二十九  それから……



 夏が終わった。

 季節は移ろう。まだ暑さは拭いきれないが、少なくとも極暑と呼べる程のものはなくなった。文芸部の部室は、夏休みに敢行した大掃除の成果で小綺麗だったが、ドアを開け放しても蒸していて、居心地が良いとは言えなかった。新しく買ったちゃぶ台の上に文芸部が発行した冊子のひとつを広げていた花凛かりんは、大きくひとつ息をくと、「いやあ、なかなか良く書けてるよ。傑作。さすが結真ゆうまくん。」と、僕の書いた小説を、さして興味がなさそうに称えた。空調の効いた校舎内で読めばいいはずが、どうも花凛には早緑さみどりを避けている節がある。花凛は文芸部の会場設営にも顔を出さなかったと聞く。クラスの出し物でボウリングをやるというので、花凛の服装は下が茜色のジャージで上は体操着だった。「本日は晴天なり。文化祭日和びより。」と、僕は独り言で応じた。今日は九月の十二日、我らが県立晨央しんおう高校の文化祭、晨央祭しんおうさいの初日だった。季節の移り変わりを肌で感じたくて、僕は部室に居座っていた。

 スニーカーに履き替え、部室を出て廊下の手すりに身を預け、二階から中庭を見遣れば、雲ひとつない好晴こうせいもとに露店が並び、中々に盛況の様子だ。「それから……、だな。」僕は呟く。僕は僕のゆるがせの生の中にあった夏を思い、種々しゅじゅの色取りを反芻はんすうし、そして今を見た。どんなに近しくとも夏は過去になり、今は別にある。

 僕はスニーカーを脱ぎ、靴下で部室内に戻ると、財布から一枚の紙切れを取り出し、ハンカチで汗を拭っている花凛に手渡した。「昨日、実家の方に届いた。僕の名刺だ。もらっておいてくれ。」「名刺?」花凛の手元に渡ったそれには、シンプルなデザインの中に僕の名前や連絡先が印字されていて、肩書きは作家だった。「本を出さないかって依頼、受けることにしたんだ。打ち合わせの席で出す名刺の一枚もないんじゃ、格好が付かないだろう。」「へえ、そういうもの。」やはり興味のなさそうに受け答えつつも、結局は、花凛は自分の鞄の中に、大事そうに僕の名刺をしまいこんだ。

 やはりまた部室棟の廊下に出る、風は涼風だとはとても言えなかったが、夏のそれでもない。つい先日、身に絡まるようだった風は、今は撫でるかの如くだ。やはり季節は変わったのだった。ふと眼下を見ると、露店の人波を掻き分けて、勇奈いさなが部室へ急いでいた。勇奈のクラスはメイド・執事喫茶をやるというが、残念ながら着ていたのは桜色のワンピースだった。

 僕はしまったと思い、スマートフォンで時刻を確かめる。すでに十分遅刻だ。勇奈は部室棟の階下まで来ると声を張った。「結真先輩、奥さんがですよ。」これについては花凛の口が軽かったからなのだが、僕と早緑との関係は早くに知れ渡り、僕にとって早緑は奥さん、早緑にとって僕は旦那さん、学校が始まってたった二週間足らずで、そう解釈されるまでに至っていた。そんなことよりも、問題は時間だ。チャットアプリでメッセージのひとつでも寄越せばいいはずが、これは相当に怒っているとみえる。

 僕は部室に置きっ放しにしている上靴を引ったくる。急いで部室棟の横にしつらえられた階段を降りると、金属製の錆びた踏面ふみづらは跳ねる音を立てた。人波にもまれる気にはなれず、僕は「こっちの方が早い。」と、回り道を選んで駆け始めた。今さらなことは明白だが、急いで来たという態度は必要だ。中庭を抜けずに、校舎二号館の裏手を回る。第二倉庫の隣、衣装を運んでいる生徒の隣を過ぎ、座ってアイスバーを囓っている子供の前を駆け抜け、気分は浮つく、一階の渡り廊下の入り口でスニーカーを脱ぐと上靴に履き替えた。スニーカーは隅に寄せておく。似たような手合いが何人かいるらしく、同様に外履きがいくつか並んでいた。

 校舎は息をしていた。祭りという呼吸だ。急ぎ足で三階へ向かう、校舎内も活況で、幾人もの人たちと行き違う。壁に貼られた出し物のポスターたちは、僕を愉快な気分にさせてくれる。ほとんどのクラスが戸を開け放しているために、冷房が漏れて、校舎内は外よりなおぬるい。三階まで階段を登り切ると、活気づいた廊下を駆け抜ける。さあ、恋人に会いに行こう! 文芸部に割り当てられた教室に駆け込んだ。

 単に僕が、文芸部の店番をする順を忘れていただけのことで、僕が教室に入るなり、じろりと睨まれた。「お安いパフォーマンスだけれど、暢気のんきに歩いて来られるよりは、まあ、腹は立たない。」レジ代わりにふたつ並べた机を前に座り、早緑は、そう言いつつもなお刺々しく「私とふたりでの店番がそんなに嫌なのかと思ってたところ。」と、怒りを隠そうという気配はない。まさか僕が早緑を嫌がるとは思っていまい、これは単に、定められた時刻を守れなかったことを責められているのだろう。「あれだけ散々、ここに愛があると嘆いておいて、こんな晴れの日にすっぽかされそうになるなんて。」僕が振り回した散々な夏の果てに、それはあった。変容した夏の終わりに、愛は転がっていた。

 逢館おうだて高校が統合され、晨央しんおうと名を変えてから、デビュー前の藤ノ木ふじのき篤芽あつめを特集したコーナーは作られなくなった。しかし今回は代わりに、来年二月にデビュー予定の在学生のコーナーが作られていた。大楠結真、僕のことだ。ご丁寧に僕の写真まである。僕は早緑の隣にあった椅子に腰掛け、「聞いてないぞ、これは。」と言った。「言わなかったもの。どうせ嫌がるだろうと思ったから。部長のくせに設営に来なかったユウが悪い。」「ちゃんと説明したろう。クラスでの調理の仕込みがあると。」確かに僕は、自分のコーナーなんて真っ平ご免だと言うだろう。「なんて、ね。」早緑は不満顔を解き、僕に向かってはにかむように微笑んだ。「彼氏が文壇デビューするんだもの。自慢しないって手はないでしょう。」早緑に微笑まれて、僕は何も言えなくなるのだった。

 二三、客が来て、文芸部の発行した冊子を買っていった。一冊二百円、三冊セットで五百円。客の切れ間、早緑が「ユウの人生、これで良かったって思ってる?」唐突に尋ねてきた。僕は悩まなかった。「後悔はしてるさ。いくらでも。けど、なかなかどうして、これで満足してる。」

 また客の入りがあって、僕は「どうぞ、見本誌を手に取って見てやってください。」と声を掛けた。女子中学生の二人組が、熱心に大楠結真のコーナーに目を遣っていた。「人生、ね。」ふと思い、呟く。「僕の人生がラブコメだったら面白かったかもしれないな。」「どういう意味?」僕がしばし黙考していると、中学生の二人組から、サインをねだられる羽目になった。「ラストが違っただろうと思ってね。」そう、違う終わり方を迎えただろう。こんなに静かではいられなかっただろう。「今ここに、南水みなみがやってきて、五百円玉を突き付けて言うんだよ。よりを戻さないなんてひと言も言ってないからね、ってさ。それで、ドタバタのままで終わる。」現実は物語じゃない。物語は現実じゃない。僕は話を続けた。「結局、誰と決着を付けるのか曖昧なまま、楽しくハッピーエンドだ。」「物騒なことを言うのはやめて欲しいわ。心底。」客はいるのだが、早緑はげんなりした様子を隠さなかった。僕は短く言った。「来ないさ。」それは確信を帯びていた。「僕の人生は生憎あいにくラブコメじゃない。結論を濁して、これからの未来を放り投げられもしない。エンディングは今じゃない。」早緑は呆れた様子を見せてから、どうも諦めた面持ちになった。「まったくもう、本当に来たらどうするつもり。」「来ないさ。」やはり、確信を帯びる。南水は今日、ここには来ない。南水と過ごす今は、もうすっかり放られてしまった。少しばかり、視界が滲んだ。「来ないんだよ。」早緑を見る視界がにわかに、仄かにぼやけた。「ラブコメだったら面白かったかもしれないのに。」「来て欲しいのね。よくわかったわ。」早緑は深く嘆息した。「さあね。僕の気持ちながら、自分でもよくわからない。」本当に南水が来たとしても、ドタバタのエンディングからは程遠くなりそうだ。

 早緑は話題を転じた。「ラブコメじゃなかったら、ユウの人生は何なの?」あんな夏は人生で一度だけでいい。懲り懲りだ。そんなことばかりが頭を巡る。僕の答えは明らかだった。「早緑がいる。ただそれだけの人生だよ。」「あからさまなリップサービスも、まあ、悪くはない。」早緑はまんざらでもなさそうな表情を浮かべていた。

 早緑がいる。




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夏の言霊 香鳴裕人 @ayam4

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