二十八 忘れないで。
宿泊の料金を精算し、外に出てみれば、蒸暑はためらいなく僕たちを包んだ。東から白み始めていて、空はぼんやりとした明るさを持っていた。昨夜、T駅から大分歩いた結果、隣のR駅の方が近くなっていたので、僕と
夜明けを前にした街はどこか
線路沿いの道は繁華街からは離れ、住宅、店舗と、雑多な並びをそこに見た。ホテル街でもあるようで、いくつかが散見された。アスファルトの路面は、街灯の明かりには飽きたと言いたげで、曖昧な光の中で、飢えて太陽を待っているようにも感じられた。「泣かないよ。」出し抜けに南水が言った。「もう泣かない。」力なくもはっきりした声音だった。南水はすぐに話題を変えた。「愛って、人生でいくつあるかな。」僕は答えに窮した。何とか言えたことは、「少なくとも今は、ひとつきりだと思っていたい。」だった。「
腕を組み、夜明け前の道を進む、新聞配達の原付とすれ違う。朝はまだ、もう少しだけ先にある。僕は路上で南水にキスをした。南水は遠慮なく舌を絡めた。「腰ががくがくしちゃって。もう少しゆっくり歩いて。」と、南水は言った。僕も似たようなものだった。
時間をかけて着いたR駅の駅舎は、T駅よりもずっと質素で、
南水はバッグを振り、僕を軽く叩いた。「感動的なお別れになんてしてやらないから。あたし、振られる側だし、そんな義理ないから。」二度目をくらいたくはなかったので、僕は別な話を振った。「愛はある。けど、確認できたのか、これで。」「わからない。」南水はホームに向かう看板を見遣った。乱雑に風が吹き、南水の結い直された髪を揺らした。「あれだけ言っておいて何だけど、ただ思い出が残るだけなのかもしれない。」横から見る南水の顔は切なげで、僕は拍動を乱した。南水は電光掲示板に目を向けると、「電車、ちょうど五時四分だね。」ぽつりと漏らした。南水の乗る電車が出発する時、僕たちの間にある愛が放られる。
何か言わなくてはいけない、そう思いながらも、何も言葉にはできなかった。肝心な時に、僕は言葉のひとつさえ見つけてやれないのだ。沈黙が目立つようになり、僕は諦めて、南水の額にキスをした。警笛が鳴る。電車がすぐそこまで来ていることを知らせてくれる。「好きになってよかった――」南水は僕の耳もとに口を近づけて言った。「――なんて、絶対言ってやらないから。最っ低。」否定の言葉は何ひとつ浮かばず、「そりゃそうだろう。」と言うと、南水は僕の耳たぶを遠慮なく噛んだ。
電車の到着を場内アナウンスが知らせる。車両が線路を踏む音が、遠くから聞こえ、それは次第次第に近づく。僕は人目を
電車は遠慮なくホームに沿って駅に入り込み、ゆると速度を落とし、ついには止まる。ドアが開く。瞬間が連続するような僕の主観の中で、疎らに人を飲み込んだ車両の中に、南水はためらいなく足を踏み入れる。南水はこちらに向き直り、ドアが開いたままのわずかな時、僕に瞳を据えたまま動かなかった。しかし互いに言葉はなく、ただ痛みだけが僕の
ドアのガラス越しに、南水の口がゆっくりと動いた。
何を言っているかは聞き取れずとも、その口の動きで、何を言ったのかは想像できた。きっと、南水はドアの向こうで言ったのだ。「愛してたよ。」と。
書きかけの小説が、ノートパソコンの画面に映っている。それは知っている。僕は石ころを拾った。反転させた夏の向こうにある痛みを知った。あとはそれを、命にしてやればいい。言霊にしてやればいい。けれど僕は続きを書けない。当然だ。
愛の反対側にあるものはやはり愛ではなかった。思う所、対にあるのは記憶であり、過去だった。記憶は失われてしまうかもしれない。過去だけは必ずそこに残る。愛の反対側にあるものは過去だ。そして僕は、早緑と今日を生きる。過去ではなく今を生きる。今を生きている。愛をなくした時、今が消える。「狡いじゃないか。僕には今、早緑がいる。」早緑は僕のことを人でなしと断言したわりに、何も責め立てない。「そう。私がいる。ユウは好きなだけ泣いていい。私はただ、ユウの隣にいる。」「狡いじゃないか。早緑がいる。」僕の言葉は、ただエゴを反復するものでしかなかった。僕が僕を断罪することを、南水は望んでいなかっただろう。たとえ憎まれ口を叩こうとも。「早緑がいる。」僕は繰り返した。「そう。私がいる。」早緑もまた、繰り返した。
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