スノーホワイトはもう一度と言った

通行人C「左目が疼く…!」

Snow White.



「毒林檎ってすごく甘かったんだと思うんだよね」


 ポツリ、落とされた言葉に顔を上げる。

 西日の眩しい、放課後の教室。

 声のした方を見れば、見知ったクラスメイトが窓の外のグラウンドを見下ろしていた。


「はぁ? なに急に」


 なんの脈絡もなく発せられた言葉に、俺は首をかしげる。

 すると目の前のクラスメイトは長い黒髪を揺らしてくすくすと笑った。


「そう思わない? 絶対甘いよあの林檎」

「いや、全然わかんねえし。急になんの話してんだよ」


 大げさにため息をついてみせて、俺は自分の椅子の背もたれに覆いかぶさった。

 ダラリと脱力させた身体の正面にある…、まあつまりは普通に座った時に後ろに位置する席だ。

 そこに座っているのは俺と同じ歳の少女。

 手持ち無沙汰に、ガサガサと空になった飴の包装紙なんかを指で弄んでいる……。暇そうな彼女の名前は笹原雪菜。


 毎日通う学び舎の教室で。

 毎日俺、小暮雄大の後ろに座るクラスメイト。

 彼女はこちらに柔らかく微笑みかけた。


「白雪姫だよ」


 それは、子供の頃なんかによく読み聞かされた、童話。

 意地悪な継母に追い出されて、小人に拾われて、毒林檎を食わされて眠る……、美しすぎるお姫様の話。


 生まれたその時から男なものだから、俺には馴染みがないのだけど…。それどころか最後まできちんと読んだ経験さえ記憶にない始末。

 だというのに、あまりにも有名な物語だからラストはなんとなく知ってる。なんやかんやあって王子様と結ばれてハッピーエンドの大団円。

 読んだ後、誰も悲しくならない。完璧な物語。

 俺だって知ってるぐらいなんだ、男女問わず日本に住む人の殆どが知ってるんじゃないかな。


 読んだことなくても知ってる、定番中の定番。

 誕生日にショートケーキを選ぶようなもので、女にはスカート男にはズボンを履かせるほど一般的。

 酒でいうならとりあえず生たのむような感じ。

 そのぐらい『当たり前』に。お姫様の童話と言ったら一二を争う確率で名前の上がる名作だ。


 だから、知っている。

 知ってるからこそ、これからも読む予定はないわけで……。

 だから何かというと、まあつまりは雪菜が始めたこの話自体、俺はあまり興味がないってことだ。


「で、その白雪サンがなんだって?」

「だから、あの魔女がくれた毒林檎。あれはすごく美味しいものなんだろうなって」


 呆れたように息をついて合わせてやると、雪菜は得意げにこんなことを言った。

 彼女が喋る度にどこかで覚えのあるようなどろりと甘い香りがする。

 それは、おそらく彼女の口の中で転がる丸い飴玉の匂い。

 甘ったるいその香りにくらりときて、俺は椅子の背もたれに肘をついた。


 白雪姫の食った毒林檎はひょっとして物凄く甘くて美味しかったんじゃないか? だなんて。

 こんなくだらない言葉を投げ合ってぼやぼやとただ徒然に過ごす教室の片隅。

 そこにはもはや俺たち以外は存在しない。他のクラスメイトの影はだいぶ前に消えていった。


 だから……。

 こんな脈略もクソもない雪菜の話を聞いてやれるのは現在俺しかいないのだ。

 全く興味の湧かない白雪姫と毒林檎がどうのこうのとかいう内容でも、他にいないというなら仕方がない。

 付き合ってやるのが人情とかいうものだろう。

 俺はあくび混じりに適当な相槌を打った。


「なんで?」

「白雪姫はいつも林檎を食べるから」


 雪菜はさらりとそう答えて瞳を伏せた。

 そして、歌でも歌うかのようにすらすらと。

 前々から用意してあったセリフを読むように、大仰に。

 また珍妙な持論を語り始めるのだった。


「白雪姫は何度読んでも何度読んでも、懲りずに毒林檎を食べるんだよ。もう懲りたでしょってぐらい繰り返し読むのに。相変わらず、飽きもしないで」


 それは暴論と呼ぶべきか……。

 いや極論? 妄言? まぁなんでもいいか。

 いやいやそもそも物語なんだから当たり前だ、とか。白雪姫が意図してやってるわけじゃない、とか。もしそうだったとしたらだいぶ食意地はったお姫様だなとか。突っ込んでやりたいことならいくらでも頭の中に浮かび上がってくる。

 それほどに極端な発言だった。


 詩的表現、といえば聞こえはいいが、そういうのに詳しくない俺からすればだいぶ捻くれた視点だなぁとしか思えない。

 とはいえ、ヘタに口を挟むのも経験上少々憚れる。あとで怒られそうだし。

 俺は半ば引き笑いになった。


「だから、相当甘い林檎なんだろうなって思ったの」


 そう言って彼女は瞳を開ける。

 黒い目が露わになって、どう? とでも問うような色をにじませるものだから、俺は適当に苦笑いを返した。


「あー……えっと、なにそれポエム?」

「違うよ、ふと思ったから言ってみただけ」


 俺のその言葉に雪菜はカラカラと笑ってみせた。

 小さな肩が小刻みに揺れる。

 俺は肘をついたまま、その様子を眺めていた。


 毒林檎が美味しすぎて病みつきになっちゃう白雪姫なんて、如何なものか。

 幼い女の子たちの憧れのヒロインによくもまあ。そんな白雪姫じゃ子供の目に晒したくもなくなってしまうじゃないか。

 俺は小さく息をつく。

 普通に考えたら毒なんて美味しくないだろうし、そもそもどんなに美味しくたって毒ならごめんだ。

 違うと思うなぁ。白雪姫は別に美味しい林檎が欲しかったワケじゃない。

 たぶん、きっと白雪姫は……


「ブッ……」

「なに?」


 唐突に吹き出した俺に、雪菜が不思議そうに首をかしげる。

 そんな彼女のことなど御構い無しに、俺は雪菜の机に突っ伏した。


「ふははは、いやなんか自分でも気持ち悪いぐらいメルヘンなこと考えたからさ、ははははっ」

「なにそれ、そんなに面白いこと考えちゃったの?」


 ひたすらに笑い続ける俺に雪菜は意地悪く口元を吊り上げた。

 いま、俺は何を考えた?

 小さな女の子か、50歩ぐらい譲って雪菜が発言するならまだわかる。


 俺はこれでも立派な男子高校生だ。そんな大でもないが小でもない男が、考えるようなことではない。

 一人で大笑いし始めた俺を眺めていた雪菜。

 その黒い瞳がすっと細まる。


「それってもしかして……。メルヘンで、物凄く乙女ティック?」

「そうそれ!」

「あははは、当ててあげよっか?」

「いーよ、当ててみて」


 俺がそう笑うと雪菜はふふんと得意げに笑みを深くした。

 俺たちの間を、秋の冷たい風が吹き抜ける。

 雪菜がすぅ、と息を吸った。


 にっと口元を釣り上げた俺とおんなじ笑みを浮かべて雪菜がビシリと人差し指を突きつける。


「白雪姫が欲しかったのは美味しい毒林檎じゃなくて、あまぁーいあまぁーい王子様の……キスでしたー! って?」

「ぶわっははは、正解正解!!」


 雪菜の言葉はそのままそのとおり、俺の考えたメルヘンな答えだった。

 さっきまで彼女の言葉をポエムだなんだと揶揄していたくせに、恥ずかしい限りである。

 ゲラゲラと笑いながら俺は雪菜の机を乱暴に叩いた。


「くっせぇ。自分で考えたんだけどくっさすぎて笑えるっ。オージサマのキス、だってさ!あはははははっ!」

「夢見る乙女って感じだね、雄大ったらかわいー」

「やめろって、くっ、ぷはっははははははっ」


 ふざけてからかってくる雪菜のせいで、そろそろ収まりどきだったというのに笑いがこみ上げてきて止まらなくなる。

 後から思い出したら大して面白くもない話なんだろうけど、なんて冷静な言葉が今の俺の頭に浮かぶはずもなく……。

 ひとりでヒーヒー言ってる俺を楽しそうに見下ろして、雪菜はふぅと息をついた。


「そっかそっか、なるほどねえ」

「?」


 要領を得ない、彼女の言葉に顔を上げる。

 すると、口元にだけ笑みを残したまま窓の外に視線をやる雪菜の姿があった。


「白雪姫って、雄大にとっては王子様のキス欲しさに毒煽っちゃうような、メンヘラなお姫様なんだなぁ……」

「あー……、そうなる?」


 別にそういうつもりで言ったわけでもないのだけど……。

 もっとロマンティックな話のつもりだったが、どうやら雪菜はまた捻くれた受け取り方をしたらしい。


「ちっちゃい子たちの夢のヒロインに向かって、酷い奴」

「いや、お前の食欲姫の方もどっこいだろ」


 うっすらとした笑いのまま、雪菜が俺の額を指で弾く。

 別段強い衝撃もなかったが反射的に「イテッ」なんて呟いて、俺は弾かれた額を片手で撫でた。

 恨めしそうにそちらに視線を送れば、雪菜はそれを微笑ましげに目を細めて見つめていた。

 その表情が、あまりに優しくて。

 でもどこか物憂げで、ドキリとする。


「まぁ、でも一番酷いのは王子様だよね」

「……? なんでまた」


 ポツリと告げた雪菜の言葉。その意図を掴みあぐねて俺は首を傾げた。

 するとカラコロと、雪菜の口の中の飴玉が小さく音を立てる。

 唇の合間からチラチラと見える白っぽいような黄色っぽいような小さなその玉を舌で玩びながら、雪菜は息をついた。


「だって白雪姫が毒林檎食べなきゃ、キスもしてくれないんだよ?」


 そう言った瞳が、俺を見ている。

 その視線と同じように、雪菜の言葉は真っ直ぐに俺に向いていた。

 ……俺へ向けられた言葉だった。


「ねぇ、酷いと思わない?」

「え……」


 机にずいっと身を乗り出すように雪菜が俺を覗き込む。

 口元にはやっぱりニコリと笑みが浮かんでいるが、その上についた黒は笑ってない。

 非難めいた色は、たしかに俺を責めている。


「もしかして、俺に言ってる?」

「あなた以外に誰がいるの、もしかしなくても雄大に言ってるんだよ」


 恐る恐る尋ねると、雪菜はいたずらが成功した子供のようにニッと笑ってみせた。

 まさかとは思ったが、どうやら間違いではないらしい。

 俺はあたふたと視線を泳がせてほおを掻いた。


「え、いや、あのさ、急すぎない? 話の流れとかが」


 白雪姫がどうとかこうとか、わけのわからないノリだけで喋っているに等しい話題が、唐突にそんな話になったのではたまらない。何か気まずいというか気恥ずかしいというか。

 その心情を表すように顔まで赤くなってやしないか、それだけが気がかりだ。

 あからさまにおろおろとする俺に雪菜は静かにたたみかける。


「急じゃない、私にとっては始めっからそう言う話」


 しっちゃかめっちゃか掻き回された頭では、『初めから』その言葉が意味することを理解するのに半秒の時間を要した。

 ……ああ、そうか。

 それに気がつくと同時に顔中に熱が集まる。


 なるほどなるほど。つまりはそういうことだったわけだ。

 白雪姫も、毒林檎も、みんなみんな。

 初めから、このためだけにあったのだ。


 酷くけちんぼな、王子様を。

 もしくは酷く奥手な、王子様を。

 追い詰めるために? 裁くために?


 いやいや、彼女の目的はそんな大層なものではない。

 ただ、どうしようもなく臆病な一人の男の尻を蹴飛ばさんがために。

 一つ催促状を送らんがために。


 それを知ってしまったら今この時二人だけの教室も、用意されたものなんじゃないかと、疑わしく思えてくる。


「ホントに?」

「嘘だと思う?」


 引き笑いになって問えば、雪菜はニコリとよそ行きの綺麗な笑みで短くそう答えた。

 もうこれで逃げられない。

 俺はどうやらこの雪菜の、……可愛い恋人の術中にはまってしまったらしい。


 彼女は、うまくはぐらかして『それ』を延期する俺にしびれを切らせたのだ。

 だから、こんな寸劇に打って出た。

 なぜって? 一応女としてハッキリスッパリ面と向かって要求するのも憚られたんじゃないか?

 ──たぶん。女のことはよくわからないから俺の憶測に過ぎないことだが……。

 まあ、とにかく俺はまんまとハメられたわけだ。


 かく言う俺も何もこんな回りくどいやり方しなくても、と正直思わないでもない。

 しかし、なにかと頑なにこの話題を避け続けていた俺自身なのだ。

 面と向かって言われていたら、たしかに話を聞いていたとは言い切れない。

 そもそもこの教室にいたかもわからない。

 ……最悪うまくはぐらかして、彼女を置いて帰っていたかもしれない。


 なんでそんなに嫌なのか、そう問われると少し困る。

 だって別に嫌なわけじゃない。

 嫌なわけがない。むしろせがまれて気分がいいぐらいだ。


 でも、心の整理がつかないというか、なんというか。とにかく俺にもいろいろあるのである。

 ……なにせこの笹原雪菜と付き合い始めたのは、ついつい最近のことだ。

 そりゃあもう、まだ季節の変わり目を越していないぐらい。

 たった一ヶ月……、ほどの、まだまだ浅すぎる関係、なわけで。


「えっと、雪菜……、俺らはまだ、」

「雄大、私はね」


 雪菜はともかく俺にはハードルが高すぎる。

 なんせ初めてできた彼女なのだ。焦りすぎて馬鹿を見るようなヘマはしたくない。俺は雪菜とこの関係をゆっくりと、じっくりと、深めていきたいと思ってる。

 だというのに、


 煮え切らない俺の言葉を遮った雪菜は、どこか含みのある笑みを浮かべた。


「今はどんなに美味しい毒林檎にも興味はないけど……」


 器用に舌の上に乗せた、黄色っぽい飴玉。

 その色に、ピンとくる。

 視線を下に落とせば指で畳まれた包装紙の色は赤い色をしているではないか。

 ああ、だからきっとそれはあの果実の味がするんだ……。


「甘い毒林檎なら、食べちゃうかもしれないよ?」


 ねえ王子様? そう雪菜が悪戯な笑みを浮かべる。


 そんなところまで用意されていたのか、俺は苦笑いになる。

 綿密に練られた可愛らしい計画。

 ここまでされたんじゃ白旗を上げるほかにないんじゃないか?

 そんな淡い思いが心臓を刺激した。


 開きっぱなしの窓。

 そこから忍び込んだ木枯らしが、雪菜の艶やかな黒髪を揺らす。

 瞬間ぶわりと広がる髪。必然的に露わになる首筋。

 その一瞬が、ダメだった。


 西日の黄金の光が彼女の白い肌を一層に引き立てて、柔らかそうな髪が風になびく。

 その黒が流れた先に、ポツリと浮かび上がった唇。

 挑発的に弧を描くその色に目を奪われてしまって……。


 なんだか一枚の絵を見ているような気分になる。

 絵、とは言っても美術館とかに飾られている絵画とは違う。

 もっと手の届く……、身近なもの。


 たとえば、ほら記憶の片隅に残るあの絵本のヒロインだとか。そんなものに、よく似ていた。

 つまり何が言いたいかというと、思わず見とれてしまうぐらい、綺麗、で……。

 今彼女が発するどこか小洒落た詩のような雰囲気を持った言葉と相まって、詩情的だとさえ思った。


 それに……、その完璧に作られた空間に俺の声を添えてしまうのは、少々無粋な気がしてしまって。

 俺は黙りこくったまま、その光景に見惚れていた。

 そんな俺を雪菜は何が面白いのかじぃっと見ている。

 穏やかな、笑顔を浮かべて。


 真正面にその顔があるせいだろう、むわりと強くなった甘い香りが頭をぐらつかせる。

 ちょんっと鼻先に触れた人差し指が。

 俺を覗き込む真っ黒な瞳が。

 どくどくとうるさい心臓が。

 そのどれもがこぞって俺の二の句を奪ってくものだから……、俺はただ生唾を飲み込むぐらいのことしかできない。

 できないのに。


 熱っぽい瞳が、俺を見ている。


「……困ったなぁ」


 ようやく出たのは掠れきったあんまりにも間抜けな声。

 その情けないこと情けないこと……。

 俺は弱り切って頭を掻いた。



 木枯らしの吹く、季節。

 雪が積もる頃には、まだ遠い……。そんな秋の日のこと。


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スノーホワイトはもう一度と言った 通行人C「左目が疼く…!」 @kitunewarasi

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