第9話 梅雨明けの嬉遊曲(ディベルティメント)

朝から強い日差しの照り付ける、梅雨も明けた7月のとある土曜、株式会社 匠美鎖の自社ビル4階の大会議室には、たくさんの従業員が集っていた。

平日であれば当然の光景であるが、土曜日の会社に営業職が中心に出社するのは年2回のこの催しくらいだ。いつもはがらんと広い殺風景な会議室も、今日ばかりはたくさんの長机に所狭しと並べられたジュエリーが燦然と輝き、まるでジュエリーショップのよう。

そう、今日はファミリーセールなのだ。


ファミリーセールとは、お得意様や外注さん、従業員の家族や友人などを招待し、仕入れ品やサンプル品などの会社の在庫を安く提供する“身内限定セール”の事だ。当然、招待状無しでは入場できない。

店頭価格よりかなり安価に購入できるとあって毎回けっこうな盛況を博す為、早い者勝ち感の強いファミリーセールの午前中は、戦場になる。


また、新社長の意向で、今回から一味違う趣向を凝らす事になっている。

無礼講、とまではいかないものの、売り上げる事が目的というよりは、楽しんでもらいたいという要素を強めに、ジュースやかき氷を振る舞う出店風の一画を設けたり、従業員が趣味を活かしたちょっとした出し物やビンゴ大会、抽選会などで、会社を挙げて身内をもてなすお祭りイベントになる予定だ。


そうは言っても、いつもは電話でしか話した事のない相手と初めて顔を合わせる貴重な機会になったり、家族が来れば“奥さん美人!”とか“旦那さん優しそう”とか、“お母さんとそっくりだね”などと言われたり、女性従業員による厳しい私服チェックに遭い、恋人を連れてくれば“付き合ってる人いたんだ!”と騒がれた上にコッソリと値踏みされる、“身内限定”なだけに違う意味で緊張感のあるイベントでもある。


お得意様を招く事もあり、営業の人間が中心となって受付から売り子まで担当するが、工場からも助っ人として数人手伝いに出てきていて、私もそのひとりだった。


「えーっと……住永課長の手品ショー、舩木部長と佐復課長のコント、内木場部長の弾き語り、郷原主任のジャグリング、資材課有志によるゴスペル……」

えらく豪華な顔ぶれだが、実際は初めての試みの為、出し物に参加してくれる人間を募ったもののなかなか集まらず、今回は役職者が率先して引き受ける(引き受けさせられる)事になったらしい。


壁に貼られた予定表を眺めてから、半巾帯を直す。

「ちょっときつく締め過ぎたかな……?」

誰が言い出したか、女性従業員は浴衣着用なのだ。

これから1日動き回って緩んでくる事を考えると、きつく締めておいた方がいいと思ったのだけど、少々窮屈だ。

ま、いいけどね。着る機会ってあんまりないし。

いつもは敷居の高い和服屋さんも、5月くらいから本格的に並び出す浴衣なら手を出しやすい。

それでも小物などを合わせればちょっとしたワンピースよりも高価だし、7月と8月しか着られない事を考えると高い買い物なので、気に入って購入した浴衣をこうして着る機会が増えるのは嬉しい事だった。


「英妃ちゃん、おはよう~」

「ひゃ~撫子、可愛い!」

臙脂の縦縞模様の地に、彼女の名前でもある撫子の花が散りばめられた、艶やかな浴衣。着物っぽい柄だから、半襟や足袋を合わせれば、街着としても着られそうだ。

「英妃ちゃんも、紫紺の浴衣似合ってるよ~」

「えへへ、ありがと」


今日は黒子役に徹するワイシャツ姿の男性従業員たちは、せっせと長机を動かし、クロスを敷き、什器を置くとジュエリーを並べている。作業に集中しているように見えるが、少しずつ集まる浴衣姿の女性従業員をチラリチラリと意識しているのがバレバレだ。


「撫子はお子様係だよね」

また、ぴったりの役を割り振ったものだ。ふんわりした雰囲気の彼女になら、子供も心を開きやすいだろう。

「そうなの。アニメのDVDを流して、見せてあげるだけだけど。英妃ちゃんは?」

「ウロウロ係」

「なにそれ~」

営業のように担当するお客さんの接待があるわけでもなく、カード決済など事務ができるわけでもないので、会場内を適当に動き回り、困っている人や不審者や迷子に声をかけたり、落とし物を確保したりする係だ。


「おー、浴衣美人発見!」

こういう恥ずかしいセリフをサラリと言える厚顔無恥は、この会社に一人しかいない。どうしても無意識に舌打ちしてしまう。

「庄埜さん。おはようございます」

撫子もこんな奴に笑顔で挨拶なんてしなくていいのに、なんて人のいい。


その親友も、今月でめでたく寿退社だ。

先月には婚姻届けを出していたけれど、仕事の引き継ぎと有給休暇の消化で今月の20日まで出社する事になっている。


「あ、庄埜さん、子供向けアニメのDVD、持ってきてくれました?」

「もっちろん持ってきたよ!姪っこから借りてきた」

下げていた紙袋の中を検める。

「えーと……“眠れぬ森の美女”と……」

「その美女は不眠症なのか?」

「“母を訪ねて3千年”と……」

「ずいぶんと壮大だな、おい?」

「“送りオオカミ”と……」

「あかずきんの事か?」

「“酒と泪と美女と野獣”と……」

「子供にナニ見せる気だ、こら」


やり取りを面白そうに聞いていた撫子が、屈託なく問う。

「ねえ、2人は本当は付き合ってるんじゃないの?」

「なんでそうなる!」

「いやあ、照れるな」

「お前も否定しろ!!」

「ま、リペア課からの応援2人、一緒に頑張ろうよ」

ちなみに今日は、リペア課はお休み。社外の人間がたくさん来るので、防犯上、今日使う会場以外には鍵を掛ける為、作業場に入れないからだ。

「なんであんたと一緒に頑張らなきゃいけないのさ」

「まあまあ、そう言わず、その豊満なバデイでお願いしますよ」

「嫌味か!?それに、それセクハラだからね」

「じゃあ、ボン・ボボン・ボンのナイスバデイでお願いします」

「キュッ(くびれ)がねぇじゃねーか!」

それどころか腹が1番出ている。

制裁を加えようとした瞬間、吉多さんが声をかけてきた。

「庄埜ー、お前も手伝え!」

「ええ~?しょーがないなあ」

これ幸い、と調子よく返事をしながら逃げていく背中に呪いの言葉を吐く。

「あいつ、後で絶対シメる」

「まあまあ。あ、あっちで係ごとに仕事の確認するみたいだよ」



こりゃ、大変だわ。

ふう、と息を吐いて、手で顔を扇ぐ。

夏のボーナスで懐が温かいのか、はたまた2度と見られるか分からない激レアな出し物の効果か、いつもの倍近い人数が来ている。

ただウロウロしていればいいと思っていた巡回係も、トイレやエレベーターの場所を尋ねられたり、人の多さに疲れている人に飲み物を勧めて休憩できる場所に案内したり、営業が捌ききれないお客さんに声をかけたり、置かれたまま忘れられている紙コップなどのゴミを集めたりと、気が付いてしまえばいくらでも仕事があってなかなか忙しい。

ジュースをこぼしてしまったらしい床の汚れをモップで掃除していると、黒羽根係長に声をかけられる。

「あ、国立さん!ジュエリービーンズさんがお見えになったから、玖珂さん呼んできてもらえる?」

本当は、撫子の名字はもう玖珂ではないのだが、仕事上面倒なので、辞めるまでこのまま旧姓で通す事になっている。

「はい!」

急ぎ足でキッズルーム替わりの小会議室へ向かう。

営業内勤である撫子は、表には出ないが顧客とのやり取りがある為、今日こうして来てくれたお客さんには辞めるという報告も合わせて挨拶をする。とはいえ、来てくれるお客さんの大半は社内の人間の家族で、わざわざ休日に来てくれるお得意様はごく少数なので、こうして呼ばれるのも朝からまだ2度目だ。


「撫子!ジュエリービーンズさんが来たって」

撫子は困ったように眉根を寄せた。

「あ~タイミング悪いなあ。渡会さんが昼休憩に行ったばかりだから、今私ひとりなのに」

「なら、戻るまで私が見とこっか?」

「ありがと~。お言葉に甘えて、お願いするね」


キッズルームと言っても、8畳くらいのスペースに椅子を並べてテレビでアニメのDVDを流すだけの簡単なものだ。今は姉妹らしき女の子2人が、食い入るように“不眠症の美女”を観ている。邪魔しないようにソッと、2人が視界に入る位置に座る。

――赤ちゃんがいなくて、よかった……。


お客さんの中には赤ちゃん連れもいて、そういうお客さんは女性従業員に大人気だ。皆仕事そっちのけで構いにいってしまう。

わあ、っと集まり、お父さん似だお母さん似だとひと騒ぎしては、仕事を思い出して散っていく。


私が赤ちゃんを苦手なのは、昔からどうもベビーカーを覗くと、何故か赤ちゃんがこちらを見つめてくるからだ。何人かで覗いていても必ず私を、それも笑うでも泣き出すでもなく、軽く眉をひそめてただジッと。

“こいつ変な顔してんな”と本能的に感じるのか、それとも、知らない人だから相手がどう出るか、緊張して身構えてるのか。

何故見つめるのか、何がそんなに気になるのか。言葉の通じない相手に確かめる術はなく、苦手意識だけが植え付けられてしまった。

なんにしても、そんな未知なる存在をどう扱えばいいのか分からない為、撫子には“任せろ”と安請け合いしたものの、内心はホッとしていた、のも束の間。

「あの……少し子供を預かってもらえますか?」

「あ、はい!」

慌てて立ち上がりながら振り向くと、赤ちゃんを抱いた女性が立っている。

どうやら意地の悪いカミサマが、タイミングを見計らって投入したようだ。

思わず苦笑してしまった私に、申し訳なさそうに女性が続ける。

「ごめんなさい、混んでるところに邪魔になってしまうかと思って、ベビーカーを車に置いてきてしまったのだけど……ベビーベッドみたいなものはないんですね……」

時折赤ちゃんを揺すり上げる女性の耳元で、大きな輪のフープピアスが揺れて光る。

振り返って部屋を見回すが、ベビーベッドは無いようだ。

大抵のお母さんは、赤ちゃんをベビーカーに乗せてくるので、そこまでの用意はしていないようだった。

「すみません、無いみたいです。ええっと……、私が責任を持って、抱っこしてます!」

「そんな、悪いです…!」

“混んでるだろうから”という気遣いには、素直に好感を持った。まあ、残念ながら結果的にちょっぴり的外れではあったけれど、もしかしたらあまり外出をしない人なのかもしれない。それならなおさらの事、せっかくのお出かけを大いに楽しんでもらいたい。

撫子が早く戻ってきてくれる事を祈りながら、赤ちゃんを預かると再度申し出た時、ふいに赤ちゃんがお母さんの耳元に手を伸ばした。

「危ない!」

「え?」

咄嗟に赤ちゃんの小さな手をキュッと掴み、握手して誤魔化す。

キラキラした輪っかが目の前で揺れているのだ、子供は当然興味を持つだろう。

「あ、あの?」

「すみません。赤ちゃんがフープピアスを掴もうとしていたみたいだったので」

実際、子供がお母さんのピアスを引っ張って、耳たぶが切れてしまう事故もあるらしい。

「ああ!すみません……!」

なんだかさっきから、お互いにすみませんすみませんと言い合っているような気がする。

だからといってこの女性は別に悪い事をしているワケでなく、ただ行動のひとつひとつが裏目に出ているだけなのだ。

どうしよう?遠慮しいなこの女性に、どうしたら気兼ねなく楽しんでもらえるだろう?

「英妃ちゃん、お待たせ!ありがと…う?」

「撫子~~」

タイミング良く戻ってきた撫子に思わず泣きつくと、一目で状況を把握した撫子が頭をポンポンしてくれた。


「大丈夫ですよお。ベッドはないですけど、フカフカマットと囲いがありますから。もちろん除菌スプレー済み!」

部屋の隅に立てかけてあったラティスのようなものをパタパタと組み立て、あっという間にベビーサークルが出来上がる。ごきげんに遊び始めた赤ちゃんを撫子に預け、ようやく会場に女性――営業管理部の計盛さんの奥さんだった――を案内する事ができた。

「あ、そうだわ」

計盛さんの奥さん、清香さんは、会場の直前で思い出したように耳元に手をやると、ピアスを外した。

「さっきはありがとうございました」

そう笑いながらピアスをバッグにしまう清香さんに、ふと思いついた事があったが、言葉をかける前に彼女は会場に入っていってしまった。

――まあ、いっか。余計なお世話だよね。それにどっちにしろ今日は、作業場には入れないし。


気を取り直して、巡回しようと廊下に出ると、エレベーターから車椅子の女性が降りてきた。

早速お仕事だ。

「あ、お手伝いしますよ」

エレベーターの扉を押さえながら声をかけると、その女性がふわりと笑う。

「あら、ありがとうございます」

申し訳なさそうに、ではない純粋な感謝の笑顔に、こちらもついニッコリしてしまう。



「わあ、素敵ね」

車椅子を止め、第2営業部の山方係長の奥さん、美奈江さんが、ダイヤのネックレスが並ぶディスプレイに目を輝かせた。

美奈江さんは、いわゆる美人ではないけれど控え目で人好きのする、笑顔が優しい人だ。


リペア課に回ってくる修理品は、各営業担当者が担当しているお客さんから預かってくるので、確認や見積もりなどのやり取りをリペア課がお客さんと直接する事はない――つまり、すべてのやり取りは営業を介して行われる。

山方係長の担当しているお客さんはいつもリペア課に大量に仕事を回してくれるのだが、確認や相談だけでなく短納期のゴリ押しも多く、結果山方係長に確認する機会が他の営業と比べて多い。

そしてこの係長、やたら字が汚くて伝票の字が判読できない。

「これ、何て書いてあると思う……?」

山方係長の伝票は必ず何人かで確認するのが常だ。

内容に対しての確認の前に、まず何と書いてあるのかを確認しなければいけないのだ。

一歩間違えば営業との雰囲気が険悪になる要素満載なのに、それでも山方係長が好かれるのは、いつも明るく嫌味の無い性格だからだろう。


「着けてみませんか?」

担当のお客さんがちょうど来社していて手が離せない山方係長に変わり、私が代わりにお相手を仰せつかった。

「でも……」

スーパーなどで試食を勧められても、“食べてしまったら買わなければいけない”と敬遠してしまうように、試着してしまったら買わないとマズイかしら、と思われがちだけれど。

「別に買わなくっても全然OKなんですよ。今日は身内に楽しんでもらう為のセールですから。だから楽しんじゃいましょ。それに……」

「?」

「ぶっちゃけ私、営業じゃないんで、ノルマとか無いから安心してください」

声を落とすと、美奈江さんが吹き出す。

「じゃあ、お言葉に甘えて。右から2番目のネックレス、ダイヤとエメラルドの……」

美奈江さんの首元に着け、近くにあった鏡を持ってくる。

「……綺麗ね。とっても素敵」

溜め息を吐きながら、鏡の中の輝きを確かめる。

「エメラルドって、扱いが難しいんでしょう?」

「そんな事ないですよ。エメって必ずカン――自然に入っている亀裂――があって割れたり欠けたりしやすいので、ぶつけたりしないように気を付けた方がいいですけど、これはどんな石にも言える事ですし。あと“トリートメント”っていう、色を綺麗に見せる処理があって、最近のエメラルドは樹脂を含浸してるらしいんですけど、昔のエメは油を滲み込ませている物もあるから、うっかり強力な洗浄とかして脱脂しちゃうと油分が抜けて、色が抜けちゃう事もあるらしいです。昔の職人さんは、“そういう時は、鼻の頭の脂を付けときゃいいんだよ!”なんて言ったりして」

美奈江さんはクスクス笑いながら聞いている。


トリートメントは、もちろん天然で美しい石には行われないが、安い石――品質の低い石――のほとんどは、できるだけ綺麗に見せる為に処理がされていると思っていい。手法も石によって色々あって、樹脂などを含浸させる方法だけでなく、熱を加えたり圧力をかける処理などがある。

懇意にしている石留め屋さんには、石留めをする為にヤニに固定する際、火であぶり過ぎて透明のダイヤがピンクダイヤになってしまった事があったそうだ。



「――ありがとうね。さっきから、場所確保してくれて」

4つ目の試着のリングを手渡しながら、美奈江さんが少し申し訳なさそうに微笑む。

会場内はますます盛況で、ともすれば積極的なお客さんに押し出されてしまいそうになる。さり気なくやっていたつもりだったのに、気付かれてしまった。

「いえ、実は山方係長にはいつもお世話になっているんです」

照れくささを隠すように、つい余計な一言を発してしまった。

「係長って、昔からあんなに字が汚いんですか?」

「え?そんなに汚くは無かったはずだけど――あ」

急に瞳を曇らせて、それから係長の方を振り返る。

「あの人……」

呟いて、目を伏せたまま涙をこらえるように唇を噛む。

“そうなの、私もいつも苦労してるの!”そんな返答で笑い話になる事を期待していたので、予想外の反応に慌ててしまう。なにか、怒らせてしまったみたいだ。

「すみません、失礼な事言ってしまって――」

「いいえ、違うの。――ちょっと休憩したいわ。あなた、付き合ってくれない?」

唐突に誘われ、なんとなく察する。この場を離れたいのだ。

「は、はい」

会場の一角に設けられた休憩スペースに移動し、手渡したリンゴジュースに一口、口を付けると美奈江さんは泣き笑いのような表情で顔を上げた。

「ごめんなさいね。字が汚いのはたぶん私のせいだわ」


美奈江さんが突然殴られたような頭の痛みで倒れたのは、3年前だったそうだ。

脳卒中と診断され、右半身に麻痺が残り、今でもリハビリに通っているもののこうして外出できるまでに回復した。

「私、右利きだったから利き手を交換するのはとても苦労したの。日常生活の色々な事や料理なんかの家事とかね。大雑把な動きはだいぶ慣れたけど、字を書くみたいな繊細な動きはやっぱり難しくて」

どれだけの苦痛ともどかしさを感じながら過ごしてきたのか、自分には想像もできない。


「たぶんそれで、あの人も左手で書く事にしたんだと思う」


胸を痛めながらもどこか救いを感じるのは、美奈江さんの明るさと、利き手が不自由になってしまった奥さんの為に、自分も利き手を封印して大変さを分かち合おうとした係長の優しさだ。

リペア課ができたのは今期からだから、それまで営業とやり取りする機会のなかった自分には知る由もなかった事だった。

「だからもう少しだけ我慢してね。一緒に特訓するから。……今日から早速」

おっと、係長。なかなか恐妻家なのかしら?



結局そのまま帰る事にした美奈江さんをエレベーターまで見送り、こんな素敵な夫婦になれるような出会いが早くこないかな、と浸る間もなく、「ああ!いたいた!国立さん!」と第一営業部の吉多くんが駆け寄ってくる。

「どうした?ウチのアホが何か迷惑かけてる?」

「ち、違うんですけど、ちょっ、ちょっ、ちょっと!」

廊下の端に引っ張っていかれ、パンッと大きな音を立てて両手を合わせ頭を下げられる。

「すみません、国立さん!どうかお願いします!!」

「一体どうした!?」

「実はセール品の中に止め型が――」


パリのヴァンドーム広場に店舗を構えるような超一流のブランドなら当然のように自社で職人を抱えて商品を製作しているものだが、数多あるブランドは、必ずしも全てを自社で作製しているとは限らない。

そのブランドデザイナーがデザインや仕様だけを決めて、作製は外部のジュエリーメーカーに発注したり、外部のメーカーから提案された製品を自分のブランドとして売ったりなど、様々なパターンがある。

そして匠美鎖のようなOEMメーカーは、ただ1社から依頼された製品を作っているわけではなく、同時に多数のブランドの製品を動かしている。当然、それぞれのブランドには細かく取り決めされた仕様があり、パーツがあり、型があり、入れ替わったり混入したりしないように細心の注意が払われる。


『止め型』とはその取引会社専用の型の事で、意匠権的な問題だけでなく、ブランドの刻印が入っていたりする事から「他社に売ったりしちゃダメよ」というモノだ。


「売ってもいいって確認はできてて、量産ラインで刻印消ししていたはずなんですけど……」

止め型を勝手に売る事は企業倫理として絶対にできない。

だが先方から見込み発注されていて実際の発注数がそれほど伸びずに工場で抱えている在庫品などを、ブランド刻を消す事を条件にファミリーセールで売ってもいいと言われる事がある。

「まったくあの検品のババアども、何見てやがる」

今回、吉多くんがきちんと許可をとっている以上、見落とした非は検品にある。

「――つまりお得意さんの奥様が着けて帰りたいとのたまうそのバングルの刻印を、20分で消せというワケだね?」

「そうなんです!頼めるのが国立さんしかいなくって……できそうですか?」

何だこいつ、分かってるな。そんな風に言われたら、やる気でちゃうじゃないか。

「やってやるさ!作業場の鍵を開けな!」



事が事だけに営業部長もすぐに作業場に入る許可を出してくれたらしく、吉多くんが鍵を手に飛んできた。ムッと熱気の籠る作業場に駆け込むと、配電盤を開け、作業に必要な機械に片っ端から電源を入れていく。

もちろん着替えている余裕なんてないので浴衣のままだ。今は1秒でも惜しい。

「じゃあ、僕は奥さんのお相手をして、できるだけ時間を稼いできます」

吉多くんは律儀にもう一度頭を下げてから作業場から出ていこうとした瞬間、閃いた事があったので頼んでおく。

「さてと」

吉多くんが鍵を持ってくるまでに、作業の一連はシミュレーション済み、というかリペア課でよく来る仕事なので、体が自然と動く。

刻印は思ったより小さく、深くもなかったので、何とかなりそうだ。

てきぱきと作業していると、作業が6割ほど進んだところで、吉多くんが戻ってきた。

「いやあ、ちょうど住永課長の手品ショーが始まるところだったので、トランプマジックのカードを引く役に奥さんを選んでもらって預けてきちゃいました~……え!?もうこんなに進んだんですか!?」

「まあね、無茶な営業のゴリ押しには慣れてるからね」

「うう、耳に激痛が」

「どうだった?見つかった?」

「ああ、はい。お預かりできましたよ」

上着のポケットから木綿の手袋にくるまれたものを取り出す。

「お預かりする時にちょっと確認しましたけど、全く問題ないフープピアスですよね。このピアスのどこが問題なんですか?」

「全く問題ないのが問題なんだよ」

「?……禅問答ですか?」


フープピアスはポスト部分とキャッチ部分が本体に付いているので、キャッチを紛失する心配が無いのが最大の強みだ。ポスト部分が可動する事で着脱を可能にし、一体のキャッチ部分に留める事で耳に固定する。留め具合はキャッチ部分のくびれた巾で決まり、ポストの太さよりほんの少しだけ狭い事で、留めた時の“パチン”という手ごたえを出している。

その巾は数字化できるものではなく、職人の感覚だけで調整されるものだ。


時間が許す限りの手を入れて刻印を消した跡を仕上げると、吉多くんに手渡す。

「念の為、確認お願い」

「はい!」

汗だくのワイシャツ姿に手袋を嵌めると、ルーペでバングルの内側を見る。

「完璧です!ありがとうございます!この借りは必ず!!」

「あ~はいはい。早く持ってお行き」

律儀にもう一度お礼を残して、ダッシュで部屋を出ていく。


あいつ、階段転げ落ちたりしないだろうな。

そんな事を思いながらフープピアスを手に取る。

ポスト部分を何度も可動させ、キャッチ部の手ごたえを見る。

――うん。普通なら問題ないんだけど……。

大き目のシンプルなデザインは少し重い為、キャッチ部の調整は少し固めになっている。

普段、調整を依頼されたら、私がやってもこのくらいの固さに調整するだろう。

デザイン的に重いもの、揺れる部分が大きいものは、着けている間に外れてしまわないように固めに調整するのがセオリー。

だけど。

軽く息を吐くと、丸ヤットコを手に取る。

今の自分にできる、最低限で最高の仕事をするのだ。



「計盛さん」

「あら、さっきの……」

セール会場入口近くで人待ち風に佇んでいた計盛さんの奥さん、清香さんが微笑んだ。

「国立と言います。先ほど、営業の吉多にこちらをお預けくださいましたよね」

コットンに包んだフープピアスを差し出す。

「そうそう。なんだか声を掛けられて、“すぐにお返しするので、預からせてほしい”って」

ピアスを受け取りながら、じゃあこれはお返ししますね、と吉多くんがフープを預かる際に書いた預かり証をポケットから取り出す。

預かり証の筆跡は、急いで書いた為にギリギリ読めるかという感じだ。

「あの、それで、このピアスが何か……?」

「はい、全然問題ない事が問題でした」

清香さんが不思議そうに首を傾げる。

「問題ない事が、問題?」

「そうです。先ほど、抱っこした赤ちゃんにフープピアスを握られそうになりましたよね。もしそのまま赤ちゃんが引っ張ってしまっていたら――すみません、痛い話になってしまいますけど――最悪、耳たぶが切れてしまっていたかもしれません」

「あ……」

「だけど、だからと言ってジュエリーメーカーの人間としては、せっかくのジュエリーをしまい込んで欲しくはない、身に着けて欲しいんです。だから」

清香さんの手からピアスを取ると、ポスト部分を外す。

「勝手ながら、キャッチ部を“緩く”調整しました。もし赤ちゃんが引っ張っても、耳が傷つく前に外れてしまうように」

「…………」

「本当なら今日は作業場に入る事が出来ないはずで、ちょっと、その、どうしても先にやっつけないといけない仕事があったので、提案と確認もせずに勝手な事をして申し訳ありません。もし緩すぎて着けづらいようなら、旦那さんに渡してもらえればすぐに直しますから」

清香さんの驚いたような表情のまま、黙っている。

やっぱり、勝手な事をして怒らせてしまっただろうか?

「もちろん、お金をいただいたりはしません、ので……?」

少し覗き込むようにそう言うと、清香さんはハッとしたように慌てて両手を振った。

「違うの、違うの!怒ったわけじゃないの。急に腑に落ちてちょっとぼんやりしてしまって」

清香さんがふわりと微笑んだ。

「主人もね、せっかく買ったジュエリーなんだから、たまに着けたら?って時々言うんです。こっちは毎日の育児と家事でそんな余裕はないし、大変さが本当には分かっていないから、そんな呑気な事が言えるんだなんて思っていたんだけど……」

会場をふり返る。

「違ったのね。主人もあなたたちも自分たちの仕事に誇りと信念があって、真剣に向き合うからこそ、その仕事を受け取る人たちにも大切にしてほしいと願うのね」

“他人のものを勝手にいじって、どういうつもり!?”と怒られる可能性もあったから、そこまで言ってもらえると、かえって赤面しきりだ。

「ありがとう。今日は来てよかった」

頬だけでなく耳まで熱さを感じながら、清香さんに深々と頭を下げる。

「こちらこそ、ありがとうございます。もしお子さんが大きくなって安心して身に着けられるようになったら、いつでも言ってください。すぐに調整しますから」

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ラプソディ イン ゴールド!Ⅱ  週末のゴールドスミス 真竹 揺音 @MatakeYusane

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