闇から来た魔物

おこばち妙見

闇から来た魔物

「ふんぬっ……! ぷはぁ……」


 私がこの町に引っ越して来てから、早やひと月が経とうとしていた。

 自転車を――自分でわかるほど真っ赤な顔をしながら――家までの坂道をどうにか漕ぐ。

 ……が、結局降りて押す事にする。電動自転車が欲しい。


 振り向けば、青い海。

 埠頭では巡視船が白い船体を休めている。


 この明治から大正にかけて栄えた北の小さな港町は坂が多い。

 そのため隣の大きな町とは違い、自転車に乗る人は少ないのだ。

 そんな自転車も、もう二か月もすれば春までお蔵入り。

 雪が解けるまで物置の置物と化す。


 私の家は住宅街の外れにある一戸建てだ。

 間取りは2LDKだが、贅沢にも一人で住んでいる。

 この町に住む叔父の持ち物で、格安で貸してくれたのだ。


「ちょっと不便かもしれないけど」


 叔父はそう言っていたが、転勤でこの町で働くことになった時から少しだけ楽しみだった。


 森に近い一戸建ては、実家の高層マンションとはまるで勝手が違う。

 おおむね、良い方に。


 まず寒冷地ゆえか、『アレ』が出ない。台所で大活躍する黒いアイツだ。

 叔父が私の実家に遊びに来た時、興奮しながら写真を撮っていたのを思い出す。

 何が面白いのか、さっぱりわからない。


 利点はまだある。

 上階の子供が駆けまわる足音も、当然ない。

 深夜にシャワーを浴びようが、洗濯機を回そうが、好きな音楽をスピーカーから聞こうが、一向に苦情が来ないのだ。


 空き家にしておくと早く痛むから、ということで格安で借りたが、予想以上に快適だ。

 冬の除雪が大変らしいが……。


 それでも今のところは、この町の暮らしが割と気に入っていた。

 仕事はどこに行っても大変なのだから、プライベートはせめて充実したい。


 この町にはニッチな需要を満たす大きな本屋さんが無いのが不満といえば不満だ。

 しかし電車に四十分ちょっと揺られれば隣の大きな町に行けるし、そこになら大きな本屋さんもたくさんある。


 同人誌も成人向けゲームも店頭で買えるのだ。不満はない。


 寝室は和室の六畳間。ここが、私の世界。


 今日も今日とて戦利品を詰めたリュックを開き、布団の横のローテーブルに漫画を積み重ねる。

 内容は……ご想像にお任せする。


「ふふふ……」


 軽自動車のエンジン音が家の前で止まった。

 呼び鈴がなって、私は玄関へと向かう。


「二八四〇円です」


「はい」


 頼んでおいたピザが届いたのだ。代金を支払い、寝室へ。


 本来はリビングで食べるべきなのだろうが、横着な私は寝室に戻り、布団の横にピザの箱を置く。


 この時間が好きなのだ。このために生きていると言っても過言ではない。


 ◇ ◇ ◇


 私は布団に寝転がって買って来た漫画を読みつつ、ふと壁の時計に目をやる。

 思いのほか時間が経っていた。


「いっけない。もう十二時!」


 明日も仕事だ。

 私は慌てて布団をかぶり、照明の紐スイッチを引っ張った。

 スイッチは糸で延長しているので寝転びながら消すことができる。


「…………」


 程なくして、私はまどろんでいく。

 時折水道の蛇口から落ちる水滴のほかは、時計の針だけが、コチ、コチと時を刻んでいた。


「…………!?」


 この家には、私一人だ。


 私一人のはずだ。他には、誰もいない。


 なら。


 私の頬を撫でたのは。


 誰だ。


「…………」


 気が付かない振りをするべきか。

 見ない振りをするべきか。

 そんな逡巡も、一瞬のこと。


「……ひぃっ!」


 まただ。


『何か』が、私の頬を撫でた。


 私は。


 震える手で。


 電灯の紐を。



「ひぃいいいぃいいいッ……!!!!」



 そこに居たのは、まるでヒトの髪の毛そのものと見まごう、長い長い触角を自在に振り回す魔物だった。

 ぎょろりと光る真っ黒な複眼。

 胴体は茶色と焦げ茶色のまだら模様で、形はエビに少し似ている。

 その不自然に細い、しかし華奢ではない、外骨格の中に確かな筋肉を感じさせる脚は胴体の二倍以上の長さ。

 体長は二センチほど。

 しかし触覚と脚を伸ばせば、ゆうに十センチは超えるだろう。



 魔物は私を認識すると、威嚇するように触角を振り回した。


「や……やだ……」


 私の身体も、凍り付いたように、言う事を、きかない。


 睨み合いが続く。


 すぐにどうこうしようという気はないらしい。


「…………」


 私は震える手で近くにあった雑誌を手に取った。


「ふんっ!」


 渾身の力で振り下ろす。


 しかし魔物はものすごいスピードで、その身体からは想像もできない距離を跳んだ。


「このっ!」


 失敗。

 次も失敗。

 

 何度も一撃を加えるが、魔物はそのたびに驚異的な跳躍でそれを躱す。


「今度こそ!」


 さらに一撃を加えるが、魔物はタンスの裏に逃げ込んでしまった。

 私は魔物を追ってタンスの裏を覗き込む。


「……いない……?」


 そこには動くモノなど何一つありはしなかった。


 どこだ。どこに潜んでいる……?

 私はしばらくタンスの裏を覗き込んでいたが、結局何も見つけられずに布団の近くへと戻った。


「もう……一時……?」


 魔物を退治できなかったのは気持ちが悪いが、明日も仕事だ。

 寝なければ仕事に障る。


「…………」


 私は恐る恐る布団に潜り込み、明かりを消した。



 再びの闇。

 時計の音と、時折蛇口から漏れ出る水滴がシンクを叩く音だけが響く。


 静かな、夜。


 

 まどろむ私の頬を『また』何かが撫でた。

 いい加減にしてほしい。


「何なのよッ!」


 明かりをつけると、また先ほどの魔物だ。

 今度は躊躇なく雑誌を叩き付ける。


「なんのッ!」


 躱されることは織り込んでいる。

 私は雑誌をそのままスライドさせ、まずは魔物の動きを抑える。


「とどめだッ!」


 躊躇なく振り上げた雑誌は、魔物を完全に叩き潰した。 


「……勝った……!」


 魔物は、まだピクピクと動いている。しかし、飛んだり跳ねたりはできないだろう。

 もともと翅はないが。


「……えっ? ……やだ、そんな!」


 瀕死の魔物のクリーム色の体液が、枕カバーを侵食しつつあった。

 二駅先のショッピングモールで買った安物だが、猫の柄がプリントされていたのが可愛くて、気に入っていたものだ。


 魔物を落とさないように、細心の注意を払ってカバーを外す。

 そのまま魔物を包むようにして窓へ。


 カーテンが邪魔だ。窓の建付けも悪い。

 焦れば焦るほど簡単なことも上手く行かない。


 片手でどうにかして窓を開き、カバーを振って魔物を外に放り出す。


「あちゃー……」


 枕カバーには異様な染みが付いていた。

 たとえ洗濯をしたとしても、とても使う気にはなれない。


 私はコンビニのレジ袋に枕カバーを入れると、きつく縛ってゴミ箱に入れた。


「おのれ……気に入っていたのに……」


 そう高い物ではないので、まだ諦めはつく。

 しかし二度とこんな事はごめんだった。


「………………そうか!」


 私は次なる魔物の襲撃に備え、準備を始めた。


 ◇ ◇ ◇


 私は三度みたびまどろむ。


 時計の針。蛇口の雫。物音といえば、それだけだ。


「!!」


 またしても『何か』が頬を撫でた。


「来たなッ!」


 私は跳ね起きて明かりをつける。


「これで、どうだあああああぁああッ!!」


 枕元にはヘッドを外した掃除機。

 コンセントは繋がっている。

 スイッチを入れると、モーターが唸りを上げた。


 魔物は驚いて飛びのいたが、構わずに追いかける。


「しまったッ!」


 掃除機はシーツの一部を吸い込み、ブボボボ、と不快な音を立てる。

 一度スイッチを切り、シーツを引きはがす。


 今度は離れた位置でスイッチを入れ、魔物の側面から掃除機の口を近づける……


「やったっ!」


 スポン、と音を立てて魔物は吸い込まれていった。

 ただ吸い込んだだけでは死なないかもしれない。しばらくスイッチを入れたままにし、内部のゴミと一緒に魔物を圧縮する。


「……もう、いいか」


 この掃除機は紙パック式だ。

 あとは明日の……いや、今日の収集日にこの紙パックを可燃ごみとして出せばよい。


 犠牲は出たが、戦いは私の勝利に終わった。

 

 私は今度こそ安心して布団に潜り込むと明かりを消した。


 ◇ ◇ ◇


 目を開く。

 朝の光がカーテンの隙間から差し込んでくる。

 何気なく時計に目をやる。


「えっ? もうこんな時間!?」


 無意識に携帯のアラームを止めてしまったらしい。

 私は慌てて着替え、大急ぎで化粧をして自転車にまたがる。


 家のごみ袋に掃除機のパックを残したまま。

 そのことに気付いたのは、会社への道半ばを過ぎた頃だった。


「まさか……ね」


 その夜、私は……。

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