ナルキッソスの教訓

ミーシャ

memo.


 マクルハーンが、情報社会における人間の認識の拡張と切断を語った『メディア論』において、ナルキッソスの物語は、その一つの例として引用された。しかし私には、どうにも釈然としない部分が残った。なぜならナルキッソスは、水面に映った自身の顔を、自分だとは知ることが無かったのだから、たとえが不適切ではないかと、思ったのだ。


 彼が、水鏡の中の自分に恋したまま花になってしまったのは、その恵まれた容姿が、数多のニンフや神を虜にしつつも、彼が一切、それらを顧みなかったことへの『罰』として、描かれる。ただ一つの科学的事実を知らないこと、そしてそれを教えられないことで、完結しうる罰である。


 彼が、水鏡を理解しなかったことは、既に、呪いの影響下にあった為でもあるが、しかしもとより、肝心の自身の姿を知らなかったことは、周囲から向けられる恋心に対する無理解、もしくは無関心の、十分すぎる根拠でもあった。彼が受けた罰はまさしく、彼に対して報われない思いを抱いた、すべての存在が受けた苦しみを、等しく味わうことを意味した。


 しかし、同様の辛苦を知ったとしても、ナルキッソスが、それによって、自身の罪深さに立ち返る機会は、ついぞ無かった。彼が、その罰によって理解することを求められたのは、恋に破れて我を失う、その感情のみであり、周囲の視線とその想いに振り返ることでは無かったのだ。


 鏡という媒体(=メディア)が、ナルキッソスの知覚を拡張したことで、彼の感覚を麻痺させた(=知覚遮断、もしくは切断)と、マクルハーンは言う。


 拡張を起因として、理由づけられる遮断は、強烈な痛みを受けた際に、脳内で大量の麻酔物質が分泌されることからも、生理的に自然な反応とも、いわれる。つまり、多すぎる情報や刺激は、人間にとってという、前提なのである。


 しかし今日、その物云いはどうであろう?


 重要なもの、そうでないものを問わず、これだけ情報があふれかえるようになると、その正誤や質を問う時間さえ惜しく、中身を見ずにパッケージ、すなわち量で、購入するようになる。あたかも個人で、"砂金探し" をするのが重要なことのように、情報の価値付けに際し、なんとも奇妙な従量制が罷り通ってはいないだろうか。


 簡単に言えば、少ないよりは多い方がマシ、不要であれば、自己判断で捨てればいいのが情報、という認識の普及である。


 これは正しく、マクルハーンの指摘した人間の反応であると、思うかもしれない。しかし、与えられている評価の中身が異なるのである。情報社会が生み出しているのは、情報の取捨選択を好ましいとし、より多くの情報を望む人々であって、それを自らの認識の『麻痺』と、感じる人々ではない。


 これの意味するところは、残念なことに、ひどく政治的な問題であって、技術発展などという、純然たる科学的話題では、全く無いのである。半世紀も前に書かれたことが、現在、どのような形で。それを考え始めると、尽きない感情の澱に、足をとられそうにもなる。


 彼の言う『麻痺』が真実ならば、なぜ私たちは、それを認識できないのだろうか。いや、これでは表現が十分ではないだろう。麻痺状態は、その主体の自覚を伴わないことを、その症候に組み込むことが出来るからだ。だから一歩進めて言おう。情報が、彼の予見の先を行くほどに、加速度的に増加しているのに、なぜ私たちは気付けないのか、と。


 マクルハーンは、ナルキッソスの神話において、水鏡というメディアに着目した。しかし私は、問題が彼自身と、彼を囲む社会にあると考える。彼は、周囲の認識を知らず、また、周囲の視線に思いを馳せる契機を得なかった。彼は、自身のことについて他者と話をしなかったために、ごく当然に、自己完結的な死を迎えたのである。だからこそ、これを現代的な問題とするかどうか自体が、ひとつの問題提起となりうる。


 

 情報の溢れかえるこの現代の政治は、情報が著しく制限されていたかつての時代を飛び越え、さらにその昔へ立ち返る。つまりは、誰も確かなことを知り得ない時代へと、逆説的に接続する。


 神話的時代の再訪の中、私たちは今、どのような姿で、生きて行こうとしているのだろうか。よもや、ナルキッソスの辿った運命の如く、自らを映した鏡に心を奪われ、見るべきものを見ずして、逝くのだろうか。マクルハーンの明らかにしたメディアのからくりが、それと知ることで、抗う術をすぐさま齎すものではないことは、現状を見ればすぐに分かる。


 では、望む未来と自身の姿は、どこにあるのだろうか。


***

 

 答えを保留し、今は本を閉じておくことにする。



end.,

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