百合小説の名手による、オムニバス短編集。読めばすぐにわかると思いますが、この小説に出てくる少女たちには、胸が締め付けられるような、抗いがたい魅力があります。これほどまでに、多様で蠱惑的な少女たちが、一人の人間の想像力だけから生み出されていることが、驚異的です。
この小説の少女たちはほぼ例外なく、何か(あるいは誰か)を強烈に追い求めています。それはたとえば、地図を作ることだったり、写真を撮ることだったり、あるいは別の少女だったりするのですが、どの少女にも、必ず追い求める何か(誰か)があるのです。
一方で、伝統的な価値観に立てば、女性というのは、能動的に何かを追い求めるというより、誰かに追い求められる受動的な存在、告白される対象、そして(美しいモノとして)人に見られる対象なのかもしれません。
この小説の少女たちが、これほどまでに魅力的である理由の一つは、その二つが両立していることなのだと思います。そして、愛でられる対象としての受動的な快感と、何かを追い求める情熱に伴う能動的な快感を、一人称の文体を通して、読者も疑似的に体験できてしまうことこそが、この小説の中毒的な魅力の一つだと思うのです。
さらに、少女たちの追い求めるもの(あるいは人)は、当然、多種多様で、それぞれ唯一無二です。そしてそれは、異界的な少女九龍城の混沌の中に散りばめられています。
そのことが、読者である私たち自身の抱えている、混沌としたこの現実世界の中から、自分だけの唯一無二の何かを掴み取りたいという、内なる渇望とシンクロして、言葉にできない感動を生んでいるのではないでしょうか。
九龍城とは90年代まで香港に存在した迷宮的スラムのことであり、私たちがしばしば思い描く猥雑でロマンあふれる香港のイメージの大部分がこれに依拠しているのではないか。
この作品の表題でもある「少女九龍城」は、その名に違わぬ魔境の"女子寮"である。
そこには、迷宮の地図を作ろうとする加納千鶴や、学校から近いというだけの理由でうっかり迷宮に入り込んでしまった竹原涼子、引っ込み思案なメガネっ娘の木下真由など、多数の女子が住んでいる。
増改築を繰り返した寮の中に様々な生徒が存在することで、物語がまさにモザイク状に展開されるのだ。なぜ私たちはこのようなイメージにときめいてしまうのか。それは、グーグルマップがあればどこにでも行けてしまう高度に情報化したこの社会が失った不透明性がここにあり、そこから生じる、何が出てくるか分からない期待感が、郷愁とともに私たちに突き上げてくるからだ。
こうしたロマンに風味付けをする香料はここが"女子寮"だということ――、
ほのかな百合成分が迷宮見物の絶好の肴となる。
(新作紹介 カクヨム金のたまご/文=村上裕一)
特筆すべきは、その秀逸な舞台設定です。
本作の舞台となる「少女九龍城」という女子寮は、一種の異界と言えましょう。作中の描写を引用しますと、階段を登ったのにいつの間にか地下室を彷徨っていたり、ちょっと席を外しているうちに一日が経過していたり、天井裏から電車の走る音が聞こえてきたり・・・。要するに、「何が起こっても不思議ではない」場所なのです。そんな超常現象のるつぼの様な場所に、何をしでかすか分からない非常識で個性的な女の子が大勢詰め込められれば、起こる化学反応はひとつ。ものすごく不思議で、とんでもなく面白い、百合物語のオンパレードです。
登場する女の子が多種多様なら、物語の中で成立するカップルもまた、極彩色の個性を放つ刺激的な二人になります。ネタバレになるので詳しくは伏しますが、長年百合作品を嗜んでいる私でも、思わず「こんな百合っぷる見たことねえ! 最高!!」と叫びたくなるぐらい、新鮮で個性的な百合模様となっております。
少女たちの巨大な魔窟を舞台に織り成される無数の群像劇。迷宮の中で少女と少女の運命が交差する時、不思議で百合な物語が生まれる。唯一無二にして史上の百合群像劇を、ぜひ目撃あれ。