お兄ちゃんのララバイ

蒼生 涙以

お兄ちゃんのララバイ

 雨が降りしきる町の外れに、僕は帰ってきた。遠い東京の高校に進学して寮生活を始めてから、独り立ちする為にずっと帰らなかった故郷の古びた駅のホームに、僕はこうして立っている。


「七年ぶりか、懐かしいな」


 僕はそう呟き、無人の駅を降りて辺りを見回す。草花の生い茂る絵に描いたような自然の風景も、雨で水分をまとったみどりの風音も、ほのかに香る梅の匂いも、全てが温かく僕を包み込むように出迎えてくれた。


「ただいま」


 僕はそう呟いて、満開の梅の花と、開花を待つ桜の蕾が並ぶ並木道を一歩一歩踏みしめるように歩き出す。雨はしとしとと静かに音を立てて少しずつ、少しずつ花を湿らせていた。


「お帰りなさい」


 そう言って母は僕に優しく微笑みかけて僕をその家に出迎えてくれた。僕は少しためらってから、少しだけ口角を上げて小さな声で答えた。


「ただいま。お久しぶりです、新垣にいがきさん」


 僕は幼い頃に既に実の母を亡くしていた。目の前にいる母は、近所に住んでいた十五歳ほど歳上のお姉さんだ。今はお姉さんと言える歳でもないかもしれないけれど。


「これ、つまらないものですが」

「あら、ありがとう。随分と大きくなったね。良かった。貴方はもう一人でも生きていけるのね」


 母は少し寂しそうに笑顔を見せた。僕が遠くの高校に進学する時も、母はこうして笑ってくれたっけ。僕はお邪魔します、と家と母に向けて頭を下げ、その家に入った。


「父さんは、元気でしたか?」

「ええ、貴方の為にってずっと仕事を頑張っているわ。今は海外で出張をしているけど、この町に帰ってきたら貴方の様子を聞かせてあげるわね」


 ここで言う父は、母の夫ではなく、僕の実の父親の方だ。出張の多い仕事柄のせいで僕の面倒を見ることが出来ず、僕を母に預けた張本人でもある。だけど、決して冷酷な性格ではなく、給料の殆どを僕と新垣家に仕送ってくれていた。きっと母を亡くしていなければ、僕は心の底から父を尊敬出来ていたと思う。


「父さんに手紙を書いておきました。帰って来たら渡しておいてください」

「あら、わざわざありがとう。おじさんもきっと喜ぶわ」


 そうやり取りをしながら、僕は居間に誘導され、もう一人の父に挨拶をした。今度は母の夫の方の父だ。四年前に仕事中の不慮の事故で亡くなったと母から聞いていた。線香の独特な煙の匂いが居間に漂う。


「お父さんは、最期までずっと貴方と寧々ねねの事を案じていたわ。不器用で頑固で仕事人間だったけど、ちゃんと貴方を愛していたわよ」


 僕はもう一度父に一礼し、顔を上げてから母の方を向き、母に尋ねた。


「寧々ちゃん……寧々さんは元気ですか?」

「ええ、お友だちもたくさん出来てすくすくと育ったわ。貴方のお陰よ。ありがとう」

「いえ、僕は何も」


 新垣寧々は母の娘だ。僕とは九つ歳の離れた妹みたいな近所の小さな女の子だった。当時の母は夜勤で家を空ける事が多かったから、小さな幼児を寝かせるのが、他所者の僕に与えられた唯一のおてつだいだった。


「今日は寧々本人の希望で暫く二人きりにして欲しいそうだから、お母さんはお世話になったご近所の皆さんに挨拶回りしてくるわね。貴方の大学卒業と就職を祝って」


 それじゃあね、と母は支度を済ませ家を出て行った。たくましく背筋の伸びていた母の背中は、今ではすっかり丸くなっていた。僕はその母の背中を見て少し複雑な気持ちになった。僕は、この家に残るべきだったのだろうか。


「部屋入っても、いいかな?」


 僕は家の廊下を渡った一番奥にある部屋のドアをコンコンと小さくノックした。やっぱり僕は、七年ぶりでも彼女の匂いをはっきり覚えている。柔らかくて、華やかな香りが、部屋の外まで匂ってきた。


「……お兄ちゃん?」

「久しぶり、ドア開けるよ」

「だめ。ちょっと待っててね、今準備しているから」


 彼女の声は、穏やかで透き通った声だった。面影はあるけど、やっぱりもう彼女は中学生だ。初めて聞いた様なその声を、僕は母の声に少しだけ重ねた。やっぱり親子なんだな、と僕は思った。


「お兄ちゃん卒業と就職おめでとう!」

「わあ、ありがとう」


 ドアを開けた瞬間に、クラッカーのパァンという音と紙テープが視界に飛び込んで来た。視界の先には制服を来た女子中学生と、それに見合う若々しい部屋が広がっていた。小綺麗に整頓されていて、ぬいぐるみやお人形が、僅かに彼女の幼い頃を思い出させる。僕はクラッカーから飛び出した紙吹雪が舞う中、華やかに飾り付けされたパーティールームの様な部屋に足を踏み入れる。


「大きくなったね、寧々ちゃん。あ、ごめん。もう中学生だから寧々さんかな」

「寧々ちゃんでいいよ〜。懐かしいなぁ、やっぱりお兄ちゃんだ」


 彼女の無邪気に笑った顔は、昔と全然変わらなかった。くしゃっと細くしたキラキラした目に、にししと歯を出して笑う小さな口元。すっかり背も大きくなって、長く下ろした髪が雰囲気を大人っぽく演出しているけど、やっぱり寧々ちゃんは寧々ちゃんだった。


「さあさあ、座って座って!ジュースにお菓子にケーキもあるよ。お兄ちゃんが帰ってくるって聞いて、ずっと楽しみに待ってたんだから」


 華やかなテーブルクロスのかかった折りたたみ式のテーブルの上には、二人分のケーキと紙コップ、大皿に盛り付けられたカラフルなお菓子達に、いちごオレと僕に向けてなのか、大人のレモンティーと書かれた紙パック飲料が置かれ、所狭しとテーブルの上を飾っていた。


「お兄ちゃんの新たな門出を祝って、かんぱーい!」

「乾杯」


 僕たちはそうして手に持ったプラスチック製のコップをそっとくっつけた。彼女は一口いちごオレを口に入れると、目の前に置かれたショートケーキに目を輝かせていた。


「んー、美味しい!さあさあ、お兄ちゃんも食べて食べて」

「うん、いただきます」


 僕は目の前のチョコレートケーキを口に運んだ。少し苦味のかかったビターな味がした。レモンティーといいこのケーキといい、きっと寧々ちゃんが選んでくれたんだろう。彼女なりに大人へのもてなしを考えてくれたのかと思うと、僕の心は少しぽかぽかとした温かい気分になった。


「美味しい?」

「うん、とっても」

「良かったぁ」


 彼女は僕の様子を度々伺って来ては、僕が答えると無邪気な笑顔を見せた。


「でねでね、ケイコ……その友達がね、小学校の卒業式の時、寧々と友達になれて良かったって涙流しながら言ってくれたの! 楽しかったなぁ、あの頃は。あ、でも中学に入ってからはもっと楽しいよ!勉強も大変だけど……」

「ふふっ、素敵な思い出がたくさんあるんだね。楽しそうなのが伝わってくるよ」


 彼女は表情豊かに僕のいない間の思い出をたくさん語ってくれた。僕が家を出る時は大泣きされて大変だったのに、本当に元気そうだ。良かった。寧々ちゃんはもう、僕がいなくても大丈夫そうだ。でも、もう中学生なんだし、当たり前かな。なんて考えては、彼女の笑顔につられて僕も微笑み返した。


「ねえねえ、お兄ちゃんの話も聞きたいなぁ。東京はどうだった? 高校とか大学とかでは楽しい事あった?」

「そうだねぇ、じゃあ、寧々ちゃんの小さい頃の話をしようか」

「ちょっとー、ちゃんと話聞いてないでしょー」


 僕はこの家を離れた七年間の事を彼女に語る事はしなかった。楽しい事もたくさんあったし、思い出もたくさんあるけど、この家の人に、まるで家を出て良かったかの様な話をしたくなかったからだ。


「寧々ちゃんも大人になれば分かるよ。今は昔話に花を咲かす方が僕は楽しいんだ。もちろん、寧々ちゃんの話を聞くのも楽しいよ」

「分かった……でもあんまり恥ずかしい話はやめてよね」

「あはは、するかも」

「お兄ちゃんのばか」


 僕は顔を赤らめてむすっとした顔をする彼女を他所に、小さな寧々ちゃんとの懐かしい思い出を話した。保育園に迎えに行った時に大きなカブトムシを捕まえたって見せてきた事、大事にしていたお人形を壊しちゃった時に一緒になってお人形を治した事、絵本を読み聞かせていた時に『ねねはおばけとおともだちになる!』って言われて一緒におばけに会いに行った事。寧々ちゃんが憶えてない些細な事まで、僕はたくさん話した。


「そういえば寧々ちゃんは、昔こんな事も言ってたっけ。憶えてないだろうけど」

「ん?なあにー?」

「寧々ちゃんはよく『ねねはおにいちゃんのおよめさんになる!』って言ってくれてたなぁー、僕も六歳の女の子相手に照れていたのを憶えてる」

「もう、やめてよねって言ったのにぃ。憶えてるもん、お兄ちゃんのばか」


 僕が少しからかった様に言うと、彼女は恥ずかしそうに顔を隠しながら、ばかばかと僕を可愛らしく怒った。やっぱ彼女は思春期を迎えた女の子なんだなって改めて思う。僕はごめんごめんと言いながらついつい笑ってしまった。


「そういえば、夜なかなか寝付けないときは子守唄作って歌ってあげてたっけ。懐かしいなぁ」

「憶えてるよ、お兄ちゃん音痴で、全然眠れなかったもん」

「でも最後にはちゃんと寝てくれてたよ」


 僕の役目は夜の子守だから、彼女を寝かせる事が日課だった。だから当時の僕は、はしゃぎ回る彼女を寝かせるのに必死で色々考えていた。一番うまく行ったのが、この子守唄だったんだよな、と思い出しながら話す。


「ねえねえ、お兄ちゃん」


 そう言うと、寧々ちゃんは僕が正座で座っている隣に並んできた。


「なあに?」

「もう一度聞かせてよ、子守唄」

「やだよ、恥ずかしい」

「あー、なんか私眠くなって来ちゃった。寝かしつけてよ、あの頃みたいに」


 そう言って彼女は体を横にして、僕の膝上に頭を乗せて来た。中学生とはいえ、まだ子どもなんだな、と僕は思う。確かに僕も、あの頃は寧々ちゃんの世話に疲れて、休みの日は母に甘えていたな、とまた僕は懐かしい記憶を引っ張り出した。


「寧々ちゃんもまだまだ子どもだな」

「子どもだもん」

「そうだね」

「そうだよ」


 僕は昔の記憶を思い出すのに暫く時間をかけてから、静かにそっと、少しはマシになったと自負する音痴の声で歌う。


 ゆっくりねんね またあした

 いつでもぼくは そばにいる


 おにいちゃんは きみのこと

 ずーっとずっと まもるから


 なくなえがおで にっこりと

 おやすみなさい ゆめのなか


 さよならねんね またあした

 いつでもきみの そばにいる


 僕がそう歌い終えたところで、僕の脚の上に乗っかっている彼女の顔を見る。


「……本当に寝ちゃったの?」


 彼女は、幸せそうに口角を上げてにっこりと微笑みながら、すー、すーっと心地よい寝息を立てて眠っていた。僕は彼女の小さな頭をゆっくりと二回撫でてから、皿の上に僅かに残ったお菓子を食べた。


「ただいまー」


 遠くでドアのなる音と共に母の声がして、僕ははっとして上体を起こす。どうやら僕も座ったまま寝てしまっていたみたいだ。


「お帰りなさい、新垣さん。僕も寧々ちゃんも、寧々ちゃんの部屋にいます」


 僕は扉の奥の母に向かってそう返事をしてから、寧々ちゃんを起こさない様に彼女の大きくなった体をゆっくりと両手に抱き抱え、彼女の部屋のベッドに静かに下ろし、また頭を二回撫でた。彼女は眠ったまま、にししと歯を出して笑みを見せてくれた。


「あら、寝ちゃったのね」

「はい、とても可愛らしい寝顔ですね」

「とっても幸せそう。よっぽど貴方と話せたのが嬉しかったんでしょうね。ありがとう」

「いえ、僕は何も」


 そうやり取りをしながら、僕は居間の隅に置いてあった荷物を背負い、靴を履いて玄関に立って、母のいる方に体を向ける。


「お邪魔しました。仕事に慣れてきてまとまった休みが出来たら、また帰って来ます」

「たまにでいいよ。お仕事を頑張っていてくれる方が、お母さんは嬉しいから」

「ありがとうございます」

「いってらっしゃい」

「行ってきます」


 僕は母にもう一度頭を下げ、新垣家をあとにして駅へと向かった。母は僕が見えなくなるまでずっと、僕に向かって手を振って見送ってくれた。


「次はいつになるかな」


 僕はそう言って、満開の梅の花と、開花を待つ桜の蕾が並ぶ並木道を一歩一歩踏みしめるように歩き続ける。雨はすっかり止んでいて、空は雲の切れ間から暖かな春の陽射しをのぞかせていた。虹のかかった空を見上げながら、僕はまた同じメロディーを口ずさむ。


 さよならわがや またいつか

 こころはいつも そばにある


 そうして僕は、里帰りを終えた。またいつか、今度は笑顔で帰ってこよう。此処は僕の大切な、大切なふるさとだから。

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