二十八  忘れないで。



 宿泊の料金を精算し、外に出てみれば、蒸暑はためらいなく僕たちを包んだ。東から白み始めていて、空はぼんやりとした明るさを持っていた。昨夜、T駅から大分歩いた結果、隣のR駅の方が近くなっていたので、僕と南水みなみはそこまで連れ立って歩くことにした。腕時計を見てみれば、時刻は四時四十一分だった。わざわざ南水は確認した、日の出は五時四分であると。まだ夜は明けていない。すなわち、僕と南水との間で交わされる愛は、まだここに残っている。

 夜明けを前にした街はどこか静謐せいひつとしていて、蝉の音もまだ聞こえず、僕は夏にいながらも、その空き間に滑り込んだ感覚に囚われた。昼とも夜ともつかない光量が、余計にその感を強めた。南水みなみが、「腕、組んでいいよね。」と言うので、僕は黙って頷いた。僕たちは言葉少なに歩き出した。もうすぐ夜が明ける。あと二十分と少しで、僕たちの一夜は終わる。

 線路沿いの道は繁華街からは離れ、住宅、店舗と、雑多な並びをそこに見た。ホテル街でもあるようで、いくつかが散見された。アスファルトの路面は、街灯の明かりには飽きたと言いたげで、曖昧な光の中で、飢えて太陽を待っているようにも感じられた。「泣かないよ。」出し抜けに南水が言った。「もう泣かない。」力なくもはっきりした声音だった。南水はすぐに話題を変えた。「愛って、人生でいくつあるかな。」僕は答えに窮した。何とか言えたことは、「少なくとも今は、ひとつきりだと思っていたい。」だった。「結真ゆうまって本当に最低。そんな大事なものを、こんなふうに捨てるなんて。」「否定はできない、けど――」僕はためらった。今さら人でなしに怯えるなんて、らしくはなかった。「――捨てなければ、この一夜はなかった。」薄暮の反対側、払暁ふつぎょうの頃に、僕たちは並んで歩いている。寂寥感せきりょうかんは募った。「おかげさまで、この先誰に抱かれても満足できない体になった。」南水は笑った。「お互い様だ。」僕も笑った。

 腕を組み、夜明け前の道を進む、新聞配達の原付とすれ違う。朝はまだ、もう少しだけ先にある。僕は路上で南水にキスをした。南水は遠慮なく舌を絡めた。「腰ががくがくしちゃって。もう少しゆっくり歩いて。」と、南水は言った。僕も似たようなものだった。情緒じょうしょも何もない、相変わらずのふたりだ。

 時間をかけて着いたR駅の駅舎は、T駅よりもずっと質素で、人気ひとけはなかった。僕はタクシー代を南水に渡そうとしたが、南水は電車で帰ると言って譲らず、それならば僕は電車で帰る南水を見送ろうと、折を見てふたりで構内へ入った。駅のホームはひとつきりで、ぱらぱらと人がいるのに交じって立つ。じわと湿気が口内を湿らせる。朝の空気が近くなっていた。

 南水はバッグを振り、僕を軽く叩いた。「感動的なお別れになんてしてやらないから。あたし、振られる側だし、そんな義理ないから。」二度目をくらいたくはなかったので、僕は別な話を振った。「愛はある。けど、確認できたのか、これで。」「わからない。」南水はホームに向かう看板を見遣った。乱雑に風が吹き、南水の結い直された髪を揺らした。「あれだけ言っておいて何だけど、ただ思い出が残るだけなのかもしれない。」横から見る南水の顔は切なげで、僕は拍動を乱した。南水は電光掲示板に目を向けると、「電車、ちょうど五時四分だね。」ぽつりと漏らした。南水の乗る電車が出発する時、僕たちの間にある愛が放られる。

 何か言わなくてはいけない、そう思いながらも、何も言葉にはできなかった。肝心な時に、僕は言葉のひとつさえ見つけてやれないのだ。沈黙が目立つようになり、僕は諦めて、南水の額にキスをした。警笛が鳴る。電車がすぐそこまで来ていることを知らせてくれる。「好きになってよかった――」南水は僕の耳もとに口を近づけて言った。「――なんて、絶対言ってやらないから。最っ低。」否定の言葉は何ひとつ浮かばず、「そりゃそうだろう。」と言うと、南水は僕の耳たぶを遠慮なく噛んだ。

 電車の到着を場内アナウンスが知らせる。車両が線路を踏む音が、遠くから聞こえ、それは次第次第に近づく。僕は人目をはばからず、南水と唇を重ねた。そっと離して、「後悔してる。これからもずっと、後悔しながら生きていく。」そう伝えた。南水はひとつ、満足そうな顔を浮かべた。「それでいい。忘れないで。」

 電車は遠慮なくホームに沿って駅に入り込み、ゆると速度を落とし、ついには止まる。ドアが開く。瞬間が連続するような僕の主観の中で、疎らに人を飲み込んだ車両の中に、南水はためらいなく足を踏み入れる。南水はこちらに向き直り、ドアが開いたままのわずかな時、僕に瞳を据えたまま動かなかった。しかし互いに言葉はなく、ただ痛みだけが僕のうちを走った。一夜が終わる。終わらせるための愛が、果てようとしている。場内のアナウンスに続いて、車両のドアは閉まった。

 ドアのガラス越しに、南水の口がゆっくりと動いた。

 何を言っているかは聞き取れずとも、その口の動きで、何を言ったのかは想像できた。きっと、南水はドアの向こうで言ったのだ。「愛してたよ。」と。



 書きかけの小説が、ノートパソコンの画面に映っている。それは知っている。僕はを拾った。反転させた夏の向こうにある痛みを知った。あとはそれを、命にしてやればいい。言霊にしてやればいい。けれど僕は続きを書けない。当然だ。

 早緑さみどりが玄関を開ける音がした。もうすっかり夜は明けていた。乱雑に脱いでリビングのテーブルに放ったシャツに何か異変を感じ取ったのだろうか。早緑は僕のいる四畳半に繋がるドアのノブを握る。南水の香水の匂いが移ったシャツを着ていられなくて、僕はタンクトップに着替えていた。エアコンはつけず、窓はすっかり開け放していた。夏の息吹と熱が、光が、朝によって生まれ、これでもかと僕を刺す。感覚は酷く鋭敏になっていた。早緑がドアノブを回す音が耳に不快を伴って届いた。「ユウ?」早緑は部屋に入り、僕を見ただろう。僕の視線は相変わらずパソコンの画面に向けられたまま。僕の横顔はどんなものだっただろう、どんな表情をしていたろう。僕は抑揚のない声音で言った。「あの大楠おおくす結真が、語と語を奇術のように繋げて名文をる天才が、一文字も書けないでいるんだよ。こんな馬鹿な話があるか。」早緑は僕に寄り、黙って僕の頭を抱いた。「そりゃあそうでしょう。こんなに泣いていたら。涙で滲んで画面が見えない。」画面をどれだけ見つめても、僕の言葉たちは、言霊は見えない。ぼやけてしまって、それが何かわからない。ただ涙だけがあふれた。そこに嗚咽はなかった。零れてはまだ続く涙だけ、いつまでも止められずにいた。それは喪失によるものか、違う。ただただ、情けなかった。ずるいと思った。卑怯だと。卑怯だと!「南水を捨てても、たとえ愛を捨てても、僕には早緑がいるんだ。狡いじゃないか。」早緑はわずかな沈黙を経て、「そうじゃない。」と言いながら、僕をきつい程にいだいた。早緑の服、白い袖が、涙に濡れた。「きっとユウは、私を選んでくれたのでしょう。ただ、それだけのこと。」「僕には早緑がいるんだ。狡い。」駄々をこねる子供だった。ただ言葉を繰り返した。涙は収まるどころか増した。「ユウは私にいだかれることを許してくれた。その事実があればいい。愛なんてなくてもいいから。隣にいさせて。」ここに愛が全くないかと言われれば、それは間違いなく嘘だった。早緑は腕だけで満足せずに、体ごと僕を抱きしめた。嘘だ。。狡いじゃないか。

 愛の反対側にあるものはやはり愛ではなかった。思う所、対にあるのは記憶であり、過去だった。記憶は失われてしまうかもしれない。過去だけは必ずそこに残る。愛の反対側にあるものは過去だ。そして僕は、早緑と今日を生きる。過去ではなく今を生きる。今を生きている。愛をなくした時、今が消える。「狡いじゃないか。僕には今、早緑がいる。」早緑は僕のことを人でなしと断言したわりに、何も責め立てない。「そう。私がいる。ユウは好きなだけ泣いていい。私はただ、ユウの隣にいる。」「狡いじゃないか。早緑がいる。」僕の言葉は、ただエゴを反復するものでしかなかった。僕が僕を断罪することを、南水は望んでいなかっただろう。たとえ憎まれ口を叩こうとも。「早緑がいる。」僕は繰り返した。「そう。私がいる。」早緑もまた、繰り返した。




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