夕餉

 夕暮れ時のオレンジが街を包む。夏芽は、綺堂と共に異世界の街はずれを歩いていた。ここに屋台は並んでいない。静かだ。遠くで太鼓の音が聞こえる。

「たかね、先生と別れちゃったみたいです」

 夏芽は言った。綺堂は頷く。

「それが、彼らの為だろう」

 いつものように扇子を開くと、ふわり、と顔を煽いだ。

「十年前、若干二十歳の少年、平沢利夫は、偶然この異世界に迷い込んだ。当時大学生で、古典や民俗学に知識が深かった彼は、妖怪を恐れることなく、人間でありながら気さくに妖怪たちに接していたそうだ。人間を驚かせるのが妖怪なのだから、妖怪たちは最初は残念がってね。しかし、その内、平沢利夫の人柄に触れ、皆彼になつくようになった。人喰い女の優子もその一人だ。いや、特に優子は、平沢利夫に、特別な感情を抱いていたようだ」

「特別な感情?」

「まあ、恋ってやつだね」

「優子さんが、恋!」

「あいつが人間世界を去り、この世界でひっそりと暮らしているのは、数百年前、ある人間から人を喰らう事の醜さを説かれたからだと言っていただろう?それだけでは無い。優子は、その人間に恋してしまったんだよ。だから、死人と言えど、人間を喰らうことが出来なくなった。故に使い物にならなくなり、こちらの世界に来たんだ。奴が平沢利夫と出会った時も、同じ感情に陥ったのだろう。若しくは、平沢利夫が、その“想い人”に、似ていたのかもしれない。手紙によればだが、平沢利夫も、奴の事を想っていたようだ。だから“またいつか、あなたに会えたら、私は幸せです”と手紙を残して、去っていったんだよ。奴にもう一度会える日を夢見てね」

 綺堂は手紙を差し出して、夏芽に見せた。

「最初から夏芽さんに見せていれば、要らぬ勘違いを起させなかったのだが……申し訳なかった」

 そこには、綺堂が見せてくれた古本にあった様なくずし字が、すらすらと書かれていた。

「こんな文字、十年前だったら七歳の子供が、書ける筈ないものな」

 くずし字で書かれた文章の横に、名前が記されていた。なんとなく、平沢利夫、と書かれているのがわかった。

「私、“青”の話聞いて、それでたかねを疑っちゃったんです。親友なのに、馬鹿ですよね」

「いや、馬鹿なのは僕の方だ。“アオ”がブルーだと思い込んでいたこと、そして、この手紙を君に見せなかったこと。平沢利夫が、担任の教師が犯人だと知ったら君がショックを受けてしまうと思って、言い出せなかったんだ。今思えば、言っておくべきだった。どうせ、分かることなのだからね」

 綺堂は手紙をしまった。

「でもどうして、平沢先生は人を食べるようになったんでしょうか。優子さんは、もう人は食べないのに」

「夏芽さんは、好きな人の全てを知りたいと思うかい?」

 突然綺堂は言った。

「え、いや、そりゃあ、ちょっとは知りたいですけど」

「平沢利夫も同じさ。愛する優子の事を、知りたいと思った。そして、調べたんだ、僕がしたのと同じように、人喰い女について。調べている内に、次第に興味が湧いたんだろう、人肉とはどんな味なのか、あの美しい優子が食べていたくらいだ、さぞ美味いに違いないだろう、とね。しかし、奴はそれを心の内に閉じ込めた。人肉を喰らうなんていかれている。正常な脳味噌が、彼にそう言ったんだよ。そして彼には新しい恋人、唐沢たかねが出来た。人喰い女の事を、次第に忘れて行った。ところが、あの日、お偉い方の集まりに“惑わされて”、再びこの世界に紛れ込んでしまった。そして、二人は再会してしまった。お互いに忘れかけていたのに、ね。出会ってはいけない二人が、再び会ってしまったことで、人間世界の秩序が乱れた。平沢利夫は優子を見て、思い出してしまったんだ、人肉を食したいと思ってしまった過去の事を。以前言ったね、人間は脳味噌の十パーセントしか使っていない。平沢利夫は、十一パーセント目に閉じ込めておいた人肉への欲望を、呼び覚ましてしまった。人喰い女への“愛”を、“人喰いの欲望”として、復活させてしまったんだよ」



―――シビトクライ、シビトクライシトコロ、ミシモノ、シビトクラワザレバ、ナラヌ、トキク。



「優子さんは、悪くないですよね」

 夏芽は小さな声で、呟くように言った。

「勿論だ」

 綺堂は即答した。

「妖怪は人間によって作り出された。人喰い女を見て、恐ろしさを感じたり、人を喰らいたくなるのは、作り出した本人たちの勝手だ。人喰い女が望まなくても、人間が望めば、そうなる。人喰い女は、ただそこに居て、“生きている”だけだ」

「優子さん、傷ついてますよね、きっと」

「ああ、そうだろう。だが、奴は最後まで、平沢利夫を、愛する男を守ろうとした。罪を暴くことでだ。これは同じ妖怪界に住むものとして、誇りに思う。奴はよくやった。自分の出来ることを、最大限にね」

「お人よしですもんね」

「ああ」

 綺堂は微笑んだ。

「人喰い女は、お人よしだからな」

 夏芽も笑った。

 風が吹く。

 綺堂はこほん、と咳込んで、

「夏芽さん、ところで、この前人喰い女が言っていたことだが」

「何か言ってましたか」

「僕と、結婚するか、しないか、という話だ」

「え!そんな話、しましたっけ」

「覚えていないのか。僕は結構傷ついたというのに」

 綺堂は態と項垂れてみせた。思い返してみれば、確かに、言ったかも、しれない。

「そんな、あれは、ほらだって、私高校生だし」

 綺堂は笑った。

「そうか、そんな理由か。夏芽さんも人が悪い。そうだね、君はまだ高校生だからね、大丈夫だ、僕はいつまでも待つつもりでいるよ、安心したまえ」

「はい。って、え?」

「何かおかしなことでも言ったかな」

 夏芽が抗議しようとしたとき、

「旦那あ!夏芽姉さん!」

 辰之助が賑やかな祭り街道から抜けて駆けてくるのが見えた。

「酷いですぜい、二人でぬけがけなんて。あっしにも教えてくださあ、事件の話」

「ああ、五月蝿い奴が来た。しかもまた邪魔をされた。お前は空気を台無しにする。排気ガスと一緒だ」

「そんなあ、酷いでさあ」

 辰之助は涙目で言った。夏芽はほっとしたような、少し惜しい様な気もしながら、

「辰之助くん、久しぶり。会いたかったよ」

と笑った。

「夏芽姉さんは優しいでさあ」

 辰之助はうれしそうだった。

 その時、祭り街道を、すうっと、派手な着物姿が通った気がした。

「あっ」



『青い、髪飾り』



「綺堂さん」

 夏芽は思い出したように言った。

「私がたかねを犯人なんじゃないかって思ったのは、綺堂さんの所為じゃないです」

「どういうことだい?」

「あの日、帰り道、お祭りの道で変な人に会って……その人に言われたんです。『青い、髪飾り』って。青いものを身に着けてるってだけだったら、私、たかねが犯人だって思わなかったと思います。あの人に、『髪飾り』って言われたから、それで……」

「それは、妖怪か?」

 綺堂は腕を組んだ。

「わかりません。見た目は人間でしたけど。長髪で、顔の片方を包帯でぐるぐる巻きにしていて、すっごく派手な着物を着てる男の人でした。なんか、怖い目をしてたな、今思えば、ですけど」

「成る程、夏芽さんはそいつに、誤った情報を吹き込まれたわけだ。つまりそいつは、僕と同じ能力を持っている、ということになる」

「綺堂さんの能力?って、あの、青い光の奴ですか」

「いや、僕の能力は、少し先の未来を見ることが出来る、能力だよ」

「あの青い光は?」

「あれはオマケだ。因みに、先の未来を見ることが出来る能力を“先詠み”と言ってね、半妖半人ならだれでも持っている能力だ」

「じゃあ、つまりその人も、綺堂さんと同じ?」

「妖怪と人間の間の子ということになる」

 綺堂は顔をしかめた。

「あの時の“嫌な予感”というのは、これだったのか……」

「綺堂さん、その人の事は詠めなかったんですか?」

「ああ。何故だろうか。不思議だ。だが、そいつが“ヨカラヌモノ”だということだけは分かる」

 扇子を広げる。

「今後の人間世界に影響しなければいいが……」

「旦那あ、姉さん」

 辰之助が綺堂の袖を引っ張った。

「あっし、腹が減ったでさあ」

 そう言えば、夏芽も朝から何も食べていなかった。

「そうだな。ぎょろ眼は屋台で、まあ、好きなものを買ってやろう。夏芽さんは、そろそろ家に帰ると良い」

 日が変わる刻が近づいているようだ。

「分かりました」


 祭り街道を歩く。綺堂に買ってもらった綿飴を頬張りながら、夏芽は微笑む。三つの影が並んで、夕焼けの元に伸びる。

「この世界にも、夕焼けがあるんですね」

「不思議だろう。太陽は無いのに、偶にこうやって、夕焼けの様なオレンジが差すんだ。謎は解明されていない。僕の宿題さ」

 綺堂が言う。

「奇妙だけど素敵」

 夏芽はオレンジの光に包まれながら、呟くように言った。綺堂はそれを見て微笑む。それからはっとしたように、夏芽は言った。

「そういえば綺堂さん、どうして私の名前、知ってたんですか?確か自己紹介もしてなかったのに」

「ああ、それは、僕にもわからないんだ」

「え?」

「ただ、君には昔、会った事があるような気がしてね」

「それだけで名前を思いついたんですか?」

「なんとなく、覚えていたみたいだ、僕の脳味噌の、十一パーセント目がね」

「それこそ、この世の奇妙じゃないですか」

「はは、全くだ」

 綺堂は笑った。それから続けて、

「夏芽さん、君の世界では、そろそろ、夏休み、というものに入るんじゃないかい?」

「あ、はい、そうですね。私部活も入ってないんで、長期休暇ってヒマで、苦手なんですよね」

「じゃあ、毎日こっちに遊びに来ればいいじゃないですかい」

 辰之助が目を輝かせた。

「うん。毎日……は無理かもしれないけど、でも頻繁に来ちゃうかも。遊んでね」

「待っているよ、夏芽さん。それに、忘れないでほしい、僕たちは住んでいる世界が違うけれど、いつでも君のそばにいる。何かあったら、必ず駆けつけるよ」

「ありがとうございます、綺堂さん。綺堂さんがそばにいてくれるんなら、私、何でもがんばれちゃう気がします」

「姉さん、姉さん、あっしを忘れてやす」

 辰之助が自分を指さしながら言った。

「勿論、辰之助くんも」

 夏芽が言うと、辰之助は満足そうに笑った。

「それじゃあ、夏芽さん、日が変わらない内に、帰りたまえ。お父さんとお母さんも心配するだろうからね」

 綺堂は夏芽の肩に手を置いて言った。

「はい。じゃあ、今日はこれで」

「次来るときは、僕の家に泊まっていくと良い。ご両親に許可が取れたらの話だけれどね」

「わあ、それ素敵。辰之助くんも一緒に、ね」

 夏芽がそういうと、綺堂は少し不服そうに眉を寄せた。

「まあ、ぎょろ眼がいた方が、夏芽さんも退屈しないだろう」

「やったあ、旦那あ、感謝しやすぜ」

「それじゃ、ふたりとも、またね」

 夏芽は手を振ると、トンネルに足を踏み出した。決して振り返ってはいけない、薄暗いトンネルである。

「気をつけて帰りたまえ。それと、ご両親には、もう挨拶してあるからね」

 綺堂の声が後ろから聞こえた。綺堂さんたら、最後まで声をかけてくれるなんて、優しいんだから……。

 暫く歩いてトンネルを抜けてから、夏芽ははっとして振り返った。

「ご、ご両親に、あ、挨拶って……」

 しかし、そこに在るのは、赤紫に染まったただの空間だけであった。

 近くの民家から、味噌汁の良い臭いが漂ってくる。夏芽は自分の腹がぐう、と鳴るのを聞いた。先程、綿飴を食べたばかりだというのに、おかしな話だ。

 まあ、いいか。

―――今日の夕食は何かな。

 夏芽は静かな期待を胸に、帰路についた。








夕餉……夕食の意味を表す古語。現在はあまり使われていない。

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夕餉(綺堂談義其の一) 篠田 悠 @deco10mame

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