第8話 3つの指輪(トリニティリング)の円舞曲(ワルツ)
時計が10時を回った頃、リペア課がある3階に人が入ってくる音がした。
「じゃ、上がりますんで、お先失礼します」
土曜日だというのに朝からチェーンの編み機の様子を確認しに来ていたマシンメイド課の甲田主任が、帰る前に挨拶に顔を出す。少し急いでいる様子なのは当然だろう。せっかくの休日なのだから。
「お疲れ様でしたー」
Tシャツ姿の甲田主任の胸元には、革紐に通されたリングが光っていた。
そうしている人は結構いて、春休み中も気になっていた。ただ何故かリペア課にはそれをしている人がいない為、今まで聞きそびれていたのだ。
「あの革紐にリング通して首から下げるの、匠美鎖で流行ってるんですか?」
部屋の中央に据えられたフリースペースの作業机で作業していた僕に、向かいで同じ作業をしていた貝中係長が答える。
「ああ、機械に巻き込まれて腫れたりすると外せなくなる危険があるから、工場内では手元に着けるもの――リングとかブレスとか腕時計は禁止なんだよ。だから既婚者はマリッジリングをネックレスにして身に付けているんだけど、金属のチェーンに通すとリングの内側に傷が入るから、革紐に通してるんだ」
オシャレでやってるのかと思ってた。
そういえば春休みバイトの初日に、“リングや腕時計は外す事”と説明を受けたような気もするが、聞いた瞬間にそういったものを着ける習慣のない僕は “自分に関係のない事”に分類し、そのまま今まで忘れてしまっていたみたいだ。
「確かに、チェーンだと傷入りそうですよね」
手に着けるリングは、ジュエリーの中でも一番、傷が付きやすい。
特に手のひら側にくる部分は打ち傷や擦り傷が入りやすく、扱いに無頓着な人はバリが立つくらい地金が荒れる人もいる。だが、そこまでの状態になっているようなものでも、リングの内側まで傷がひどいという事はあまりなく、もし入っているならそれは保管の方法――リングを何かに引っ掛けたり通したりして傷付けてしまっているのだと思われる。
リペア課に配属され、さまざまな修理品を目にする機会が増えると、時折、憤りを通り越して悲しくなってしまうほどひどい状態の修理品に出くわす。
映画『プラダを着た悪魔』では、ファッション雑誌の編集長が出勤するなりアシスタントの女性にコートとバッグを投げつけるシーンがある。ファッション業界に君臨し、そのような態度が許される立場である事を表現しているのと同時に、高価なブランド品を無造作に乱暴に扱う事で、“普通の人にはなかなか手に入れられない特別なものでも、自分にとっては大したものではない”という高飛車な自信や傲慢さみたいなものも、表していたように僕は思う。
それは何も、特殊な立場の人間に限った事ではない。
高価なものでも、“大切に扱わない”事が“かっこいい”と勘違いしている人は結構たくさんいる。
照れくさいのか、謙遜なのか、もしかしたら雑に扱う事で気取らない潔さか豪快さを演出しているつもりなのかもしれない。
ジュエリーはアクセサリーと違って、高価だ。
それは金やプラチナなど“貴金属”で作られる事で、その価値が約束されているからだ。
例えば、真鍮でできたアクセサリーを熔かして真鍮の塊にしても、それに価値はない。
だが貴金属であれば、地金の重量分の価値は、相場に影響を受けるとはいえ保証される。
貴金属の貴金属たる所以だ。
だが、乱暴に扱えば当然傷が入り、見た目が良くないだけでなく、硬いものに当たったり無理な力が加われば変形や破損の原因になる。石に負担がかかれば欠けたり割れたり、留めが緩んだりもする。
磨き直したり修理したりして長く愛用できる事も、ジュエリーの特徴と言えるかもしれないが、磨き直す――研磨をする事は、その分の地金が減り、薄くなるという事でもある。
もちろん研磨する職人は、傷の具合を見極め、あまりに深い傷は深追いしない――磨き切らないようにするが、磨けば必ず地金は減るし、傷が入った時点で、当たった硬いものの方に地金が擦りついている。
日常生活を送る上である程度は仕方がない事だが、乱暴に扱えばなおさら、修理や仕上げ直しが必要になる頻度は高くなってしまう。
雑に扱う事による“いいこと”など一つもないのだ。
なによりメーカーとして作り手として、たくさんの繊細な技術と手間とをかけて作り上げたジュエリーを、大切に扱ってほしい。
高いものにはそれだけの価値があり、理由がある。
その手元や首元を彩るジュエリーをどれだけエレガントに見せられるかは、身に付ける人の仕草や手入れによる。
ジュエリーを身に付けるのであれば、それだけの価値を身に付ける事に気負いを感じない、その輝きに負けない自分を磨いてほしいと僕は思うのだ。
ちなみに先の映画は、幼馴染みの安奈が山のようなDVDとお菓子を持って押しかけ、「今夜はDVD祭り!」と無理矢理付き合わされた時に観たのだが、そういう特別でお洒落な世界での描写や主人公の機転が面白く、何より主人公役のアン・ハサウェイが可愛い。オードリー・ヘップバーンっぽくて、と言ったら失礼かもしれないが、じいちゃんが好きでよく一緒に昔の映画のDVDを観ていたので、親しみやすかったのは確かだ。
オードリー・ヘップバーンといえばたくさんの名作があるが、印象に残っているものに、映画『昼下がりの情事』のワンシーンでアンクレットを小道具にしたやりとりがある。
オードリー演じる音楽学校の学生 アリアンヌが恋をした、浮名を流しまくる富豪の男性 フラナガン氏に釣り合うよう、恋愛経験豊富を装ってアンクレットを身に着けるのだ。
足元に着けるアンクレットは、足首の細さを強調し、また目には付きづらい場所だからこそのお洒落感がある。
夏の足元を彩るだけでなく、最近では冬でもブーツの上に着ける“ブーツレット”なんてものもあるらしい。
ちなみに、クラスの女子に“ブレスレットをアンクレットとして着けてもいいのか”と訊かれた事があるのだが、やめておいた方が無難だ。
匠美鎖で作製されているものでも、修理で回ってくる他社品でも、基本的にブレスレットの全長は18㎝前後、アンクレットは23㎝前後のものが多い。
足先を少し伸ばした状態から、足首をグッと直角に曲げて見てほしい。太くなったように見えないだろうか。
規格としてアンクレットよりも短いブレスレットは、たとえ足首に着ける事が出来たとしても、歩いている間や足首を曲げた拍子に切れてしまう可能性が高いのだ。しかも目線から遠い足元だけに、無くしてしまっても気付けない事が多い為、おすすめできない。
アイテムには『規格』と、そうなる為の『理由』が、ちゃんとあるのだ。
そうは言っても、『昼下がりの情事』のアリアンヌは、チェロケースのタグチェーンを足首に着ける奔放さだったわけだが、きっとあれは、たまたま彼女の足首にぴったりの長さだったのだろう。恋多きフラナガン氏が、アンクレットとタグチェーンも見分けられなかったのか、金持ちで貴金属に目が慣れているはずだろうに、シルバーかステンレスだったであろう素材を“プラチナよ”と言われて“ん?”と引っかからなかったのか疑問を感じないでもないが、まあそこは『恋は盲目』で、そのくらい頭に血が上ってしまっている様子を表現していると、解釈する事にしよう……。
「――あ!西原くん、今、女の子の事考えてたでしょ!」
ふとこちらを見た庄埜さんに言い当てられ、半分は当たっている事に少々慌てる。
なぜかこういう事に目ざといのだ、この人は。
「いや!?もちろん仕事に集中してますよ!」
すかさず国立さんと赤樹さんが口を挟む。
「ヒロ、“お前と一緒にするな!”って、はっきり言ってやっていいんだよ」
「庄埜さんも、たまには仕事に集中してくれればねえ」
「え―――……」
軽い気持ちで口にしただけなのに思いがけず総攻撃を食らった庄埜さんは、傷ついた顔をする。
と、再びこのフロアに人が入ってきた気配がした。
「お疲れ様でーす」
ひょいと顔を覗かせたのは、見た事のない男の人だ。
「……誰?」
不審者が上がってきたのかと、その場の全員が反射的に、手近な武器を取る。
「吉多ですよ!第一の吉多です!」
皆がそれぞれ、金槌や目打ちを握る様子を見て、慌てて男の人は名乗った。
「あ、ホントだ」
いつもスーツの営業組は、ラフな私服だと全然分からない。
「ひどいですよ~。いくら僕が地味だからって……」
第一営業部の吉多 敬太さんは、いかにも人の好さそうだけど、なんとなくないがしろにされるタイプだ。
「確かに昔から、遅刻しても“え、お前いなかったのか?”とか気付かれてなかったり、僕だけ貰ってない資料を、“数ぴったりのはずなのに、一枚余ってる!?”とか言われますけど……」
「ごめんごめん、吉多くん。どうしたの?」
「あの……ちょっと相談したい事が……。貝中さん、少し時間いいですか?」
「これなんですけど……」
そう言うと吉多さんは、3本のリングを作業机に置いた。
貝中係長が手に取ると、3本と思ったリングは繋がった1つのリングだった。
「トリニティリングだね」
それぞれ1本のリングが他の2本に通っていて、ちょっと知恵の輪的な面白さのあるトリニティリングは、3本の重なるリングのボリュームや重なり具合を楽しむリングだ。
「これを何?サイズ直し?」
「お客さん、どこ?普通に伝票付けて回してくればいいのに」
「どうせ吉多さんの事だから、急ぎなのに回し忘れた事を思い出して、慌てて来たんでしょ」
「カラ伝あるけど、ここで書く?」
「どうして誰も、僕の私物だとは思わないんですか!?」
基本的にこの会社は土日祝日が休みの為、土曜日も鋭意営業中のリペア課には時折、個人的に仕事を頼みたい他の部署の人間が遊びに来る事がある。
ただ、入社2年目の吉多さんは新人というだけでなく、イジられキャラというか、人の好さが災いしてモテなさそうというか、個人的に女性モノのリングを持ってきそうな感じがしない。
「ああ、お母さんの?」
「違います!!」
「え……お母さんのじゃ、ない……?」
困惑した視線が交差すると、庄埜さんが吉多さんの肩に手を置く。
「元ホストの俺が言うのもナンだけど、あんま店の女の子に入れ込むのってよくないよ」
「どういう意味だ!?」
「カモにされて、貢がされてるんでしょ?」
「なんでそうなる!!」
もちろんみんな、本気で言っているわけではなくて、レクリエーションみたいなものだ。
それにしても吉多さん、愛されキャラだなあ。
本人は“カッコイイ”と言われたがっているのに、周りから“可愛い”と言われて、それを本気で悔しがるタイプだ。
ちなみに“可愛い”と言われたら大喜びする庄埜さんとはまったくタイプが違うのに、実は同い年で、しかも仲がいいと知って意外に思ったのは他でもない。
からかいも一段落した頃合いで、吉多さんが思いもよらない一言を発した。
「これ、どうしたら“面白く”なるでしょう?」
「”位相幾何学”って知ってますか?」
「イソ……何?」
聞いた事のない言葉だが、自分とは縁遠い世界であろう事だけは分かり、貝中係長が少し情けない声で聞き返す。
「トポロジーですね」
僕が助け舟を出すと、吉多さんは頷いた。
2016年のノーベル物理学賞で3人の研究者が受賞した『トポロジカル相転移』と『物質のトポロジカル相の理論的発見』のニュースなどで、耳にした人もいるかもしれない。
実際のところその内容は一般人には理解し難いものだったが、数学の分野の一つである“トポロジー”を物理学に応用し、超伝導といった物質の状態を明確に説明する事を可能にした――
「――という感じの話を、数学の先生が話してくれた事があります。難しい理論はともかく、先生が言いたかったのは、たぶん“視点や発想の転換”と“他分野を取り入れる柔軟さ”だと思ってますけど」
「ナルホド。それで?」
「すみません、順を追って話しますね。と言っても、ありきたりの話なんですが……」
大学時代、吉多さんはある留学生と出会った。
キャンパスで本を読むその女性のブロンドに目を引かれ、綺麗な青い目と目を合わせた瞬間、「ぶっちゃけ、一目惚れでした」と頬を掻く吉多さんは、数学の道を歩む彼女に交際を申し込み、見事に振られた。が、そこで諦める吉多さんではない。彼女の好きな色、花、音楽などを調べ、出会ってから今までの4年間に何度もアタックし、先週の誕生日には敬虔なクリスチャンでもあるその彼女に、三位一体と言葉の重なる“トリニティ”リングをプレゼントした。
そのプレゼントを見た時、悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女はこう言ったのだそうだ。
「トポロジー的に面白いものをくれたら、付き合ってあげる」と。
「なんだよ、おい。ずいぶん上からだな」
「現代のかぐや姫ねえ」
国立さんと赤樹さんが口々に言うと、係長が腕組みをした。
「その“トポロジー的に”っていうのは?」
「それが分からないから、相談しに来たんです」
「企画の房村くん辺りに相談してみたら?」
「もうしました」
すでに企画のデザイナーにも相談してみたが、いいアイデアは出なかったそうだ。というかトポロジーを理解してもらえなかったらしい。
「でも、トリニティリングを見た時の彼女の反応は、いつもと明らかに違っていたんです。なんて言うか、嬉しそうというか驚いたというか。
だから方向としては悪くない――トリニティで、“トポロジー的に面白い何か”があるはずなんです」
「3つの輪の組み合わせって事?」
「たぶん……」
「………………」
沈黙が降りる。
「……ん?」
いつの間にか、全員、困った顔をこちらに向けていた。
「え?なんでみんなして僕を見るんですか?」
「現役だから?」
「頼むよ、西原くん。俺らじゃ見当もつかない」
「高校レベルの数学で、トポロジーなんて習わないですよ!数学の先生が授業中によく脱線して数学雑学を披露するんで、それをたまたま覚えていただけで……」
「その中で何か、関連しそうな話はなかった?」
「そう……ですね……。僕が“トポロジー”と“3つの輪”のキーワードで思い付くのは、紐で作る“トリフォイル”くらいですけど……。でも厳密に言うと、あれは3つの輪の組み合わせじゃなくて、一筆書きで3つの輪っぽく描いたって感じですよ?」
そう言いながら、近くにあった銅線を適当な長さに切り、“トリフォイル・ノット”の形に整えてつなぎ目をテープで留める。
「これです」
「……一応、これも候補の一つにしておこうか」
言葉とは裏腹に、“これはたぶん違うな”というがっかりした空気が流れ、赤樹さんが元気づけるように明るい声を上げた。
「学問的な事はともかく、判断する材料が少なすぎるから、その彼女の事を教えてちょうだいよ」
「そ、そうですね」
「例えばそう、彼女の名前は?」
「ジェネヴラ・ドナーティです。僕はジェンって呼んでいます」
「出身地はどこなの?」
「イタリアの北部で、確かスイスの隣って聞いた事があります」
「好きな食べ物は?」
「やっぱりイタリア人だから、パスタとかリゾットが好きですね。生パスタでバターと生クリームをたっぷり使ったソースとか、わりとこってりしたのが好きみたいです」
「そうだよねー、日本の女の子を誘う時も、生パスタだと食い付きいいよねー」
「そう?私は乾麺の方が好きかな。ぷりぷり具合とか」
「どんな性格の娘なの?やっぱりおおらかで陽気で、時間とかにルーズなの?」
「いえ、全然そんな事はなくて、すっごく真面目ですし、きちんとした人です。
一般的に日本人がイメージするイタリア人って、南部の人のイメージらしくて、僕も言ったら“一緒にするな!”ってめっちゃ怒られました。なんか、北部の人と南部の人って仲悪いみたいで、ひとくくりにされるのを凄く嫌がります」
「東京の人と大阪の人が仲悪いみたいな?」
「そんな感じで。あ、あとすごく信心深いです。日曜日にはミサに行ったり」
「さすがカトリックの総本山を抱える国だね」
「………………」
再び沈黙の後、視線が集まる。
「どう?何か分かった?」
どうと言われても。
僕を当てにされても困るんだけどなあ……。小さく溜め息を吐いて、一応答えた。
「分かりました。来週、数学の先生に相談してみます」
「で、西原。相談って?」
放課後の数学準備室で、ようやく捕まえた数学の羽根田先生――はねせんに、事の次第を説明する。
「――というわけなんです」
「へ~、そりゃ面白いなあ」
進路の相談とでも思っていたらしいはねせんは、“トポロジー”と聞いて俄然やる気を出したみたいだ。
「その女性……何さんだっけ?」
「えっと、ジェネヴラさん、です」
あまり馴染みのない名前で覚えられそうになかったので、取っていたメモを渡す。
「ジェネヴラ・ドナーティさんは、イタリア出身なんだよな。具体的には?」
記憶をフル回転で手繰る。
「具体的な地名は言ってなかったんですけど、スイスの隣って言ってました」
パソコンで検索しながら「ほう、ほう」と頷く。
「で、名前はジェネヴラさん、と」
何故かはねせんは、彼女の名前を繰り返した。
パソコンの画面を見ながら、しきりに顎をこすっていたが、やがて顔を上げると少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「――大体分かったけど、どうする?俺が答えを教えるのは簡単だけど、それじゃ面白くないから、自分で少し考えてみるか。ヒントを出してやるから」
「答えがあるんですか!?」
“面白がる”というのは主観的なものだから、明確な答えが存在するとは思っていなかったのだ。漠然と“数学者として興味を感じる”ような状態だろうとは考えていたけれど。
はねせんは僕の方にパソコンを寄せると、椅子を勧める。
「じゃあまず、ヨーロッパ方面の地図を出して、彼女の出身地を調べてみようか」
「はい」
イタリア付近の地図を検索し、スイスと国境を隔てる地域を特定する。
「この……トレンティーノ=アルト・アディジェ州、ロンバルディア州、ピエモンテ州、ヴァッレ・ダオスタ州のどれかですかね」
「よし、じゃそれはひとまず置いといて、“ジェネヴラ”という名前についてちょっと調べてみよう」
「はあ……」
意図は読めないが、言われるままに検索してみる。
「えっと……“イタリア語 女性の名前 ジェネヴラ”っと……あ、あった。意味は“白波”」
へえ、そういう意味なのか。
「何か引っかからないか?」
なんだろう?――地図。イタリア。スイス国境。4つの州。白波。……波?
「あれ?この4つの州って全部内陸だよな……」
そう、スイスに隣接していて海に面している州はない。
「でも、彼女の名前は、“白波”……」
「って事はだ。海ではない波の立つ場所の近くで生まれたと、考えてもいいんじゃないか?」
「川、沼、湖、ですか」
「うん、でも沼で白波っていうのは何か違うし、川も流れがあるのに波っていうのもちょっと違う気がするよな。そうは言っても広い川だと、川岸に波が寄せる光景は浮かばなくもない。
それに川も湖もたくさんあるんだ。なにしろアルプス山脈があるからな。だから、もう少し範囲を狭めよう。今度は、彼女の姓を検索してごらん」
「“ドナーティ イタリア”……あ、“ロンバルディア州に多い姓”」
「でもまあ、“多い”っていうのは限定されているわけではないから、必ずしもジェネヴラさんがロンバルディア出身とは言えないんだけどな。
それでも取っ掛かりとして調べてみてもいいだろう。
で、ロンバルディアの川と湖を片っ端から調べてもいいんだけど、ここで俺の数学オタク的な知識から、ピンときた場所がある」
「どこですか!?」
「マッジョーレ湖。で、そこに確か、“美しい島”って意味合いの島があるんだ」
キーを叩くのももどかしく、検索してみる。
「あった……ベッラ島。イゾラ・ベッラ、美しい島。ボッロメーオ宮殿、庭園がある」
「その宮殿を造ったボッロメーオ家の紋章に、トポロジー的に有名なモチーフがあるんだ。特徴的に組まれた3つの輪。通称、”ボロミアンリング”」
『ボロミアンリング』――3つある輪のうち、2つずつは繋がっていないのに、3つでは繋がっている。つまり、どれか1つを外すと、残りがバラバラになってしまう組み方。イタリアの貴族、ボッロメーオ家の紋章に使用されている為、ボロミアンリングと呼ばれている。
「おそらく彼女は、マッジョーレ湖の近くで生まれ育ったんじゃないかな。だとすれば、イゾラ・ベッラもボロミアンリングも身近な存在だろうし、もしかしたらそれに興味を持った事がきっかけで、位相幾何学を専攻したのかもしれない。ボロミアンリングが彼女の原点、みたいな」
「すっげー、はねせん!ありがとうございます!トリニティリングをこのボロミアンリングに組み替えれば、きっと彼女を面白がらせる事ができますね!」
吉多さんもきっと喜んでくれる。
「あーいや、西原。話を最後まで聞け」
はねせんは、少し言いづらそうに顎を撫でた。
「これな、実現は不可能なんだ」
週末、土曜日。出社した僕は取り囲むリペア課のみんなに、はねせんと見つけた“答え”を伝えた。
「先生曰く、“実際にリングで作る事はできないと証明されている”そうなんです」
話の後、僕も家に帰ってから、切れ目の入ったリング状のパーツを使って、何とかできないものかやってみた。
紐を使えばくぐらせられるキモの重なり部分も、指輪のようにまっすぐなリングを使って作る事は、確かにできなかった。ボロミアンリングは、理論上のものなのだ。
“答え”を見つけられなければ負けで、見つけても不可能。
「つまり、“何があっても、お断り!”って事?」
「先生は、“そう言う事なんじゃないか”って言ってました」
「どうする?吉多さんにこのまま伝える?」
「そうねえ……それも残酷よね」
答えが残酷なものなら、いっそ答えは見つからなかったと伝える方がいいかもしれない。
「……なんか悔しいな」
庄埜さんが珍しく真面目なトーンで呟くと、貝中係長がボロミアンリングの図を指した。
「これ、絶対に作れないものなの?」
「紐みたいに柔らかい素材を使えばできますけど」
「じゃあ、作っちゃおうよ」
係長があっさりと言う。
「え!?」
「俺たちにはそのノウハウがあるんだから。つまりさ、西原くんの言っていた”視点や発想の転換”と“他分野を取り入れる柔軟さ”って事だよ」
「――ジェン。この前、君が出した“課題”の事なんだけど……」
カフェのオープンテラスで、吉多は長い脚を組んだ外国人女性と向かい合っていた。
「どう?ワタシを面白がらせてくれる”答え”は見つかりそう?」
「とても難しい。少し諦めかけてる」
「ソウ……」
呟く彼女の笑顔がほんの少し残念そうに翳る。
「だから一旦、このトリニティリングを受け取ってもらえないかな。預かるだけだと思ってさ」
「預かるだけ?ヘンな日本語」
苦笑しながら、差し出されたリングケースを手に取り、何気なく箱を開ける。
彼女がハッと息を飲んだ。中から取り出したのは―――
「――ボロミアンリング」
彼女は外国人特有の大きな身振りで驚きと喜びを表現してから、満面の笑顔で相手に抱きついた。
「ケイタ、“正解”よ!」
“トポロジー的に面白いものをくれたら、付き合ってあげる”
「ジェネヴラさんの条件に、このリングを使えっていう縛りはなかったよね。だから“作り直す”んじゃなく、もういっそ“作り出し”ちゃおう」
貝中係長が言うと、その場の全員が目を輝かせた。
「そうか!紐でならこの形になるんだったら、ワックスで作っちゃうか、なましてグニャグニャの線材を使えば!」
「いける!いけるよ!」
斯くして、元のリングよりも二回りほど小さい、けれど正真正銘のボロミアンリングが出来上がった。重なりの部分もちゃんと理論通りにできているが、その代わり、トリニティリングのようにリング同士の可動はない。図の通りに3つの輪が固定された状態だ。だから指輪としては使えないが、革紐に通してネックレスとして着けられるようにトップとして作ったのだ。
「――今頃、吉多さんは上手くやってるかなあ」
「振られて、泣いちゃってるかもね~」
「大丈夫よ、きっと」
赤樹さんが微笑んだ。
「結局のところ、彼女は答えの無い問題を出したわけではなかったんだし。もしかしたら本当は、そんなきっかけが欲しかったのかもよ」
「そうですね。そもそも“面白い”っていうのからして主観的なんだから、実はどんな答えでもOKするつもりだったのかもしれないし」
「考えてみると、素敵だよね。諦めず思い続けた気持ちが、彼女の胸元で”不可能を可能にした形”として光り続けるんだから」
「正面から見た場合だけですけどね」
それでも、数学者の胸元で光るボロミアンリングなんて、やっぱりロマンチックだ。
「ま、ダメだった時は慰めてやるって言ってあるんで、今日は酔わせて潰します」
「お前は信じてやれよ、友達なんだろ?」
「まあ、なんにしても」
庄埜さんは伸びをしてから溜め息を吐き、言った。
「しばらく“トポロジー”は聞きたくないかな」
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