2007 バレンタインデー


 私たちが描いていた花束の絵は、冬休み明け学校に行くと廊下の掲示板に展示されていた。センセイがこれを一人で飾っていた姿を思い浮かべると、私にもその疲労感がどっと押し寄せた。


 その中には、私の絵ももちろん同じように並べられている。

 私が思い思いに描きすぎた絵はとても目立っていたようで、通り過ぎる人みんな、ひそひそと何かをつぶやいていた。

 でも、私はそれが気にならなかった。不快な気持ちよりも、絵を描き上げたときの爽快感の方が上回っていたからだ。


 センセイも、たまに私の絵の前で足を止めていた。

 私はセンセイの左側から忍び寄り、隣に立った。

 ……しかし、センセイは私の気配にまったく気づかない。私は少し背伸びをして、センセイの耳に向かって『わ!』と大きな声を出した。



「だっ……小柳、てめー……」


「センセイ、気づかないんだもん」


「だからって、耳元で叫ぶなよ。で、何の用だ?」


「べっつにー。ボーっとしてたから、起こしてあげただけ」



 センセイは、大きく肩を落としながらため息をついた。



「あ、でもねセンセイ。私この間の英語の課題、めっちゃ褒められたよ」


「お、良かったじゃん。まあ、俺のおかげだな」


「あはは」



 笑って濁したが、本当にその通りだった。センセイの教え方は英語担当の先生よりも上手で……毛嫌いしていたはずの私の頭に、するするっと入り込んで一気に根付いた。



「また教えてよ、美術室行くから」


「俺、美術担当なんだけど」


「いーじゃん、別に。同じ『先生』なんだから」


「だめだっつーの。それに、俺は個展の準備で忙しいから無理」


「ケチ」


「ケチで結構」


「じゃあ、何しになら美術室行ってもいいの?」


「そりゃ絵を描くか……画集あるから、ソレ見るくらいなら」


「ホント?!」



 思いがけず出た甲高い声は、センセイの鼓膜を貫いた。センセイは左耳をおさえ、とっても迷惑そうな顔で私を見下ろした。



「ただし、絶対に俺の邪魔はしないこと。わかったか?」


「はいはーい」


「お前、ちゃんとわかってんのかな……じゃあな、授業まじめに受けろよ」



 センセイは踵を返し、廊下を美術室に向かって進んでいった。途中、左肩が男子にぶつかり、何度も頭を下げていた。



 それ以来、私は毎日のように美術室を訪れていた。センセイがキャンバスに向かって筆を走らせる横で、私はセンセイに勧められた画集を見る。

 前センセイが話していたゴッホを始め、ゴッホの友達だったというゴーギャン、センセイ一押しのシャガール、奇妙な絵ばかり描いていたダリ。


 今まで生きていた中で、敬遠し続けた絵画漬けの生活だった。私の『変な絵』とか『何これ』とかいう小さな呟きを、センセイはその地獄耳で拾い、筆を走りながら色んなことを教えてくれた。


 英語のときのように頭には引っかからなかったけれど、一つだけ覚えていることがある。センセイは、いつかシャガールが書いたオペラ座の天井……「夢の花束」という作品を見てみたいということだった。



 私も、たまにセンセイの絵を覗き込んでは『何これ』『変な絵』と文句をつけていた。そのたびに、センセイは私の頭を軽く小突く。そして、



「ガキにはこの芸術がわかんねーんだよ」



 と毎回悪態をついた。確かに私にセンセイの『芸術』とやらは理解できない、でも、私はセンセイの絵が好きだった。時折目を凝らしながらキャンバスに向かうセンセイの姿も。


 下校の時間が来ると、センセイはすぐに私に帰るよう促した。そのときは必ずと言っていいほど、



「寄り道すんなよ」



 と付け加える。そして、小さく手を振るのだ。


 私は茶色のチェック柄をしたマフラーを巻き、靴を履き替えて玄関を出た。息を吐くたびに、白い煙が目の前で揺れた。

 

 私は歩きながら、センセイのことばっかり考えていた。パレットの穴から突き出した親指、絵の具で汚れた白衣、少し丸くなった背中。遠い昔の記憶を思い出させる、目を凝らす表情。


 それは、息をするたびに私の中から白い煙になって出て行ってしまいそうだった。


 私はなるべく息をする回数を減らし、早歩きで帰ってきた。



 友達に呼び出されたのは、2月、バレンタインデーのときだ。廊下の隅まで腕を引かれ、こっそりと耳打ちされる。



「美晴、井沼先生にチョコあげんの?」


「は?」



 晴天の霹靂のような言葉に思わず口をあんぐりあけると、友達は『違うの?』と首を傾げた。



「なーんだ、美晴最近美術室通ってるから……てっきりそういう関係なんだと」


「違うよ、そんなのじゃなくって……」



 ……そんなの甘ったるい感情ではないのだとしたら、どうして私は美術室に通い詰めているのだろう。



「今日、バレンタインデーだったの?」


「そうだよ、もしかして忘れてた?」


「う、うん……」



 私の困惑した様子を見て、友達はケラケラと笑う。



「なんか、二人両想いみたいな感じに見えたし……もしかしたら、チャンスかもよ」



 友達は軽く手を振って去っていく。私も振り返したが……心は上の空だった。


 その日一日中、私は美術室に行こうかどうか迷っていた。センセイに頑張れって言われた英語の授業も上の空で……どんよりとした灰色の雲が、私の心に広がっていく。

 でも、どれだけ悩んでも私はきっと行くのだろう……この数日で、すっかり居心地のいい場所になってしまっていた。


 ただ、今日はバレンタインデー、カレンダーの日付もちゃんと確認した。


 これだけ世話になっておきながら手ぶらでセンセイのところを訪ねるのは、少しだけ場違いな気もする。私は自動販売機でブラックコーヒーを買い、それを持ちながら美術室に向かった。

 ドアを開けて、いつも通り明るく挨拶をしよう。取っ手に手をかけた時、中から『ビリッ』と何かを裂く大きな音が聞こえてきた。慌ててドアを開けると……キャンバスに張られた布を、センセイが真っ二つに割いていた。



「な、何してるのセンセイ!」


「……小柳か」



 センセイが持っているのは、今まで見てきた中で一番楽しそうに描いていた絵だった。



「もったいないじゃん!せっかく頑張って描いてたのに……」


「……お前に」



 センセイの声は、震えていた。



「お前には、関係ないだろ!」



 大きな声が美術室に響き渡った、反響する自分の声を聞いて、センセイはハッと我に返っていた。



「わるい……画集だろ? 今日、どれ見ていく?」


「ううん、邪魔になるだけだし、もういい」



 私はセンセイの左側においてあるテーブルに、缶コーヒーを置いた。



「これ、バレンタインデーだから。今までありがとうございました」


「……小柳?」



 私は、センセイに背を向けて走り出していた。背後からは、缶が落ちる音と、それと少し間をおいてからセンセイが私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る