった。

 公演に使う貸しスペースは、客席の段差こそあるが、ほとんどスケルトンの状態になっている。片隅には山台が立て掛けられている。早朝にぼくらは大道具を搬入し、舞台を設営する。ステージにする範囲をガムテープで仕切り、山台を設置する。

 舞台が出来ると役者連中は、その中央に立って広さの感覚を確認する。手を打って反響を確かめたりする奴もいた。そんな事をしていると舞台監督が、手を休めるな、と声を掛ける。皆は書き割りを運びに懸かる。やがて音響や照明のレンタル会社が到着し、セッティングを始める。開演までの時間は、いつだってそんなに潤沢には無い。

 ぼくらの劇団はまだ予算も少なく、最低限の大道具しか持っていない。そこで、椅子やテーブルなどは特徴の無い物を選んでいる。これらは配置の仕方でどの様な部屋にも見せかけられるものだ。舞台では暗転の瞬間、脇役連中が役から放たれる。家具に手を掛け、一斉に配置を換える。そして音も無く舞台から掃けてゆくのだ。

 この店もこれらファブリックの配置次第で、センス良くも・大衆的にもなるのだろう。僅か乍ら期待をしつつ、ぼくは脇道へと進んだ。馴染みの大衆食堂で夕食を摂る。


 街に出るともう夜も更けていた。幹線道路を渡ろうと、横断歩道で立ち止まった。信号は赤だったが、乗用車の陰は無い。見回せば、上手・下手、遥か向うの交差点まで乗用車は居ない。それなら、と信号を無視して道路に踏み出した。

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