2007 春の初め
それ以来、私は授業以外で美術室に行くことはなくなった。センセイと顔をあわせるのも気まずく、3学期中ずっと私は下を向きながら授業を受けていた。美術の時間なのに絵を描くこともなく、センセイは美術史を延々に話し続けた。
気まずい思いのまま3学期が終わり、あっという間に春休みがやってきた。私はいつも通り何をするでもなく……居間のソファに寝っ転がりながら、ずっとゲームをしていた。
「美晴、アンタ勉強は? 受験生でしょ?」
「このダンジョンクリアしたらやる」
「そんなことばっかり言って……もう夕方じゃない」
「ほへーん……」
時計を見ると、もう16時過ぎている。
「そうだ、アンタ、制服クリーニングに出すから袋に入れておいて」
「はーい」
「今やりなさい」
お母さんは、私の手からゲーム機をひったくった。私は唇を曲げて、自分の部屋に戻り制服を取り出す。ポケットに何も入っていないかを確認していると……指先に紙が触れた。
「なんだ、コレ」
四つに折りたたまれた紙を、私はゆっくりと開いた。そこには、細い文字で住所が書かれていた……センセイが個展をやっている、ギャラリーの住所だった。
私は、少しだけ唇を噛み、それをくしゃくしゃに丸めた。今更行っても、きっとセンセイに迷惑をかけるだけ……それなのに、私ははやる気持ちを抑えきれずにいた。
「おかーさん、私ちょっと出かけてくる」
「え? 今から? どこにいくの?」
「ちょっと!」
適当なスプリングコートを着た私は走って駅に向かい、電車に飛び乗る。目的の駅に着いてからもまた走って、少し道に迷いながらもギャラリーを見つけた。
私は息を整えて、ドアノブを手に取る。
少しだけドアを開くと、センセイが左半身をこちらに向けて、ぼんやりと椅子に座っていた。私は音を立てないように、ゆっくりと近づく。
「……センセイ」
声をかけると、センセイはようやっと私の存在に気づいたのか、ゆっくりと顔をあげた。
「……小柳、来たのか」
「うん、来た」
「ほかに客もいないし、ゆっくり見ていけよ」
「うん」
パンフレットを受け取り、私はギャラリーの中に入っていく。壁には等間隔に、センセイの作品が掛けられている。その中にはいくつか、タイトルの下に『売却済み』というシールが貼ってある作品もあった。
でもやっぱり、センセイの絵の良さは、私にはわからない。隣り合った色は似ているせいで、私には色の区別が付きにくいのだ。
奥に進むにつれて、描かれた時期が新しくなっていく。写真みたいだった絵が抽象的に、そして色の塗り方が少しだけ違うことが、私でも分かった。
そしてギャラリーの一番奥……そこには、センセイが『空模様』と題した絵が飾られていた。
ぼんやりとしていて同じ灰色に見えていたあの丸には、いくつか黒い輪郭が書き足されている。
作品紹介には、『黒丸の中は水色』と手書きの解説が付け加えられていた。
後ろから、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。
「ねえ、センセイ」
「ん?」
私は、ずっと疑問に思っていたことをセンセイに投げかける。
「センセイってさ……、目、見えてないんじゃない?」
センセイから、ため息をつく音が聞こえた。
「お前、いつ気づいた? ……視野が欠けてるんだってさ」
「センセイが、目を凝らして絵描いてる時、変だと思ったの。私さ、ちっちゃい事眼科行きまくってて……似たような人、いっぱい見たから。みんなお年寄りだったけど」
「若いのに珍しいって、言われたわ。病院で」
「……治んないの?」
「もうここまで来ると、進行を遅らせることしかできない。時期に両目とも、わずかな光しか感じられなくなる」
「絵は?」
「もうあきらめるしかないな」
センセイの声には、悲しみの色が滲んでいた。
「どうしても?」
「どうしても……割り切れるもんじゃないけどな」
「センセイ、あのね」
私は、深呼吸をする。
「私、センセイの目になりたい」
その言葉を聞いて、センセイは静かに……怒りを孕ませながら囁く。
「お前、何言ってんの?」
「私、センセイの目になってあげる」
「……小柳さ、バカだろ? こんな奴に一生捧げるつもりかよ」
「それでもいい!」
私の声が、ギャラリーの中を反響した。センセイの顔を見ることもできず、私は背を向けたまま先生に話し続ける。。
「英語も、ちゃんと勉強して読めるようになってセンセイに読んであげるし。……絵だって、もっと教えてくれたら、どんな絵なのか教えてあげる。私の目じゃ、役に立たないかもしれないけど」
「…………」
「センセイ?」
センセイは自分を嘲笑うように、ゆっくりと長く息を吐いていた。
「俺さ、あの小柳の花束の絵、好きなんだよな。デッサンは糞だけど」
「……うん」
「それなのに、あれを見て……ちょっとでも、お前の目線で絵を見るのも悪くないと思う自分がいることが、今は憎らしいよ」
私の肩に、センセイは頭を乗せた。小刻みに震えていて……鼻をすする音でセンセイが泣いていることに気づいた。
『センセイ、泣いてる?』と言い掛けて、私は口を閉じる。
センセイの体温が、私の中に滲み出す。カサカサとセンセイの毛先が私の頬に触れた、ちょっとだけ痛くて……でも私はそれに心地よさを感じていた。
このときになって私はようやくセンセイのことを好きになっていたのだと気づいた。
とっても悲しいのに、たった一人好きになった男性に頼られている……私にとって誇らしい瞬間だった。
コレが、私とセンセイの始まり。
終わりは、到底やってきそうにない。
あなたの花束になりたい indi子 @indigochan
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