二十九 それから……
夏が終わった。
季節は移ろう。まだ暑さは拭いきれないが、少なくとも極暑と呼べる程のものはなくなった。文芸部の部室は、夏休みに敢行した大掃除の成果で小綺麗だったが、ドアを開け放しても蒸していて、居心地が良いとは言えなかった。新しく買ったちゃぶ台の上に文芸部が発行した冊子のひとつを広げていた
スニーカーに履き替え、部室を出て廊下の手すりに身を預け、二階から中庭を見遣れば、雲ひとつない
僕はスニーカーを脱ぎ、靴下で部室内に戻ると、財布から一枚の紙切れを取り出し、ハンカチで汗を拭っている花凛に手渡した。「昨日、実家の方に届いた。僕の名刺だ。もらっておいてくれ。」「名刺?」花凛の手元に渡ったそれには、シンプルなデザインの中に僕の名前や連絡先が印字されていて、肩書きは作家だった。「本を出さないかって依頼、受けることにしたんだ。打ち合わせの席で出す名刺の一枚もないんじゃ、格好が付かないだろう。」「へえ、そういうもの。」やはり興味のなさそうに受け答えつつも、結局は、花凛は自分の鞄の中に、大事そうに僕の名刺をしまいこんだ。
やはりまた部室棟の廊下に出る、風は涼風だとはとても言えなかったが、夏のそれでもない。つい先日、身に絡まるようだった風は、今は撫でるかの如くだ。やはり季節は変わったのだった。ふと眼下を見ると、露店の人波を掻き分けて、
僕はしまったと思い、スマートフォンで時刻を確かめる。すでに十分遅刻だ。勇奈は部室棟の階下まで来ると声を張った。「結真先輩、奥さんがかんかんですよ。」これについては花凛の口が軽かったからなのだが、僕と早緑との関係は早くに知れ渡り、僕にとって早緑は奥さん、早緑にとって僕は旦那さん、学校が始まってたった二週間足らずで、そう解釈されるまでに至っていた。そんなことよりも、問題は時間だ。チャットアプリでメッセージのひとつでも寄越せばいいはずが、これは相当に怒っているとみえる。
僕は部室に置きっ放しにしている上靴を引ったくる。急いで部室棟の横に
校舎は息をしていた。祭りという呼吸だ。急ぎ足で三階へ向かう、校舎内も活況で、幾人もの人たちと行き違う。壁に貼られた出し物のポスターたちは、僕を愉快な気分にさせてくれる。ほとんどのクラスが戸を開け放しているために、冷房が漏れて、校舎内は外よりなお
単に僕が、文芸部の店番をする順を忘れていただけのことで、僕が教室に入るなり、じろりと睨まれた。「お安いパフォーマンスだけれど、
二三、客が来て、文芸部の発行した冊子を買っていった。一冊二百円、三冊セットで五百円。客の切れ間、早緑が「ユウの人生、これで良かったって思ってる?」唐突に尋ねてきた。僕は悩まなかった。「後悔はしてるさ。いくらでも。けど、なかなかどうして、これで満足してる。」
また客の入りがあって、僕は「どうぞ、見本誌を手に取って見てやってください。」と声を掛けた。女子中学生の二人組が、熱心に大楠結真のコーナーに目を遣っていた。「人生、ね。」ふと思い、呟く。「僕の人生がラブコメだったら面白かったかもしれないな。」「どういう意味?」僕が
早緑は話題を転じた。「ラブコメじゃなかったら、ユウの人生は何なの?」あんな夏は人生で一度だけでいい。懲り懲りだ。そんなことばかりが頭を巡る。僕の答えは明らかだった。「早緑がいる。ただそれだけの人生だよ。」「あからさまなリップサービスも、まあ、悪くはない。」早緑はまんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。
早緑がいる。
夏の言霊 香鳴裕人 @ayam4
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