ブエロ・バリェホの客

平方和

1

 パントリーから珈琲を受け取った。それから店内を見回して、空席を探す。未だ店内の暗さに目が慣れていないらしく、どうもよく様子が掴めない。この店はいつでも客が一杯だ。それなのに、店内の事情には構わずカウンターでは次々に客を捌く。注文を決済し、脇の作り手に伝達する。

 こちらとしてはそこで暫く待つ事になる。この店の珈琲の凝った名前は、レジを離れた途端に忘れてしまう。パントリーでその名を基に、

「カフェカルガードお待ちの客様」

 と呼ばれても、それが自分のオーダーなのかどうか自信が持てない。しかし順番からすれば、多分それがぼくの選んだ珈琲なのだろう。握ったカップのはらむ、熱さが嬉しい。

 待たされる時間を容認すれば、席を立つ客もいるから、それなりに客達は回転する。しかしあの、奥の席のテーブルにある紙カップは、持ち主が居るのだろうか。そこには店のロゴを印刷したミディアムサイズのカップだけがある。座席には荷物も無い。だから、既に席を立った客が、空のカップだけを残して行ったのかも知れない。しかし珈琲に席をリザーブさせ、当人はトイレにでも行ったともとれる。

 待ちつつ暫く見ていたが、その席に着く者は居ない。そこに座る人物の気配を、カップひとつが代表している。複雑な名前の珈琲を受け取って、座席に移る権利を得た処で、ぼくは店の奥へと歩を進めた。

 間接照明が斜めに射し、カップを照らしている。カップの蓋は覆われたままだ。温かいのか・冷めているのかも窺い知れない。向いの椅子に手を置いてみた。

 連れが来るのでね、とこの持ち主が応えて呉れるのではないかと思ったのだ。何処かこの陰の辺りにでも身を潜めて。ぼくは向いの席に腰を下ろした。

「今時、純愛なんて犬にしかあり得ないよ」

 と艶のある声が甦った。芯が通っていて劇場の隅にまで届く、あの久能氏の声だ。劇団を離れてみれば、久能氏の噂はまるで耳にしない。あの中に居れば、彼の存在を意識しない時は無かったというのに。


 あの朝、稽古場に皆を集めて久能氏がその艶のある声で語った。秋庭氏を排斥した。経理を務めた二年の間に四〇万円の裏金を作り、それを懐に入れていたのだ、という。名刑事が真相を暴露するかの様な自信に満ちた態度だった。

 秋庭氏を非難する言葉は、これ迄に劇団員の誰もが聞かされていた。それ程に久能氏の憎しみは根深かったのだ。

 秋庭氏がそんな真似をする筈は無かった。彼は役者には向かない小心な人物だった。だからこそ舞台には立たず、裏方に回ったのだろう。その彼がどうしてその様な大胆な事を為すだろうか。そもそもこの貧乏な劇団で、何処に四〇万円もの余剰があったというのだ。

 久能氏は演出家を目指す初老の人物だった。秋庭氏を含む数人で有名劇団を抜けて、この劇団を創設した。スペインの現代劇を演りたかったのだという。彼等は春と秋に劇団員を募集し、ぼくが入った頃には、総勢十四人にもなっていた。

 劇団は、創立から二年で四回の公演を持った。いざ公演となると、団員の全てが過剰な枚数のチケットを持たされた。何としてでもこれを捌いて来い、と久能氏が発破をかけた。しかしエンターテインメントでもないこの劇団の公演で、チケットが売れる筈もなく、団員の殆どは少ないアルバイト代から弁済していた。

 四谷に意欲的な寺院があった。頑丈な鉄筋の本堂を持ち、寺町の中でも異彩を放っていた。その地下に設けられたホールを、葬祭だけでなく一般にも貸し出す。勿論アングラ劇団でも借りる事が出来た。我々はそこを拠点に、公演をした。


 久能氏は自らは脇役を選び、演出に力を注いだ。公演が決まる迄は、いつも他の創設メンバーが稽古を取り仕切っている。しかし演目が決まると、途端に久能氏がしゃしゃり出て来るのだ。

 稽古に集まったぼくら若手を前に、ひとくさりスペイン演劇を論じる。いつもならば声出しから始まるので、ぼくらはまだ立ったままだ。それを気にもせず久能氏は、延々と持論を展開する。近代のスペインでは演劇は娯楽などではなく、死活問題だったのだ、という。人民戦線への抵抗などを秘めた設定や台詞には、骨肉相食む時代の様相から来る二重三重の意味があるのだから、と。

 やがて古参メンバーが取り為して呉れて、ようやく発声練習などが始まる。しかしその隙をついて久能氏は、まだ語ろうとする。その様をぼくらは密かに笑っていた。

 久能氏の演出は、古い様な気もしていた。ぼくらは過剰な仕草に苦笑していた。しかしそれは久能氏のスペインへの憧景と骨絡みになっていて、ほくらの脆弱な演技論では論破出来ないレベルだった。薔薇の華を咥えさせられないだけ良かったのだろうか。ぼくなどは、

「お前は背丈があるのに存在感が無い」

 と幾度怒られたことか。

 初演後の駄目出しでも、久能氏は吠えまくった。駄目を出された演技は、稽古の後半で久能氏が方針を変更した箇所だった。多少の疑問は感じつつもぼくらは、あなたの言う通りのスペイン民兵を演じていた筈なのだが。

 公演では、やっとの事で客席を埋めていた。そんな中に久能氏が、無理矢理に評論家などを動員した。そして専門誌の中で、ほんの数行の劇評を得ると、久能氏はそれを自分の業績と、ほくそ笑んだ。どうだこれは、と声を掛けては誰彼に自らを讃えさせようとした。しかしそれらの演劇評論家は、アンダルシアの描写がどうとか、核心を欠いた箇所を事更に持ち上げたりしていた。およそスペイン内乱に関する知識を、持ち合わせてはいない様だった。

 打ち上げでは、先づ久能氏を労わなくてはならない。先生のお陰で有意義な時間を過ごさせて頂きました、と乾杯をした。気分が良くなればまた久能氏は、無茶な駄目を出し始める。そんな彼を送り出した後、二次会でぼくらは久能氏の矛盾を上げつらって盛り上がった。

 そもそも久能氏はスペイン語を話せるのかね、と誰かが言うと、数も数えられないんぢゃないか、と誰がが応え、皆が笑った。

 そんな時に囁かれたのだ。

「久能氏は証拠を掴んでいるとか言うんだ」

 何だそれは、と問えば、秋庭氏が横領してるとセンセイは言ってる、と同輩が応える。おぅ、それなら俺も聞いたぞ・あたしも聞かされたわよ、と手が挙がる。

 小さな劇団の事とて、ぼくは秋庭氏の下で郵便物や宅配便の宛名書きから発送までを引き受けていた。そんなぼくが居るというのに、彼等は全く意に介さない。

 話を突き合わせると、劇団には実はまだカネがある、と久能氏が言っているらしい。それは心外な噺だった。劇団の経営は、稽古場の家賃を賄ってかつかつだと聞く。今回の公演でも、直前になって追加の経費が必要になった、と劇団員に回状が回り、チケット代の他にカンパを要求されたのだ。

 秋庭氏はそれを、遠慮がちに徴収した。あの態度からして、裏があるとも思えない。だいたいこればかりのチケット収入で、余剰などあるものだろうか。どうもな、と同輩達も首を傾げる。久能氏の言う事の方が怪しい。

 酒の席の噺は、どう発展しても結局は久能氏の話題に戻る。その過剰な議論の内容、効果不明な演出、そして劇団の経営への関与。何処の場でも久能氏が横あいからハンドルに手を出しているかの様に見えた。

「今時、純愛なんて犬にしかあり得ないよ」

 と久能氏が嘯いたのは、秋庭氏への皮肉だった。先達を囲む酒宴の席での発言だった。また出た、と同輩達は下を向いて苦笑を隠した。秋庭氏は古参メンバーの女性にほのかな恋情を持っていた。それは隠す迄もなく表れ、若いぼくらからすれば微笑ましい姿だった。最後にはそこを衝かれたのだ。

 その事実を突き付けた時、久能氏は攻撃の矛先を、今度はぼくに向けた。

「あいつは事務局の通信費を横領している」

 と彼は、噂を振り撒き始めた。だからぼくは劇団を出るしかなかった。


「役者辞めたんだってな」

 と肩を叩かれた。地元の昔馴染みだった。首から薄いデジタルカメラを下げている。この夏開店したこの珈琲店は、今では近隣の誰もが立ち寄る場所になっている。

 その親しげな表情は高校生の頃の様だった。劇団のチケットを持って、知り合いを訪ね歩いていた頃には、会うと迷惑そうな表情をするばかりだった。街中で彼の姿を見かけると、こちらが歩み寄る先に姿を昏ました。やっと捕まえて懇願すれば、

「だってお前、何処に出てるんだか判らねぇんだもん。つまんねーぢゃないか」

 などと言われたものだ。

 向かいに立った彼はレンズを向けつつ、あのフラメンコ劇団は今度は何を演るんだ、と訊く。だがもう情報は無かった。

 劇団を抜けてみると、同輩に街で出会う事すら無かった。だからあんなに悩まされた久能氏の噂すら耳にする事も無かった。あんな状態の劇団が、まだ存続しているのだろうかとも思う程だ。もともと無名の劇団だっただけに、その名を目にする機会は全く無かった。


 帰途にコンビニエンスストアに寄り、ヨーグルトを買った。店を出て暫く歩いてから、電池を買い忘れたと気付いた。店はもう、かなり離れている。戻る気にはなれない。

 時計の表示がおかしくなっていた。どうやら一年と保たずに電池が消耗したらしい。五〇〇円で買った時計では文句も言えないか、と思う。買い物ついでに電池も、と思ってはいるのだが、どうもコンビニエンスストアに来た時に限って忘れる。

 夜は更けていた。幹線道路を渡ろうと、横断歩道で立ち止まった。その瞬間を狙って、木枯らしが吹きつけた。信号は赤だったが、乗用車の陰は無い。見回せば、上手・下手、遥か向うの交差点まで乗用車は居ない。それなら、と信号を無視して道路に踏み出した。その時、ポケットの中で金属に指が触れた。それはボルトだと判った。

 ボルトの冷たさが記憶を呼び覚ませた。これを拾った場所で聴いた会話。その空間の広さが先に甦った。次第にその中でのぼくの立ち位置が判って来る。場所の記憶は圧縮保存されているらしい。


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