子どもの頃から長いものには巻かれろ精神だったあたしは、結局そのまま七海さんちにお世話になることになった。とは言え、血を吸われることを許した訳ではない。新しく住む場所が見つかるまで、あくまで一時的に、ということである。七海さんのほうも、あたしに吸わせることを諦めた訳でもないらしく、今のところはギリギリで均衡状態を保っているという感じ。

「……何コレ?」

 食材は何があるかと冷蔵庫を開けてビックリ。そこにはトマトジュースがぎっしり詰まっていた。あたしの物はまだ何も入れてない。つまりこれは、全部七海さんが飲むつもりだったってこと……?

「七海さん、トマトジュース好きなんですか?」

 あたしは壁際のベッドでグッタリしている七海さんにきいてみた。ベッドはもちろん彼の物。あたしに譲ってくれるという気はなさそうだった。まぁ野宿に比べれば、床で寝るのなんて全然訳ないことなんだけど。

「……別に、好きでもなんでもねぇ」

「じゃあなんでこんなに」

「似てるから」

 何に、とは、恐ろしくてきけなかった。彼の正体を思えば、そんなのきかずと知れたこと。じゃあ七海さんは、これで飢えを凌いでいるってことだろうか?

「そりゃ、色はそうかもしれませんけど。味とか粘度とか、全然違いません?」

「いんだよそんな細けぇことは。それとも何か? やっぱりお前のくれる気にでもなったっていうのかよ?」

「いや、それはないですけど」

 即答した。だってそれは大事なコト。あたしにとっては絶対条件。期間限定とはいえ、住まわせてもらってる身で態度がデカい自覚はあるけど、こればっかりは譲れない。

「んじゃ余計なこと言うんじゃねぇ。あっ、勝手に飲むなよ?」

 まぁあたしが飲むことはないだろうから、その心配は恐らくご無用。小さい時は喜んで飲んでいたらしいけど、今はトマトジュースって、なんとなく苦手で避けてる。

 そんなこんなで慌ただしく新生活の準備をしていると、初出勤の日はあっという間にやってきた。この数日観察していたところ、七海さんはどうやら仕事らしい仕事に行っている様子はない。毎日ベッドで項垂れている。この人、まさかニートなんだろうか? 人間じゃないんだから、そこらへん、あたしの常識で測っていいのかわかんないけど。

「それじゃああたしは仕事に行ってくるので……七海さん? 聞いてます?」

 あたしが出がけに玄関から声を掛けても、ベッドからは「うー」とか「おー」とか、うめき声のようなものしか上がらない。うつ伏せになって寝ているけれど、果たしてあれでちゃんと呼吸ができているのだろうか?

 まともな返答を諦めて、あたしは勝手に鍵を借りて出て行った。今日から新社会人。あんな意味の分からない人にかまけて、初日から失敗する訳にはいかない。軽く握り拳を作って「よし!」と気合いを入れ直すと、あたしは張り切って出社した。

 仕事終わりは、案の上というか、新入社員歓迎の飲み会に誘われた。ここで断るのも心証が悪い。七海さんには遅くなるって言ってないけど、あたしは参加することにした。

 飲み会はイイ感じに進んでいたと思っていたんだけど、途中から隣の席に座ってきた男の先輩に面倒臭い絡まれ方をした。これから一緒に仕事をしていく相手だと思って、あたしはお行儀の良い後輩らしい振る舞いを心がけたんだけど、帰る頃には一気にドッと疲れてしまった。家まで送って行くというその先輩の気遣いを断り、なんとか自力で家に帰ると……。

「ぎゃー!」

 キッチンに人が倒れていた。いや、この家に住んでるのはあたしと七海さんしかいないから、間違いなく七海さんなんだけど! 辺り一帯が真っ赤に染まっていたのだ。吐血? 救急車? そもそも吸血鬼って、病院で看てもらえるの?

「う……」

 唸りながら七海さんが起き上った拍子に、クヮンと金属質な音が響いた。それはトマトジュースの缶が弾みで転がった音だった。

「な、なんだジュースか……もう! 驚かさないで下さいよ!」

「うるせぇな……頭に響くんだよ。つーか何お前? 酒臭! このオレさまがジュースで我慢してんのに、酒呑みに行ってたのかよ!」

「そっちの事情は知りませんし、これも仕事の一環なんです」

 七海さんの恨めし気な言葉を半ば無視して、あたしは鞄を放り投げると、洗面所に雑巾を取りに向かった。ジュースとわかったとはいえ、あの紅い海をそのままにはしておけない。拭いている間に、七海さんには顔を洗ってもらいに行った。

(これ、トマトジュース飲もうと思って、そのまま倒れちゃったってことだよね? 具合、そんなに良くないのかな……?)

 あたしが知る限り、出会った日以降、彼は血を摂取していない。毎日家で死んだように過ごしているんだから。今日もああして倒れてたってことは、多分外出してないんだろうし。吸血鬼にとって血は食糧のはず。それをこれだけの期間摂っていないって、大丈夫なことなんだろうか? 疑問に思っていると、タイミングよく七海さんが顔をタオルで拭きながら戻ってきたので、あたしは直球できいてみることにした。

「七海さん、そろそろ血、飲まなくて大丈夫なんですか?」

「お? やっとお前もオレさまに捧げる気になったか」

「いや違いますけど。こないだみたいに誰かから貰う訳にはいかないんですか?」

「だから言ったじゃねぇか。あれはマジィから、最終手段。マジでヤバいって時の、奥の手ってやつだよ」

「今がそのマジでヤバいって時だと思うんですけど」

「お前をその気にさせるから大丈夫だよ」

 そんなヘロヘロの体で自信満々に言われても、あたしにその予定はないから非常に困るのですが。そう表情に出したつもりだったんだけど、彼がそれに気付くことはなく。濡れたタオルを首に掛けたままボフンとベッドにダイブして、そのまま凄いイビキをかいて寝始めてしまったのだった。

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