愛は両手から溢れ出すくらいがいい

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話を書くのも読むのももともと、好きなほうだった。文章を書いている時は自分がまるで自分自身ではないように感じることが出来たし、読んでいる時には綴られた文字によって日常から非現実にさらわれるような感覚がたまらなかった。

小中高、どの時代も学校があるうちで一番好きだった時間は朝の読書時間だったし、言うまでもなく、俺は本の虫だった。

大学を卒業する少し前に、興味本位で応募した小説家を発掘するという企画で、運良く大賞を獲得してから一日たりとも万年筆を握らなかった日はない。

知り合いからは「やめておけ」「文章で食べていけるわけないだろう」と散々言われた。だけど、好きなことを仕事に出来るなんて素敵じゃないか、幸せじゃないかと俺は思っていた。今考えると、青臭い中学生のような考えだなと少し恥ずかしくなるけれど、後悔はしていない。俺は飽きもせず、来る日も来る日も机にかじりついては薄く白い原稿用紙に紺のインクで文字を綴った。

万年筆と、原稿用紙さえあれば生きていけると本気で思っていた。


一冊目に出した本は、正直あまり売れなかった。担当は、首をひねって「うーん、なんでですかね。売れると思ったんですけどねえ。」なんて言っていたが、大御所の作家には「繊細な文章は評価するが、タイトルや内容がありきたりだ。」と言っていたのを俺は知っている。

悔しかったし、なにより一生懸命考えた話を「ありきたり」という一言で一蹴されたのが情けなかった。


周りの人間は慌ただしく就職活動をしている中、俺は毎日講義が終わると真っ直ぐ家へ帰った。家に帰ってからは、眠気が襲ってくるまでずっと紺色の文字を紡いだ。


大学を卒業してから俺は、家から出る機会がめっきり減った。し、それに伴ってだんだんと生活リズムが狂い出していった。もちろん、今までの生活だって決して褒められたものではなかったけれど。

だけど、辛うじて毎日入っていた風呂はいつの間にか三日に一度程になっていたし、食事だって三食きちんと食べる日が再び訪れることはなくて、気が向いた時に冷めた白米に緑茶を注いでお茶漬けにしたものを食べた。

実家から、「きちんと就職しろ」「たまには帰ってこい」という類の意味を込めた電話はしょっちゅうあったけれど、全て無視した。


唯一連絡を取り合っていたのは、隣町の大きな家にひとりで住んでいるばあちゃんだけだった。ばあちゃんは、いつでも俺に味方してくれた。俺が就職はせずに小説家として生きていくと決めた時も、周りの反対の声の中でばあちゃんは「がんばりなさい、孝則が決めたことなんだからばあちゃんは応援するよ。」

と、しわしわだけど白くて柔らかく優しい手で俺の手を握ってくれた。

そういえば、小学一年生の誕生日にばあちゃんが俺に本をくれたんだっけ。タイトルは確か、「エルマーの冒険」だった気がする。作中に虎が出てきて、自分の尻尾を追いかけぐるぐると回っているうちに虎がバターに変わってしまうというシーンが大好きだった。

思えば、読書にどっぷりとのめり込んだのもその頃で、きっとエルマーの冒険がその皮切りだったんだと思う。


ばあちゃんがいなかったら俺今何やってたんだろ、普通に就職して、普通の企業に務める?実家に帰って、家業を継いで嫁をもらう?そんな自分、一ミリたりとも想像出来なかった。


一冊目の本を出してから二年後、新しい本を出した。ばあちゃんと電話をしている時に、ぱっと浮かんできた話をそのまま書いた。

担当に見せると、「うん、いいじゃないですか。」と満足気な笑みで言われた。

その笑みに俺は信憑性を、感じなかったけれど。絶対に売れないだろうと。それでも、ばあちゃんとの会話の切れ端を繋いだ話が世に出るのは素直に嬉しかったから「ありがとうございます。お願いします。」と今まで生きてきた中で一番深くお辞儀をした。


俺の予想に反して、二冊目の本は有り得ないほど、それこそ飛ぶようにという表現が一番しっくりくる位に売れた。売れに売れまくった。毎月、当座に振り込まれる額の大きさに嬉しさを通り越して少し慄いた。テレビでも、たびたび俺の名前が出るようになって、本の紹介がされて、俺はそれを小さなワンルームマンションで他人事のように眺めていた。


様々な媒体で俺の本が紹介されるようになって、身内や同じ大学に通っていた人間は手のひらを返したように俺の職業に肯定的になった。「やっぱりね、こうなると思ってたのよ。賛成してよかったわ。」と母さんは笑っていたけど、あんた、俺の夢に散々反対したじゃん。結局、おばあちゃんという存在に折れただけで、賛成なんか一度もしてくれなかったくせに。親の笑顔に、初めて吐き気がした。


ばあちゃんは、テレビや新聞で俺を見る度に「あんたまた出とったねえ…あんたはほんとによく頑張った。」と電話をくれた。

その度に俺は、「ばあちゃんのおかげだよ。ありがとう。今度美味しい飯でも食べに行こう。」と返した。


その後から、多忙に多忙を極めていてなかなかばあちゃんと連絡が取れなくなった。

やっと、取材を受けたり、コラムを書く仕事がひと段落ついたから、そろそろばあちゃんと美味しいものを食べに行く日程を電話で決めなきゃな、と思っていた矢先、実家から携帯電話に電話がかかってきた。

いつもなら着信音が止むまで無視を決め込むのに、言いようのない嫌な予感がして気づけば画面の『通話応答』をタップしていた。


「もしもし」

「もしもし?」

久しぶりに耳にする母さんの声は、ひどく慌てているように聞こえた。

「そうだけど、何か用?」

「おばあちゃんが、亡くなったの」


一瞬、母さんが何を言っているのか分からなかった。

だってばあちゃん、この前電話した時元気だったし。まだ美味しいもの食べに連れて行ってないし。予定だってこれから建てようとしてたのに。ぐるぐる、頭の中で思いが巡る。

「お葬式をするから、実家に帰ってきなさい。」

母さんの言うことに、今回ばかりは従うしかない。急遽、いつもは着ることのない黒々としたスーツに身を包んで必要なものだけ持ってアパートをあとにした。


免許なんて持ってないから、その場で適当なタクシーを拾って実家の住所を伝えた。

うまく、声が出ていなかったかもしれないし、声が震えていたかもしれない。そう思い返すほどに俺も母さんと同じくらい、落ち着きをなくしていた。

だって、ばあちゃんが、ばあちゃんが。

ぐらぐら揺れる情緒を抑えつけたくて、だけどどうしたらいいか分からなくて、どうしようもない子供みたいに自分の指の爪を噛んだ。小さい頃、よく爪を噛んでいてばあちゃんに叱られたのを思い出した。

「綺麗な手をしてるんだから、大切にしなさい。」

と言いながら、血管が浮き出しているひどく頼りない皮膚を纏った手のひらで小さかった俺の深爪がちな手を包み込んでくれたことも、脳裏を駆け巡った。

ねえばあちゃん、そう言えば俺、ばあちゃんが褒めてくれた手で、文字を書いて生活してるよ。もしもばあちゃんが褒めてくれなかったら、俺があのまま噛み癖を直さなかったら、不格好な手で不格好な文章しか書けていなかったかもしれない。ありがとう、ばあちゃん。


気がついた頃には、黒いスーツに点々とシミができていた。

ここがタクシーの中だとか、俺はもういい歳をした大人だとか、そんなことはこの際どうでもよかった。声を殺したぶん、涙はとめどなく零れたし、拭う気にもなれなかった。泣いていないと平然を保てないからなのか、平然を保てないから泣いているのか、もうよく分からなかった。



実家に着くまで結局、二時間ほどかかった。一時間は車内で泣いたし、もう一時間は泣き顔を母さん達に悟られないようにどうすればいいかをずっと考えていた。

結論から言うと、何も思いつかなかったんだけど。だから、今俺の目元は腫れぼったく見えていると思う。漆黒のスーツにはひどく不似合いな面持ちだということは、自覚をした瞬間にどうでもよくなった。

おそらく一年ぶりに訪れた実家の、玄関を開ける。

見慣れた玄関、廊下。玄関が開いた音を聞きつけてリビングのドアから出てくる母さん。

母さんも、俺と同じような色の喪服に身を包んでいた。首元には、真珠の一連ネックレスを付けていた。

母さんに、導かれるように入ったリビングには見たことがある顔ぶれが勢揃いしていた。俺の職業を馬鹿にした親戚の人達、定職に就け、嫁を貰えと喚いていた叔母さん。ついこの前まで、俺の言動を否定していた人たちばかりが一堂に会して、ずっと俺の味方をしてくれていたばあちゃんがここにいない事が、ばあちゃんの死を俺により深く実感させた。



ばあちゃんの親族全員が俺の家に集められた理由は、率直な言葉にすると遺産相続のためだった。

「この金は俺のものになるはずだ。」「おばあちゃんの、宝石箱に入っていた指輪は全部私のものよ。」さっきまで、喪服に身をくるんで静かに黙っていた大人達がばあちゃんの遺した金目のものを自分のものだと騒ぐ姿を見て、呆れた。


あんたら、そんなに金が欲しいの。金が手に入ったらその嬉しさでばあちゃんの事なんかすぐ忘れちゃうんだろ。最低だな。そんな言葉が、喉元まで出かかっていた。そして、そんな親族の血が自分にも少なからず入っていることに酷い自己嫌悪を覚えて、吐きそうになった。


気持ち悪くて、嗚咽を漏らしそうになった時、母さんの重たい口が開かれた。


「あのね、おばあちゃんの家の箪笥の引き出しから出てきた紙があるんだけど。」

その言葉が発された瞬間、親族の視線は母さんに集まった。

母さんが、喪服のスカートのポケットから取り出したのは、少しくたくたになってしまった優しい色合いの和紙だった。

そこには、ばあちゃんの流れるように綺麗な字で

[お金はすべて、皆で分けてください。ですが、私が住んでいた家の存続権は孝則のものにしてください。]

と書かれていた。そして、とどめを刺すように封筒からこぼれ出たのは古びた鍵だった。

一同は、唖然としていたけど、一番困惑していたのは間違えなく俺だったと思う。なんで、なんで俺なの。ばあちゃん、あの家大事なものじゃなかったの。話してくれたじゃん、俺が小さかった頃。


ばあちゃんは、十年前まではじいちゃんと暮らしていて、それはそれはとんでもなく仲の良いおしどり夫婦だった。ばあちゃんとじいちゃんが住んでいた大きな木造の家は、じいちゃんのお父さんが建てたものらしい。ばあちゃんとじいちゃんが夫婦になった時に、ふたりで家を建てようかという話にもなったらしいけれど、ばあちゃんが「あなたが子供の頃を過ごした家に住みたい」と言ったから、ふたりしてじいちゃんの両親が住んでいた家に住んだらしい。

幸い、じいちゃんの両親とばあちゃんは気が合って仲良くやっていたらしいし、じいちゃんの両親が亡くなってからは、遅れて訪れたふたりきりの新婚生活をじいちゃんと楽しんだらしい。



じいちゃんが亡くなって、ばあちゃんは広すぎる木造の家に独り取り残された。それでもじいちゃんの遺産にも保険金にも手をつけずにひっそりとじいちゃんを想い続けていた。桜が咲いた頃、紫陽花が咲いた頃、かき氷が美味しくなってきた頃、木々が赤く色づき始めた頃、白い雪が屋根を覆うようになった頃、ばあちゃんの家に行った時にはたいてい、じいちゃんがいた頃はこんなことをしたという話を聞かせてくれた。その時のばあちゃんの目は、光に満ちていてまるで恋を初めて知った中学生の女の子みたいだった。

たぶん、ばあちゃんはあの家で一生の初恋を終えたんだと思う。そうでしょ?ばあちゃん。もう、聞いても答えてくれるばあちゃんはいないけど。



そんな、ばあちゃんの想いが詰まりすぎた家を俺に託されたことに、素直な疑問を抱いた。けれど、断る理由なんてあるはずもないし、だいたいあんな金に意地汚い親族にはばあちゃんの家を渡したくない。


「俺、明日からばあちゃんちに住むよ。」


生まれて初めて、こんなに淀みのない返事をした気がする。





ばあちゃんちに住むと俺が口にすると、みんなは慌てふためいていた。

「明日からってあんた、荷物とかどうするのよ」

母さんの言葉に、みんなもそうだそうだと言いたげな瞳で俺を見つめた。

「大丈夫だよ、俺荷物少ないし。なんなら今日すぐにでも引っ越せる。」

嘘じゃない。一人暮らしをしてからずっと、服も物もほとんど買い足していないから本当に俺の部屋には荷物が少なかった。きっと、泥棒をしようと家に入った人もがっかりするくらいには。


母さんが、

「じゃあ、そうしなさい。」

と、根負けしたように言ったから俺は親族の輪を一人抜けて、またタクシーに乗ってワンルームのアパートへと帰った。

ばあちゃん、葬式、出られなくてごめん。そう心の中で謝りながら。

いくら荷物が少ないとはいえ、人並みに生活を営んではいたはずだから、荷造りには少し時間がかかったし、何より大家さんを困惑させてしまった。

俺が大家さんの立場だったら、困惑を通り越して怒っていると思うけど。

「明日から、この部屋もう使わないんですけど。」

なんて言われたら。

それでも、困惑を感じさせまいと笑顔で

「ああ、わかりましたよ。」

と言ってくれたあたり、俺は周りの人間に恵まれているんだと思う。


荷造りが終わったのは、実家から家に帰ってきて三時間ほど経った頃だった。

すっかり段ボールとキャリーケースしかなくなった部屋で、冷たいスマートフォンの画面に触れる。

『即日 引越し』

と検索して一番上に出てきた業者の電話番号をタップする。二回ほど呼び出し音を聞いた後、男の人の声がそれを遮った。

明日の朝に引っ越したいという旨を伝えて、滞りなく引越しの計画を立てた。

朝の七時から業者の人がこの部屋に向かうと言われたから、その日は何もなくなったフローリングに、薄っぺらく使い古した布団を敷いて眠った。

普段、食う寝る書くしかしていなかったこの部屋も、最後の夜だと思うと不思議な愛着が唐突に湧き出て立ち去り惜しかった。

ばあちゃんの家、大事にしなきゃな。そう思ってゆっくりとまぶたを閉じた。



目を覚ますと、もう約束の時間五分前だった。今までの不規則な生活の中で、昼近くまで寝る習慣が付いてしまった俺にとっては六時台に目を覚ませたことでさえ快挙だ。まあ、ほぼ七時になりかけていたけど。

歯を磨いて、顔を洗って寝巻きから適当な服装に着替える。ちょうど五分でその準備諸々が終わって、狙いすましたかのようなタイミングでインターフォンが鳴った。


玄関まで駆けて、扉を開くと青い作業服の男性が二人。

お互い軽く挨拶をしてから、二人はさっさと引越しの作業に入ってしまった。俺も「手伝います。」なんて言ってダンボールを抱えようとしたけれど、日常生活で使われていない腕の筋肉が悲鳴をあげてしまい断念した。少し、いやかなり恥ずかしかったから、慣れないごまかし笑いをしてダンボールを二人へ委ねた。


その後、二人は一足先にダンボールを積んだトラックでばあちゃんの家へ向かった。

俺はというと、ベランダに出てみてはこの景色ともお別れかとちょっと黄昏てみたり、大家さんに鍵を返したりしていた。

長いこと住んでいたアパートに別れを告げた後、俺もタクシーを捕まえてばあちゃんの家に急いだ。

滞りなく引越し作業は進んだようで、俺がばあちゃんの家に着く頃にはほとんどのことは終わっていた。

何ヶ月かぶりに訪れたばあちゃんの家は、かつての主が亡くなった今も畳の香りすらそのままだった。


よく、小さい頃ばあちゃんの家に来た時はこの畳の上で昼寝をしたっけ。

ちょうど、庭に面した雨戸を開けると夏は涼しい風が吹いて快適だったのを覚えている。


引越し業者の人に、細々とした家具の配置はもう自分で出来るから大丈夫という旨を伝えて、帰ってもらった。

なんでかは分からないけど、妙に一人になりたかった。もしかして、これは俗に言うセンチメンタリズムに浸るというやつなのかもしれない。

「ふっ…子供かよ」

思わずこらえ切れない笑いと共に言葉も漏れた。ばあちゃんがいなくなっただけでこんなに心にぽっかりと穴が開くなんて、予想だにしなかった。というか、ばあちゃんはいつまでもこの家に住んで、家族の中で唯一俺を応援してくれる人であり続けてくれると心のどこかで思っていたんだと思う。


「ねえ、ばあちゃん今もう天国行っちゃった?俺、これからもばあちゃんが褒めてくれたいろんなこと思い出して頑張るからさ、そっちで見ててよ。」


畳に寝転びながらばあちゃんに向けて放った言葉は、後から気づくけど、俺一人だけが聞いていたわけじゃなかった。


襖の戸から、かたん、と物音がした。

おかしい。この家には、もうばあちゃんも、もちろんじいちゃんもいないはずで今は俺一人だけなのに。襖の戸が鳴るなんて。

ぱっと、襖の方を振り返ってみると、そこには白い肌と黒く長い髪をに、真っ赤な着物を身に纏った女の子がいた。

薄く、薔薇のように赤い唇がそっと開かれた。


「…おばあちゃんは?」

「は?」

「あの、おばあちゃんはどこですか。あなた、誰ですか。おばあちゃん、おばあちゃん。」

どうやら、この子はばあちゃんの知り合いらしい。だけど、知り合いならどうして、ばあちゃんがもういないことを知らないんだろう。

そんな疑問が頭をちらつく。

女の子は、落ち着きを失ったように唇を噛んで、着物の裾をぎゅっと掴んでいた。


「おばあちゃんは今遠いところに行っててさ、俺がおばあちゃんの代わりにって頼まれたんだけど。」


女の子を落ち着かせるためだったのか、はたまた早くこの状況から抜け出したかったのか、その頃は分からなかったけど、多分どっちもだ。


まだ困惑の色は消えてはいなかったけど、少し安心したように、女の子は着物を握っていた手を緩めた。


「お兄さん、おばあちゃんの代わりの人なんですか?なんていう名前?」

黒曜石のような黒く艷めく瞳が、俺を見つめた。中学生でもないのに、目が合うだけで心臓がうるさく脈打った。頼む、止まれ。

「俺の名前は、孝則だよ。小説家をしている。」

心臓の音を上手くごまかせたか心配だけど、なんとか言えた名前。俺が名前を打ち明けた時には、もう女の子の緊張の糸はだいぶ解れていた。そう言えば、俺はまだこの子の名前を知らない。


「君は、なんて言うの?」

「透子です。あの、私、座敷童子なんです。」

「…は?」


俺、今日は何回「は?」を言えばいいんだろう。意味不明すぎる。とりあえず、ばあちゃんは、俺にとんでもないもの遺していったみたいだ。



透子と名乗ったその少女は、生まれた時から気づけばそこにいて、ばあちゃんに面倒を見てもらっていたらしい。ちなみに、お母さんは?と聞いたら笑顔で畳の上を三回ぽんぽんと叩いていた。本当に、不可解だ。

小説家だと伝えた時から、透子は俺のことを、『先生』と呼ぶようになった。


俺がばあちゃんの家に越してきたその日から、透子は当然のようにこの家で寝食を共にしていた。と言っても、ただのお茶漬けを食べて、畳の上に布団を敷いて寝るだけなんだけど。


ご飯だって、本当は俺一人で食べるつもりだった。だけど、茶碗に盛った白飯をじっと見つめてきたから、「食う?」と聞いてみると透子は、こくこくと頷いた。だから、いつか訪れる来客用、と名して大学時代一度も棚から出すことのなかった茶碗に控えめに白飯を入れた。

それだけで、透子の目はきらきらしていた。おまけに、俺がお茶を茶碗にかけるのを物珍しそうに見ていたから「かける?」と聞いてみると、嬉しそうに笑って頷いた。

ただのお茶漬けなのに、出会って一緒に食べたお茶漬けはいつもよりおいしかった気がした。

ていうか、座敷童子って飯食うんだな。



最初の三日間くらいは、お互いに遠慮して用事がある時以外あまり言葉を交わさなかった。

だけど、三日経った晩、いつものようにお茶漬けを畳の上で食べていると透子がぽつりと言った。


「これもおいしいけど、おばあちゃんがいつも作ってくれてたのが食べたい…」


確かに、三日間ずっとお茶漬けを食べさせていたし、飽きたんだろう。俺はもう慣れてしまったけど、透子は見たところまだそこらの女子高生と同じくらいだろう。育ち盛りの女の子に、毎日茶漬けを食わせるなんて流石にまずいと思っていたところだった。

「なんなの、ばあちゃんが作ってくれてたやつって。」

「なんか、黄色いのが載ってて中は赤くて、ちょっと酸っぱいけどおいしかったんです。」


なんだそれ、黄色くて中は赤い?味は酸っぱい?どうしよう、全く見当がつかない。

だけど、そこまで言われると答えを導き出そうと躍起になるのが人間というやつだ。


「それだけじゃまだ分かんない。他には?」

「あったかくて、えっと、えっと…」


心底困ったという顔で自分の記憶を探っているような様子だった。


「申し訳ないけどそれだけじゃ…」

分からないよ。ごめんね。そう続ける前に、閃いたように透子は言った。


「あ、黄色いのの上に、いつもおばあちゃんが赤い酸っぱいので絵とか書いてくれてました!」


もしかして、もしかするけどそれって、俺もばあちゃんの料理の中で一番好きだったやつ。

「オムライス?」

こわごわ聞いてみた。

「分からないんですけど、名前とか。だけど多分、それだと思います!」


謎の自信と笑顔を、真っ直ぐすぎる屈託のなさを信じるしかなかった。



「じゃあ、明日の昼はオムライスね。」


あーあ、俺、大学入ってから茶漬けしか作ったことないけど大丈夫かよ。

まあ、いいか。なんとかなるだろ。

次の日の朝は、いつもより早め(まあ、早めと言っても十時頃なんだけど)に起きた。

目を覚ますと、隣には布団も何も敷かずに寝ているうちの座敷童子。


この光景にも、四日目の今はもう慣れたものだった。

そっと、起こさないように抜き足差し足で和室から抜け出す。

音を極力立てないようにシャワーを浴び、白いシャツとジーンズに着替えて、財布とスマートフォンを持って外へ出る。


スーパー、どこら辺にあるんだろう。ほとんどばあちゃんの家ににこもりっぱなしで小説を書いていたから、全くと言っていいほど近所のことがわからない。

本当に、自宅から米とお茶は持ってきていてよかったな。多分、なかったら今頃飢えて死んでた。俺も透子も。


結局、足をどれだけ動かしてもたどり着きたかったスーパーには辿り着けなくて、スマートフォンという文明の利器に頼った。

スーパーは、俺が歩いていた通りとは別の通りにあったらしい。つくづく、かんの悪い人間だ。

久しぶりに入ったスーパーの中は、家の蛍光灯よりも数倍明るい光が灯っていて、流行っているのであろう音楽と、買い物に訪れた人で賑わっていた。


ここでもまた有難い文明の利器の力を借りて調べたオムライスの材料を、買い物かごに入れる。

玉ねぎ、ケチャップ、玉子とベーコン。きっとこれで大丈夫、なはず。作ったことないけど。


来た道をしっかりと辿ると、ちゃんとばあちゃんの家に帰ることが出来た。


玄関の引き戸を引くと、少し目元を赤く腫らした透子が立っていた。


「なに、どうしたの。」

状況が把握出来ずにそう聞くと、静かに俺に近づいた。

もう、指先一本で触れてしまえそうな距離まで来たかと思うと、俺の肩に頭をぽすりと預けた。

透子は、小さく漏れる嗚咽に混じって、本当に耳をよく澄ましていないと聞こえない消え入りそうな声で

「置いていかれちゃったのかと思いました。先生、どこか遠くに行ってしまったのかなって。」

そう言った。

俺は、玄関に買い物袋を置くことも忘れて、空いた方の腕で透子の頭を抱き寄せた。二、三回手のひらで頭を軽く撫でた気もする。


「どこにも置いていかないから。」


じんわりと、俺のシャツを濡らす涙は少しぬるかった。ああ、座敷童子の涙は意外とあたたかいらしい。

透子の涙はなかなかとどまるどころを知らなくて、軽く十分はそうしていたと思う。

だけど、そろそろお昼時だ。


「オムライス、作ってやるから泣き止めよ。」

ぐずぐずと泣いていた透子は、俺の肩から顔を上げて、涙にまみれた顔で

「はい、楽しみです。先生。」

と、笑った。

心臓が、ぎゅうぎゅうと唸った。


オムライスは、初めて作ったにしては上出来だったと思う。玉子だってうまく半熟に出来たし、ケチャップライスの味付けもなかなかよかった。ケチャップで玉子の上に絵を描くのだけは、どうも上手くいかなかったけど。まあそれも、努力点として加点してほしい。

透子は、嬉しそうに何度も「美味しいです。先生、すごいです。」と言ってオムライスを頬張った。

まだ、目の淵が少し赤いからあとで冷やしてやろう。そう決めて俺もまた、スプーンでオムライスを口に運んだ。


思えば、もうその頃から慎ましい恋心は芽生えていたんだろう。

夏の露草が、朝に咲いては夜、誰も気づかれぬように花を閉じるような、その程度の恋心だった。

もっとも、俺は今まで人に恋愛感情を抱いたことがなかったから、しばらくはその気持ちのやり場に困った。


そうこうしているうちに、気づけば季節は巡っていった。

桜も、紫陽花も、紅葉も、雪も、ばあちゃんとじいちゃんがこの家で四季を楽しんだように俺も透子もうつろいゆく季節を楽しんだ。

無論、告白なんてそんなものは出来ていないけど。

本の虫の、悪いところだ。俺だけかもしれないけど、変なところで内気になってしまって大切なことはいつも言えずじまいだ。

人生のうちで自分の意見を押し切ったことって、振り返ると小説を書くことを生業にすると家族に言ったときと、ばあちゃんの家を受け継ぐと決めた時だけだったような気がする。



いつか言えるといいな、まあ俺がじいさんになって死ぬ前くらいには。なんて生ぬるいことを考えて日々をただ、愛おしい座敷童子と過ごした。

俺が話を書いている時に[FN:名前]は、大体俺の後ろに座っていつも遠慮がちに俺を見ていた。

たまに、息を抜こうと万年筆を置くと、控えめな音が机に響いた。見てみると、知らない間に用意してくれていたらしい淹れたての緑茶が差し出されていた。


「ありがとう。」

と言うと、毎回決まって[FN:名前]は頬を薄紅色に染めて「いえ…」と俯いていた。

本当に、新婚生活のようだった。多分、俺が都合のいい考えをしているだけだったのかもしれないけど。

幸せだったし、こんな日々が死ぬまでずっと続けばいいな、と密かに願っていた。相変わらず、我ながら子供っぽくて笑いが出そうになるけど。


そんな淡い幻想は、[FN:名前]と出会って三度目の春に無残にも打ち砕かれることになる。

ある夏の朝、庭先の郵便受けに届いた茶封筒。


[立ち退き願]


封筒には、赤い字で確かにそう印刷されていた。

じいちゃんの両親が建てたこの家は、優に築百年は経過していた。

老朽化が危ぶまれ、住んでいる地区の安全、安心を保証するための規約に反しているから、取り壊すために今回立ち退きを依頼した。という意味合いの文書が茶封筒の中に入っていた。


なんで、ばあちゃんの家を地域の意向で取り壊さないといけないのか。

ばあちゃんとじいちゃんの思い出の場所を、結局俺は守れなかった。

そんな言葉がぐるぐる頭の中で反芻、倒れそうだった。

だけど、俺にとって今一番大切にするべきなのは、間違いなく透子だった。


郵便受けに俺が新聞を取りに行ったと思っている透子は、何も知らない無邪気な寝起き顔で笑いながら言った。

「先生、おはようございます。」


三年経ち、初めて会った時には考えられなかった眩しい笑顔をした透子の肩を掴む。

唐突に肩を掴まれた透子の顔は、混乱で満ちていた。


「なあ、一緒にここから出よう。立ち退きだって。」


俺、きっとすごく必死な顔をしていたと思う。実際、必死だった。やっと巡り会えた好きな人を、手放さないように。


透子は、眩しかった笑顔に、少し陰りを見せた。

それでもまだ、笑ってはいてくれたけど。


「先生、ごめんなさい。私、この家から出られないんです。」


ああ、そうだ。そうだった。彼女は、人間じゃない。座敷童子だ。あまりにも、普通の人間のように接していたから忘れていた。確かに、俺がスーパーやコンビニに少しぶらりと行く時も、さっきみたいに郵便受けまで郵便物を取りに行く時も、透子は「いってらっしゃい。待ってます。」と言うだけで、付いてきたことは一度もなかった。


この、畳がある空間だけでしか、彼女は自由に動くことすらままならない。

どうして、今まで生きてきた中で、この三年間が一番楽しくて幸せだったのに。その時間をくれたのは、紛れもなく透子なのに。


肩をつかむ腕に自然と力が入った。

少し涙も出てきそうだった。だけど、そんな俺より先に涙を流したのは透子の方だった。


「先生、先生。ずっと死ぬまで一緒にいたかったんです。もう、ここでお別れなんですね。」


世界で一番、綺麗な泣き顔だった。不謹慎かもしれないけど、もし俺がカメラマンなら、この瞬間をコンマ一秒ごとに記録していたであろう、そのくらい綺麗だった。俺は、そんな綺麗な泣き顔をした大好きな女の子の肩を掴む手を離して、そっと抱きしめた。


俺は、彼女の泣き顔を見つめながら、どうにかこうにか二人一緒に添い遂げ合える方法がないかを、本と透子についての事しか入っていないちっぽけな脳みそで考えていた。

透子が泣き出して、俺が何かいい案を考え出して、しばらく経った。


一つ、奇跡的に思いついたことがあった。一か八か、やってみるしかない。やらない後悔よりやってからの後悔の方が、きっと何百倍もましだ。それに、なぜか考えていることが上手くいく自信に満ちていた。


「大丈夫、俺が何とかするから。」


そう言って、オムライスを作った三年前の日のように、泣きじゃくる透子の髪をなでた。

立ち退きの日は、予想以上に早く訪れた。

結局俺は、前住んでいたアパートの大家さんに頼み込んで、空いている一室をまた貸してもらうことにした。

引越し業者が、有無を言わさずばあちゃんの家に入る。

それは、俺がワンルームのアパートからばあちゃんの家に越した時の作業とほとんど同じだった。


トラックの扉が閉められる前に、引越し業者の人に一つお願いをした。

「あの、すみません。畳を一畳分だけ剥ぎ取って、新居に持って行って欲しいんですけど。」


だめだ、とは言われなかった。喜んでいたします、という雰囲気でもなかったけど。

なんとか、畳を一畳分剥ぎ取ってもらった。

その一畳の畳の上には透子が座っている。酷くびくびくと怯えながら、不安そうに俺の方を見るから、絶対に大丈夫だと言い聞かせるように深く頷いた。



透子が乗った畳を載せたトラックは、俺より少し先にばあちゃんの家をあとにした。

俺は、最後に、ばあちゃんの家に一礼をして例のごとく、タクシーで前に住んでいたアパートの住所を目指した。

アパートに着くと、この時も、もう大方の作業は終わっていて、作業員の人が唯一、畳のやり場にだけ困っていた。


「あ、大丈夫です。僕がやります。」


作業員の人は、安心したように畳を俺に託し、「それでは。」と帰っていった。


俺は、作業員の人に渡された畳をフローリングの上に置いた。

危惧していたことは、きちんと回避されていたらしい。だって、今このワンルームアパートのフローリングの上に置いた畳の上にも、きちんと俺の好きな女の子はいたから。

その愛しい子は、怯えるように目を瞑っていたけど、やがてそばに居るのが俺だとわかると目を開いた。


「…せん、せい。あの、私」

「だからさ、言ったでしょ。俺が何とかするって。俺と透子が、ばあちゃんくらいの歳になってからもずっと、一緒にいてくれる?」


「…当たり前です」

ほらまた、泣きそうになってる。俺の大好きな座敷童子。

これからは、ばあちゃんの家よりは結構手狭だけど、二人の距離がもっと縮まりそうなこの部屋で生きていこう。


愛しい人のために毎日、一畳分の畳にそっと愛を囁くよ。

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