第5話 日本人にかけられた呪い・まとめ

 さて皆さん、いきなりなんですが、今までの話を踏まえた上で、話を大きく拡げてみたいと思います。

 私達の住む国、日本にかけられたある呪いの話です。 


 まずは、古代の日本語の話から始まります。

 現在、私達が言語について考えるとき、常に文字とセットになって考えると思います。しかしながら、古代の色々な言語を見てみると、必ずしもそれらは一緒じゃないんですよね。アイヌ文化やインカ文明を見てもわかるとおり、文字を持たない言語っていうのは結構あったんです。

 そして、日本語も元々その一つ、会話だけで伝わる音声言語の一つでした。

 日本人が文章を使い始めるのは、中国から「文字」の概念を輸入したあと、四世紀頃の話です。

 (この頃まだ「中国」は存在せず、日本が訪れた国は現在の「中華人民共和国」とは別物ですが、話が複雑になるので便宜上「中国」とします)

 ですからそれ以前、日本国内には日本の歴史の記録が残っていないんですね。書く方法がなかったのだから残しようがありません。

 しかし、三世紀末頃の日本の記録が魏国、現在の中国がある場所にあった国に残っています。何とも皮肉な話ですよね。

 その記録とはもちろん、日本人なら誰でも知っている、「魏志倭人伝」のことです。

 ここで中国語自体の話ですが、今更言うまでもなく、中国語の表記に使われる、三千年以上の歴史を持つ「漢字」は表意文字です。つまり文字一つ一つに独立した意味があります。

 これ自体は大変優れた文字なんですが、一つの欠点、というか不具合として、外国語の固有名詞の表記にあまり適していないことがあげられます。

 そりゃそうですよね。だって、漢字を基本としない外国語の言葉を漢字で表記しようとしても、音と意が一致していませんから。

 じゃあ、漢字で外国語を表記するにはどうすればいいんでしょうか? いくつかやり方はありますが、一番一般的なのは、読みが外国語の発音と一致している漢字を便宜的に当てはめる方法です。

「コカコーラ」を「可口可楽」、「スターリン」を「斯大林」なんて書く方法です。

 日本人にも、なんとなーく読めたりしますよね。

 そして、魏志倭人伝の話に戻りますが、このときにも同じ方法がとられました。

 日本語の名詞の読みを、似たような発音を持つ漢字で当てたんです。

 ここで少し日本の話に戻りますね。

 古来、日本語では自分自身を指す一人称に「ワ」という言葉を使っていました。現在でも「わたし」や「われ」なんかにその名残が見えますね。

 それを聞いた中国人は日本人自体を「ワ」と呼びました。そして、そこに同じ発音を持つ漢字を当てはめました。

 それが「倭」です。

 さてこの漢字の意味、知っている人も多いんじゃないでしょうか。これには「矮小な者」、「従順な者」、「なよなよした者」と言った意味があります……

 話を続けましょう。

 魏志倭人伝によれば、その当時の日本には「ヤマタイコク」と呼ばれる国があり、そこを治める女王の名は「ヒミコ」といったそうです。

 これは僕の単なる推測ですが、おそらく「ヤマタイコク」は「大和朝廷ヤマトちょうてい」と何か繋がりがあり、そして、「ヒミコ」は「日巫女」、または「姫巫女」とかそんな意味があったんじゃないかなあ、と思っています。

 そして当然、魏志倭人伝でもそれらの表記に彼等なりの漢字が当てられました。それが、「邪馬台国」、そして「卑弥呼」です。

 ここ、大事なとこなのでもう一回言いますね。


『邪』馬台国、そして『卑』弥呼です。


 もう説明する必要もないですよね。偶然でこんなことがあり得ますか?

 明らかに意図的な行為ですよ。

 僕の考えから見れば、疑いの余地なく、古代中国が日本民族にかけた「呪い」に他なりません。

 もっとも、これは日本に対してだけピンポイントで行われた侮辱ではないようです。中華民族はあの頃から、周り全ての外国を同様におとしめていたようですね。これは、現在においても中華民族の根幹をなす「中華思想」の基本の考え方です。日本人はあの国の隣国として、このことしっかり覚えておいた方がいいですよ。


 ただ、ここまで書いておいて何ですが、僕は実はこの呪いをかけた古代の中国人達にそれ程腹を立てている訳ではないんです。(全くないと言ったら嘘になりますが)

 個人的に一番モヤモヤしているのは、日本人自体がこの呪縛を振り払っていないということなんですね。

 今現在、日本国内で読まれている全ての歴史書で、倭人、邪馬台国、卑弥呼の表記が使われています。もっとも僕も全ての歴史書を読んだわけではないですが、少なくとも僕が見た範囲では例外はありませんでした。

 僕たち日本語を話す日本人がこの表記を見たとき、字面じづらにどんな印象を受けるでしょう?

 何にも気になりませんか?

 僕個人の意見を言えば、何とも言えない、おどろおどろしい、忌まわしい印象を受けるんですけど。それって僕だけ何でしょうか?

 ちょっと想像してみてください。

 たとえ同じ人物であっても、「日巫女」と「卑弥呼」では、その表記から同じ印象を受けるでしょうか?

 もっと単純に、もし「邪」とか「卑」とか名前についてる子供を見たらどうおもいますか?


「でももう歴史書にそう書いてあるじゃん。どうすればいいんだよ?」って、思いますよね。

 僕の考えでは、実は結構簡単にこの呪いを振り払うことができます。

 表記を片仮名にする。これだけの話です。 

「ヤマタイコク」そして「ヒミコ」これで万事OKです。

「いやいや、それじゃあ中国の歴史書との表記に差違ができちゃうだろ」という意見が出てくるでしょうね。それも問題ありません。

「中国の歴史書では、外国を侮蔑するために、「ヤマタイコク」に「邪馬台国」「ヒミコ」に「卑弥呼」という蔑字が当てられた」と説明を入れておけばいいんです。

 大体考えてもみてください。当時、「ヤマタイコク」には漢字どころか文字自体が存在しなかったんですよ? それなら、固有名詞はその発音のみを考慮するべきであって、歴史書が漢字の表記にこだわるなんて、本末転倒じゃあないですか?

 でもなぜか、日本人にはそれができないんですよね。みんなこの状況に何にも疑問を感じないんです。

 実はこのテーマ、何も新しい話じゃありません。昔からある議論です。

 ためしに、「卑弥呼 蔑字」でググっってみてください。同じ様な議論はたくさん見つかります。

 でもその殆どは、「考えすぎ」「ただの偶然」といった、まるで鳩○○○夫さんや小○○郎さんかと見紛うばかりの中国擁護の意見が殆どなんですよね。

 実際、日本の知識人と呼ばれる人たちの中に良く見られる中華信仰の根強さは無視できません。僕はたまに、本人達すら気付いていないであろう、マインドコントロールに近い、ねっとりとした、不気味な盲従のようなものを感じます。

 ちょっと大げさな言い方ですが、その理由こそ、漢民族によってかけられた、太古の呪いみたいな気がしてしまうんですよ。まあさすがにこれは考えすぎですね。


 すみません、ちょっと話がずれてしまったようです。元に戻しましょう。

 最後に、僕が何を言いたかったかをまとめるとこういうことです。

 人は言葉や文字を見聞きするとき、そして自分が何かを言ったり書いたりして言葉を残すとき、そこにある理論だけでなく、その言葉自体に影響を受けているということ。そしてそのことを昔の日本人は感覚的に理解し、そこに「言霊」という概念を作りだしたんじゃないかと言うことです。

 ただ、この概念は科学的に研究されたものではありませんでした。ですから、何かぼんやりとした、迷信めいたものと思われがちです。ですから合理的なことが最優先で求められる現代社会では、言霊信仰は過去の悪しき習慣として捉えられることが往々にしてあります。確かに、言霊信仰には、非合理的なところが多く、そこに様々な問題が生じたことも否定できませんし、そういったことがまたあり得るならそれは予防しなければなりません。

 しかし、人というものは、突き詰めてしまえば結局感情に生きる生き物なんです。もし人の全ての行動を合理主義のみで割り切ってしまうと、芸術や娯楽などといったものは、この世から全て消え去ってしまいます。

 だからこそ、何かを言うとき、何かを書き残すとき、たとえそこに他意はなくても、一番いい形で残せれば、それにこしたことはないんじゃないかと思います。

 そしてそう考えるとき、いにしえの日本人が思いを巡らせた、この「言霊」という考えこそ、その答えになるんじゃないかと思うわけです。

 

 しきしまの大和の国は 言霊の幸わう国ぞ ま幸くありこそ


 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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言霊と呪いに関する短い考察・日本人にかけられた呪い cocotama @cocotama

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