起きたらドイツ、なんてことはなかった。

留学時代はドイツにいた。英語が使えると聞いていたが、いざ行ってみるとそんなに甘くなかった。使えないこともないが、いい顔はされない。当たり前だ、それは外国語なんだから。わざわざこの国に来たのに、この国の言語も使えないの? と言われたらそれまでだ。我々日本人だって、英語で話しかけられたら困る。えーマジかよ、日本語でokですが……。


と、いうことで、急遽ドイツ語のベンキョーをすることにした。実は日本にいた時から独学でやってたりする。第二外国語はスペイン語だったが、あまり抵抗はなかった。文字が異なれば別かもしれないが、アルファベットは共通している。英語だってそこそこできた。なにしろ、ドイツ語の初歩的な授業もある。みんな素人だ、行くぞ!


結論から言えば、どうにかなった。別に特殊能力に目覚めたわけでもない。必要なのは、基本的な文法、現在形。過去のことを言いたければ、gesternとかつければ、現在形を使っててもあー過去の話なんだなと処理される。してくれ頼む! といったノリだった。知らない単語は、指を指すか絵に描けば良い。とにかく挨拶だけはドイツ語っぽくやれば良い。実際うまく行った。近くのスーパーの店員の愛想が格段に良くなったりした。そんなもんだ。時たま例え話をやりたかったら、その時はじめてそれを学べば良い。覚えられるかはともかく、構造自体はよく見た形だ。どうにかなる。なった。


で、ぼくはビールに溺れた。もとより口唇期を抜けてないぼくである。液体を飲むか、煙草を吸うかしないと落ち着かない。いやなんかの作業に没頭できれば不要だが、それまでのアイドリングには欠かせなかった。ばぶう、母は遠い。地理的な距離だけでなく、母の乳房は時間の彼方だ。おまけに当時のことなど何も覚えてないときている。


単純に「ビールが美味かったから」ってのもある。安いし、美味い。都市の臨界ギリギリに置かれた学生寮、そこから最寄りのスーパーでさえ、ドリンクバーもかくやってほどの品揃えだ。一杯100円くらいのビールフェスタ。そりゃあ飲むよ。水と同じ値段だもん、じゃあビール飲みますよね?


幸か不幸か、酒には強い。ドイツ時代を通して、飲みまくっても戻さなかったのはひとつの勲章だ。なんなら、学校のある朝に景気づけと称して一本飲み、昼休みにも一本飲み、帰る列車で一本飲むくらいはした。パーリーがあるならそこでもしこたま飲んだ。


彼女はできなかった。おれは一人だった。ダチは早々に彼女を作り、そいつの国に入り浸った。おれは小説を書き、訳のわからない音楽を作っていた。


日本に帰りたい、が口癖になった。帰ってどうしようとまでは考えてなかった。愛犬も死んだ。ただ、米や味噌汁はあるはずだった。ネタが規格外な寿司だってある。日本語の本も無限にある。


今思えば、ぼくは一人でいることに限界を感じていたのだろう。SNSのタイムラインすら時差ボケをかましていた。おいおい、おまえら夜型じゃなかったのかよ、と何度思ったか知らん。しかし、そんなものは是正できなかった。できるわけがない。


総じてアンハッピーだったのか、と聞かれれば、時間って怖いよな、から答えはじめる。多分、あの時のおれは不幸だった。自ら選んだ道なのに、惨めで不幸な気持ちでいっぱいだった。それはおそらく間違いない。じゃあなんで時間ってのがテーマになるのか?


今のぼくは、あの時に帰りたいからだ。ビールとザワークラウトと30セントのパンの時代に。本質的にはどこにでも行けて、どこの国に逃げ込んでも誰も気にしなかったあの時代に。日本から離れているという一点で、しかして多様性の保たれていた時代……ぼくの初体験の場所、冒険の日々。異邦人であることを許された、けれどもその場に馴染まんとすれば格闘せざるを得ない、そんな血気盛んな時期だった。如意ざらんストレスと、けれどもおれなら乗り越えられるという確信があった。


すべてに筋が通っていたのだ。苦しみも寂しさも、異邦人感覚も、全部に納得可能な逃げ道があった。超克可能な余地があった。やることだって明確だった。ビールを飲んで、サラミとパンを齧っているうちに問題は解決した。


「じゃあ、戻してあげようか?」と言われたのだから、そりゃあ着いていくだろう。近所の公園というおよそロマンティックでない場所だろうと、その時ぼくがコンビニの日本酒パックをチビチビやってたっていうクズみたいなシチュエーションだろうと、おまけに目の前の少女が、どう見ても女子高生だろうとも。「その代わり、ロバート・ラインハルトを探してほしいの」

「誰それ?」

「わたしの親を殺した男よ」

かなり厄い。

「付け加えると、彼はバックパッカーをやってるらしいわ」

「じゃあ、どこにいるか分かんないじゃん。おじさんをバカにするの流行ってんの?」

「20代に見えるけど」

この髭面のどこを見てそう言うんだ、どう見ても浮浪者だろ、とぼくは思う。思いながら、死にたくなった。


目の前の女子高生は、たぶん可愛い部類に入る。

黒髪、ストレート、大きな目。まつ毛も厚いが、天然物だ。

ジャケットでダボダボだが、スタイルの良さは伺える。

なんでそんな子が話しかけてくるんだ?


多分、この子はあれだ、敗北者を見つけて訳の分からないことを言うのをライフワークにしてるのだ。痴漢にされないだけマシか、と自嘲気味に思った。


「お金なら出すわ」

「そりゃ助かる」これは自棄という。

「平日の昼間からお酒を飲んでるような人なんだから、少しはひと様の役に立てるのよ、悪く話じゃないと思うけど?」

論点のよくわからない言い回しだったので、ぼくは口を閉じた。こんな訳の分からない女子高生に引っ掻き回されても困る。

困るか?

正直なところ、不愉快ではあるが、危機ではなかった。ぼくは自分の部屋を考えたが、あまり後悔らしきものはなかったはずだ。とっくのとうに終わってるようなものだ。


「手順はこう」と彼女は言った。「新千歳空港から東京まで飛んで、そこから韓国に渡って。五時間待ったら、テーゲル行きが離陸するわ。あとは勝手にしてちょうだい」

「探さないで、失踪するかもしれない」その可能性は高い。多分行ったらマジでそうする。風俗にも行くだろう。向こうの大学に願書だって出すかもしれない。で、そのためには働くだろう。なんだっていい。「キミの提案に乗るとは言ってないけど」

おれの馬鹿、と心の少数派が言った。渡りに船だろ、乗れよ、と。いやあ乗れないでしょ、と多数派。そりゃそうだ、厄過ぎる。


「何か勘違いしてるみたい」と心外そうに「勝手にして、というのは、”できるものなら”って意味よ」

「はあ」

「あなたの乗った飛行機は、途中で墜落するわ、多分ね。だから、正確には、”ドイツに行って探してほしい”じゃないの」

「意味がわからん」

「可能性の問題よ。落ちる可能性はかなり低いとはいえ、ゼロではない。もしかしたら、あなたの働きで、墜落の運命が変わるかもしれない」

全然見えなかった。

彼女は続ける。

「あなたは飛行機に乗るわ。で、事故の直前に夢をみる。というか、荷物のひとつが特殊な装置なの。それがタイム・ポータルを開いて……まあこの辺はいいわねーーあなたは10年前のドイツに戻る。戻れるのよ」

内容は不可解だったが、想像する価値のある妄想だった。

「戻れるのか」とこれはぼくではなく、ほとんど日本酒が言ったようなものだった。

「戻れる」断言する女子高生。あまりの強さに背筋が伸びた。「で、そのついでに、あなたのクソみたいなドイツ時代とやらの間に、わたしの手伝いをしてほしいのよ」

「わかんねーなあ。なあんでおれが」

「じゃあ欲しくなかったの? 使命感とか義務感とか、ひとの役に立ってる感覚とか?」

どうだったろうか、と考えてしまう辺り、ぼくも彼女の雰囲気に飲まれていた。ないしは酒に。

「確かに、あのときのおれは自分がなんでドイツにいるか分かんなかったし……」だからこれは独り言みたいな声量だった。「生きてるか死んでるか分かんないような状態だったな」

「わたしはね、そういうのを変えるためにここに来たのよ。どうせ死人も同じなら、せめてひとの役に立つことをなさい」

偉そうな子だ。何様だ。「それがキミのためだって?」嫌味を込めた二人称。

「とりあえずわね」としかし彼女は気に留めない。「やがては世界のためになる……そう思ってるわ」

大した電波だ。

けれども笑えなかった。

ぼくだって高校生くらいの時はまだ世界における使命なんかを考えていたからだ。

今はどうか? 二つの仕事を辞めて、保険で生きながら酒で時間を溶かしている今は? 今は、諦めていた。そんな使命なんてどこにも見つからなかった。あるいはあいつらがそうだったのかもだが、奴等はぼくを攻撃してきた。そういうのを使命として拝領したくはなかった。


それに比べて、目の前の女子高生はどうだ。いい感じにイカれている。話す内容の全てが頓珍漢だ。ここまでくると好感が持てた。「行くところまでいけ、なんとかなるから」が性分である。他人から傷つけられるのは我慢ならないが、自ら傷つきに行くのは体験してきた。


ぼくは日本酒を飲み終える。殻は右ポケットに、左から新しい紙パック。ストローを外して、刺す。半分くらい一気に吸えば、もう完璧だ。こんな少女に騙されてやるか、と覚悟が決まる。


「いいんじゃないか?」とぼくは独り言のように言った。「いいよ、ドイツだな? 戻ってやるよ。人殺し? 探してやるさ」

彼女はパッと明るくなる。

「ほんと? やってくれるの?」

「脚色くらいお手のもんさ。どうせ暇なんだし……」

そう、過ぎた昔に本当は無かったことを挿入することくらい、造作もない。誰にも迷惑はかけないんだから。タイムスリップ? あるわけないだろ。しかし、意味のわかんない女子高生に騙されて、バカみたいな時間を過ごした、そういう経験には価値がある。今度ダチと会った時の摘みにでもしよう。


「じゃ、これ、手付金ね」

彼女がそう言ったので、ぼくは反射的に手を伸ばした。

握手。

ではなかった。

ぼくが握りしめていたのは、スタンガンだった。


「Bon voyage!」

バチッ!


目覚めるとそこは飛行機の中だった。

機内は暗い。お休みモードだ。隣のおっさんはいびきを立てて眠っている。

ぼくはシートの画面を操作した。ロシア上空。目的地まで数時間もある。

乗り継ぎはどうした、マジなら免税店でカートンを買うつもりだったんだぞ、てかそもそも金持ってんのか? とぼくは矢継ぎ早に考える。なーんの意味もない。


「ヤバいぞ」と声が聞こえてきた。「作戦が失敗した。全部バレてたんだ」

英語だった。

「まさかここで装置を使うつもりじゃないだろうな?」

「他に方法がない。当局の手に渡すわけにはいかないからな……」

「しかしこの高度では誤差が……」

「それでも、やるしかない」覚悟を決めた男の声。「数年のギャップは生じるかもしれないが、とにかく過去に行くしかない。この情報を伝えなければ……」

何の話かは分からなかったが、嫌な予感がした。女子高生の声が思い出されるーー”途中で墜落する”。


それは流石にごめんだった。あまりにごめん過ぎて、流石のぼくも何とかしようと思った。どうせならこのままベルリンまで行きたい。勝ち目なんてなかったが、抵抗くらいはすべきだろう。乗務員を呼んでもいいかとしれない。これこそ渡りに船みたいなもんだ。いずれにせよ、席から立とうと思った。備え付けの電話については忘れていた。

けれども結局はどっちでも同じことだった。

ぼくは座席に縛り付けられていたのだ。

何がどうなってんだよ、身動き一つ取れない。


「いくぞ」男は言った。行くな、と願った。声は出ない。口すら麻痺している。「3、2、1ーーリバース」


座席の真ん中でカッと光が爆ぜた。


雀が鳴いた。

夢じゃん、と寝返りを打ったら、壁にぶち当たった。しばらく意味がわかんなかった。ぼくの今の自宅は、右に転がれば地面に足が落ちるはずだった。右に壁があるなんておかしいーーそんなのはドイツ時代くらいのものだ。


女子高生の言葉が思い出される。

まさかだろ?

ぼくは目を開けた。

ドイツ語の教科書から書き出した例文がそこにあった。あの頃懸命に取り組んでいた学習成果だ。書いて貼れば覚えると願をかけていたもの。

「冗談だろ」

逃げるように左回転、一転半、着地。ひんやりとした床。おそるおそる顔をあげる。すぐ机にぶち当たる。開きっぱなしのラップトップ、転がってるビール瓶。ああ、全部覚えがある。この銘柄も、あの銘柄も、壁に貼られた地図だって……。


アラームが鳴った。

その時そうしていた通りに、丁寧に年号から今日の日付を読み上げる。

『201X年ーー』


どうやら、マジでタイムスリップしたらしい。目覚めたら、ドイツだった。

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00. プロローグ集 織倉未然 @OrikuraMizen

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