あたしが仕事を始めてから、はや数ヶ月が経とうとしていた。七海さんは相変わらず、日がな一日家にいる。対するあたしは、会社でバリバリ働きながらも、暇を見つけては引っ越し先を探していた。けれども、これといってピンとくる物件に巡り会えない日々。忙しさも相俟って、なかなか七海さんの家から出られない状態が続いていた。七海さんのほうから強引に襲ってくるということもないせいか、「今すぐ逃げなければ!」という危機感もなく、なんとなくダラダラ過ごしてしまっている、というのが正解かもしれない。

 危機感を抱かなければならないのは、むしろ会社のほうだった。以前飲み会で絡んできた村上先輩。彼はあれ以降、何かにつけてあたしに声を掛けてくるようになった。呼び方もなんか、いつの間にか【五十嵐さん】から【颯希ちゃん】に変わってるし。ちょいちょい仕事を振ってきて、あたしが残業になると、人の少ないフロアには、彼も必ずいることに気付くのにもそう時間はかからなかった。そして仕事に目処が経つ頃、彼は決まってこう言うのだ。

「颯希ちゃん、そろそろ上がり? もう遅いし、家まで送るよ」

「いえ! 結構ですっ!」

 この日も一緒に帰ろうという誘いを断り、あたしは急いで退社した。電車に乗って最寄駅。そこから先は、七海さんちのアパートまで十五分くらい歩く。決して近くはないその距離を、徒歩で帰るあたしの足音がコツコツ鳴る。だけどあたしは、気付いてしまった。その足音がもう一人分、まるであたしを追いかけてくるかのように、暗い夜道に響いていたことに。

(まさか……いやでも。……まさかまさかまさか!)

 これは振り返ったら後悔するやつ。そう思って足を速めたけど、このままついてくることを許していたら、家を特定されてしまう。それはそれで非常に困る。こうなったら不審者対策の常套手段! あたしは鞄に手を突っ込むと携帯電話を取り出して、あたかもどこかに電話をかけるようなふりをした。

「あっ、もしもーし? 七海さん?」

 通話しているふりをしているだけなので、もちろん本当はどこにもかけていないし、相手の声は返ってこない。そもそも七海さんの携帯番号を知らないというか、彼が携帯電話を所持しているかどうかも怪しいところだし。だけどこれで、ストーカー相手が第三者の存在に怯んで立ち去ってくれれば……そう思っての行動だったのだけれど。

「あんだよ?」

 期待していなかった返答が聞こえてきた。暗がりに佇む七海さんの声だった。元が綺麗な顔立ちなだけに、暗闇で電灯に当たっているその顔には凄みがあった。……懲りもせずに、口元にトマトジュースが広がっているからなおさらだ。

「ひっ、ひぃっ! 化け物!」

 わたしの後をつけていた不審者――村上先輩は、そんな七海さんを見るなり大慌てで走って逃げて行った。ははは、ざまみろ。おかげであたしは、ちょっとだけだけど溜飲が下がった。

「七海さん、またトマトジュース片手に寝てたでしょう? 酷い顔ですよ?」

「あぁん? んなもんこうしときゃいいだろ」

 言いながら七海さんは、Tシャツの裾を引っ張ってきて、それで乱暴にゴシゴシ口元を拭い始める。あぁ汚い……それ洗濯するの誰だと思ってるんですか。

「で? アンタはなんであんな人間につけられてんの?」

「好きでつけられてた訳じゃないですよ……あたしもあれにはほとほと困ってまして。でもおかげで助かりました。ありがとうござ……」

 お礼を言い掛けてる途中で、七海さんの身体がグラリと傾く。そういえばこの人、病人みたいなものなんだった。慌てて身体を支えようとするも、ガッシリとした体格に負けて、

あたしまで倒れるのに巻き込まれてしまう。二人、無様に道の上。深夜の車通りの少ない道だったのが幸いだった。

「もう、調子悪いのになんで外出て来たんですか」

 身体を起こしながらそう言うあたしを、七海さんは何故かまじまじと見てくる。

「? なんですか?」

「今日のアンタ……なんか良い匂いがする」

「はい? 別に香水とかつけてないですけど」

 自分でも腕をクンクン嗅いでみる。別になんにも匂わない。汗臭いとも思わないんだけど……。

「いいや、匂うね。どこからだ……?」

 強情な七海さんはそのまま、顔をあたしに近づける。かと思うと突然、首筋に鼻を押し付けてきた。

「やっ! ちょ、ちょっと、こんなとこで何すんですか!」

「ちょっと黙ってろ」

 腕を掴まれて動けなくされる。そうしている間にも七海さんは鼻をスンスン鳴らしながら、あたしの匂いの元を探ってるらしかった。なんだか実家で飼ってた犬みたい……なんてのんびりした感想を抱いている場合ではない。

「い、家! とりあえず家入りましょう! こんなとこでこんなことしてたらいつ轢かれても文句言えないですよ! ほら、肩なら貸したげますから、行きましょう!」

 なんとか説得してとりあえず七海さんちまで半分這いずりながら帰る。七海さんは家に着くなり、やっぱり匂いを嗅いできた。

「これは……上質な血の匂いだ……アンタいつからこんな美味そうな血になったんだ?」

「あたしは何もしてませんよ……七海さんの勘違いじゃないですか?」

 あたしはズリズリと移動する。さっき助けてもらったばかりでこんなこと言うのもなんだけど、今の七海さんからはなんだか危険な感じがしたのだ。だけどそう長くはない一本道の廊下。移動にも限度があって、折角広めた距離を七海さんにすぐ詰められた。

「いいや、嘘だね。オレさまの鼻は誤魔化せねぇ。今のアンタはむっちゃ美味い。間違いない」

「そうは申されましても……」

 あたしがそう言うと、先ほどまでの勢いはどこへやら、七海さんは急にしゅんと萎れたたかと思うと、そのまま廊下を這い蹲ってご自分のベッドのほうへ向かおうとした。

「あんだよーこんなに美味そうな匂いさせといてお預けかよー……一体オレはいつまで我慢すればいいんだよー、もうこんなに死にそうだってのに」

 その台詞に、絆された訳ではない。だけれどあたしは、七海さんと暮らし始めてからのこの日々で、七海さんが悪い人じゃないってことは思い知らされていた。加えて、さっきの先輩からの救出劇。好き! とまではいかなくても、少なくとも彼に対して、好感を持っていることは確かだった。

「……良いですよ?」

「あん?」

「血、吸っても良いですよって言ったんですよ! んもう、恥ずかしいから二度も言わせないで下さい!」

 意を決して伝えた許可に、こちらを向いた七海さんの顔は、青白いながらも輝いているように見えた。だけど彼は、よろよろしていてなかなかこちらに来れそうにない様子だった。仕方がないから、あたしが出向いて差し上げる。

「颯希……」

 初めて名前を呼ばれる。たったそれだけで、なんだか自分の名前がとても特別なもののように錯覚してしまう。吸血鬼についての知識はないけれど、さっき首元の匂いを嗅いでたあたり、首筋から吸うというのは本当なのだろうとあたりをつけて、あたしはシャツの襟を寛げた。

「……マジでいいのか?」

「その質問にはもう答えません」

「……痛いと思う」

「でしょうね」

 平静を装ってるけど、実は結構怖い。今更になって、恐怖がふつふつと湧いてきた。七海さんの口には、八重歯と言って誤魔化せるものではないほどの立派な牙が生えている。あれがあたしに突き刺さる……想像しただけで震えそう。と、何故か七海さんも肩口を曝け出してきた。この人一体何考えてるんだ?

「我慢、できなかったら……オレのこと、噛んでいいから」

 その言い方が、切なそうな表情が、やけに艶っぽさを含んでいて。あたしはごくりと生唾を飲んだ。

 その日から、あたしは不動産巡りをするのをやめた。表札の下に空いていた不自然な空間には、【五十嵐 颯希】が加わった。


                                   終わり

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TYPE:F 望月 葉琉 @mochihalu

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