六、

 見慣れた景色、見慣れた窓、見慣れた机、見慣れた黒板。母も通ったこの高校に、夏芽は愛情さえ抱いていた。街の丘の上に位置するこの場所から眺める景色は、まさに絶景である。趣のある街並みや、駅の向こう側の林檎並木。さらに向こうの、頂点がまだ白い山々まで、この地域すべてを一望できる。

 夏芽は窓に手を当てて、深く息を吸った。これから起こる、いや、自ら起こす出来事は、きっと今まであった、そしてこれからあるだろう、どんな出来事よりも、辛いに違いない。

 教室のドアが静かに開くのがわかる。しかし夏芽は、それに気付かないふりをして、窓の外を見続けた。最後くらい、いつものように、笑顔でたかねと会いたい。夏芽は唇を噛んで、涙で晴れた目をなんとか乾かそうと、何度も瞬きをしていた。

「わっ」

 後ろから、たかねの手が夏芽の肩をがっしりと掴む。夏芽は態と大げさに驚いてみせた。たかねが笑う。

「夏芽ったら、大げさすぎ!」

 暫く、二人の笑い声が、静かな教室に響き続けた。平日だというのに、学校からは二人の声しかしない。かの恐ろしい殺人事件が、この場所から生徒たちを奪ったことは明確だった。

「ねえ、たかね」

 夏芽は静かに言った。

「何よ、夏芽、顔が怖いよ」

「私、犯人、分かったの」

 夏芽はもう一度、諭すように言った。

「犯人、分かっちゃったの」

 たかねは、夏芽の目を見ると、悲しそうに微笑んだ。

「そっか、分かっちゃったか」

 たかねはブルーの髪飾りに触りながら、窓ガラスにもたれ掛かった。

「私、嘘、下手だったかな」

「ううん、上手だったよ」

 夏芽は下を向いた。

「私が、綺堂さんに会わなかったら、きっと、気付かなかった」

「その綺堂さんって人が、夏芽の言ってた好きな人?」

「す、好きとかそういうんじゃないよ、ていうか」

 少し間を置いて、

「今は、そういう話じゃないでしょ」

「そうだね」

 たかねは微笑した。

「何処から、気付いてた?いつ、わかったの?」

「分かったのは、今日。ほんの、さっき」

「なんで、分かっちゃった?」

「その、ブルーの髪飾り」

「え?これ?」

 たかねは驚いた声で言った。夏芽は続ける。

「“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”人喰い女はね、青が苦手なの。何でかってそれは、大好きな血の色と反対の色だから。“人喰い惨殺通り魔事件”の犯人はね、罪悪感を持って犯行に及んでる。だから、麻奈ちゃんを襲った時、逃げなかったんだよね、たかね。青色が、自分の犯行を防いでくれるって、そう思って、その髪飾り、つけてたんだね。でも、もう手遅れだった。たかねの心は、真赤に蝕まれてたんだ」

「夏芽、何言ってんの」

 たかねは暗い声で言った。

「あたし、やってないよ」

「たかね、そう思いたいのは分かるけど」

「違うの、夏芽、本当にやってないの」

 たかねは夏芽の目を見た。

「もしかして夏芽、勘違いして、それで私をここに?だとしたら、やばいよ、どうしよう、逃げなきゃ」

 たかねは突然慌てだした。

「たかね、違うって、どういう事?たかね、もしかして、犯人、知ってるんじゃ……」

 ガタン。

 突然、教室のドアが音を立てて開いた。夏芽とたかねは同時に目を向ける。立っていたのは、担任の平沢利夫だった。

「利やん……」

「なんだ、先生か、脅かさないでくださいよ」

 平沢利夫は目を細めた。

「君たち、今日は学校は休みだよ。物騒な事件が起きている最中なんだから、こんな危ない所に来ちゃダメだろ」

「利やん!」

 たかねが夏芽の前に出た。

「今すぐ、今すぐ帰るから、ね、何でもないから、利やん、ほら、これ」

 たかねは首元のエメラルドを持ち上げてみせた。

「落ち着いて?利やん」

「たかね、退きなさい。先生の言いつけを守れない生徒には、罰則を与えないといけないんだ」

 平沢利夫の右手がきらりと光った。大きな裁ちばさみが握られていた。

「たかね、もしかして、犯人って……」







「おう、旦那あ、今日も包帯が一段と色っぽいねえ」

 タバコ屋の親父が言う。

「うっせえ、じじい。それよりいつものちょーだい」

「へい、葉巻」

「ありがとねえ」

「そういや、噂で聞いたけどよ、あっちの世界じゃ、物騒な事件が起きてんだって?なんだって言ったっけか」

「ああ、バラバラにして人喰う事件だね」

「人が人喰うなんて、気色悪い話だねえ」

「俺ら妖怪に言えたこっちゃねえや」

「そりゃそうだけど、俺たちゃ、妖怪同士で食い合いはしないさ」

「確かにねえ」

「妖怪世界も、人間世界も、平和が一番だ」

 派手な着物で長髪、右顔面に包帯を巻いた男は、ふう、と葉巻をふかした。

「いや、残念だが俺あ退屈が一番嫌いでねえ」

「退屈?」

「今日一粒種を蒔いてきちまったよ」

 くくくく、と不気味に笑う。

「既に三人、食われたらしいけど」

 もう一度葉巻をふかすと、愉快そうに言った。

「今日、もう一人、死ぬよ」







 久々の人間世界は、明るすぎて性に合わない。綺堂は目を細めた。自動車の走行音、繁華街のざわめき。妖怪世界の祭りと然程変わりがない。人間世界に住むのも悪くないと思った時期もあったが、こんなに空気が悪く、明るく、しかも五月蝿い世界では、三日と持たず死んでしまうだろう、と綺堂は思った。

 道を進もうとすると、隣にいた老人が、慌てて綺堂を止めた。

「お兄さん、信号が赤ですよ」

 そうか、この世界には信号機というものがあるのだった。

「すまない、感謝する」

 危うく命を失うところだった。綺堂は老人に礼を言うと、老人はにっこりと笑って、

「この信号、なかなか青にならんので有名なんです。通学する高校生たちはね、この信号を渡れるか渡れないかで、遅刻するかしないかが決まるんですよ。まあ、今は、そんな高校生たちも家に籠ってしまって、老人しかいない寂しい街になってしまいました。あんな、恐ろしい事件が起きるもんだから。怖いですな、世の中、何があるかわかりません」

 老人が言い終えたところで、信号が“青”になった。それを見て、綺堂ははっとした。自分は、なんという単純な“ミス”を犯していたのだろうか。ずっと頭に引っ掛かっていたのは、このことだったのか。夏芽の安否が妙に心配だったのは、この所為だったのだ。

 綺堂は駆け出した。夏芽はきっと、あそこにいる。そして今、恐ろしい事態に陥っているに違いない……。

―――間に合ってくれ。

 綺堂は願った。







「利やん!目を覚まして!」

 たかねが叫ぶ。

「夏芽にだけは、手を出さないで!」

「たかね、もしかして、人喰い事件の犯人って……」

 たかねは震えながら小さく頷いた。

「利やんなの。人を殺して、食べるのは、でも、病気の所為なの。利やんは病気なの。だから悪くないの。でも!」

 たかねは両手を広げた。

「夏芽にだけは、絶対に手を出させない!親友だもの、分かって、利やん」

「たかね、愛しているよ。でもだめだ、悪い生徒には罰を下さなければならない。それに今、とってもお腹が空いているんだ。たかね、退いておくれ、僕に、その美味しそうな餌を、おくれ」

「夏芽逃げて!」

 たかねは夏芽の背を押して、廊下へ突き出した。

「た、たかね……」

 恐怖と驚愕のあまり、夏芽は逃げ出せない。

「バカ!早く!走って!」

 言われて夏芽は駆け出した。後ろから、平沢利夫の重低音が聞こえる。

―――そんな……!先生だったなんて!

 夏芽は廊下の突き当たりまで走ると、階段を駆け上がった。それから目の前の科学室を開けて、何処か隠れられる場所は無いか、と探した。目についたのは掃除ロッカーだった。

―――あそこだ!

 夏芽はロッカーに入り込むと、扉を閉めた。足音が近づいてくる。階段を上がって、廊下を進んで行くようだ。

「人はあ、どこだあ……」

 平沢利夫の声がする。いつもの優しい“先生”の声では無い。妖怪だ。“人喰い女”だ。

「臭いがする……人の、臭いがする……」

 教室のドアが開いたのが分かった。夏芽は身を凍らせた。

―――人の臭いがわかるの!

 夏芽はできるだけ息が漏れないように、鼻と口を手で覆った。息をひそめる。妖怪の気配が遠のいていく。



―――見つけた―――



ガタン。



 ロッカーの扉を破って、夏芽の目の前に、裁ちばさみの刃が突き立てられていた。夏芽は恐怖で声も出ない。ゆっくりとロッカーが開く。平沢利夫が立っていた。じゅるり、と舌なめずりをする。

「ああ、良い臭いだ。若い女は格段に美味い。今日は邪魔が入らない。ゆっくりと完食できそうだ」

「せ……先生……」

 のどが詰まったように声が出ない。平沢利夫は裁ちばさみを夏芽に向けて振り上げた。夏芽は目を閉じる。おわりだ……。

 その時、

「夏芽!」

たかねの声がして、それからがさり、と音がした。恐る恐る目を開ける。夏芽の足元で、たかねが血まみれで横たわっていた。

「たかね!」

「たかね!」

 夏芽が叫ぶのとほぼ同時に、平沢利夫が叫んだ。

「ああ、たかね、たかね、許しておくれ」

 たかねの腹部に、裁ちばさみが突き刺さっていた。平沢利夫はたかねを大事そうに抱きかかえると、何度も名前を呼んで、揺さぶった。

「たかね!すまない、すまなかった、目を、目を開けてくれ……」

 たかねは目を開かない。腹部から、血が溢れだす。

「ああ、どうしよう、血が止まらない……」

 平沢利夫は焦った様子で、両手に顔を埋めた。

「たかねが、死んでしまう……私の所為で……いや……」

 平沢利夫は振り返ると、瞳孔の開いた目で夏芽を見た。

「全部、お前の所為だ!」

 たかねの腹部から裁ちばさみを抜くと、平沢利夫は再び夏芽に向かって襲いかかってきた。夏芽は避けながら、早くこの状況を打破して、救急車を呼ばなければいけない、と思った。

「先生、目を覚まして!」

「五月蝿い。私は最初から目を覚ましている。寧ろ今日は冴えている方だ」

「先生は、たかねを刺したんですよ」

「違う!お前の所為だ!」

「人の所為にしないで!ちゃんと現実を見て!先生はたかねを……愛してるんでしょ?たかねを見なさいよ!血があんなに出てる!先生が刺したんだよ!」

「五月蝿い五月蝿い!だまれだまれ!」

「早く救急車呼ばないと、たかね、死んじゃうよ!愛する人が死んでもいいの?ねえ、平沢先生!」

 そう言った直後、夏芽は椅子に躓いて転んでしまった。しめた、というように、平沢利夫が迫る。

「追いかけっこは、終わりにしよう、夜崎さん」

 冷たい声だ。夏芽は死を覚悟しながら、言った。

「先生、優子さんに会ったんだね?波奈野目優子、通称、人喰い女。優子さん、先生の事、覚えてたよ」

「……」

 平沢利夫は動きを止めた。

「先生がこんなことをしてしまっているのは、自分の所為だって、責めてたよ」

 静かな空気が、辺りに広がる。

「優子さんはね、確かにとても魅力的な人。先生が魅了されるのも、わかるし、先生も、魅力的な人、だから優子さん、先生のこと忘れずに、ずっと待ってたんだと思うよ。でもね、今は違うでしょ?たかねがいるでしょ?こっちの世界に、守るべきものが出来たでしょ?だから、先生、目を覚まして」

 悪魔の目から涙がこぼれた。

「もう、遅い」

 平沢利夫は、裁ちばさみを大きく振り上げた。

「もう遅いんだ―――――――――!」

 夏芽は目を閉じた。しかし、いつまでたっても衝撃は襲ってこない。夏芽は恐る恐る目を開ける。目の前には、紺の着物に黒髪。綺堂壱紀が立っていた。

「綺堂さん!」

 涙がこぼれた。もうだめかと思った。生きている。夏芽は震える自分を抱きしめた。

「待たせたね、夏芽さん。怖い思いをさせてすまなかった」

「邪魔をするな」

 平沢利夫は再び腕に力をこめようとする。しかし、綺堂の力で止められて、一寸たりとも動かない。よく見ると、綺堂の左腕から青色の光が放たれていた。綺堂の言っていた“妖力”とは、このことだったのか。

「僕の“大切な夏芽さん”に傷を負わせようとするとは、君もなかなか頭がおかしいらしい。教師というのはみんなそうなのかな?挙句、自分の恋人にまで傷を負わせて、全く、情けない男だ、平沢利夫」

「だまれだまれだまれ!」

 平沢利夫が怒鳴った。

「お前に、僕の何がわかる!」

「分かるさ、全て見える。君が恋人の唐沢たかねにプレゼントした、あの首飾り、エメラルドという宝石がはめられているね。何故エメラルドなのか。それは、たかねくんの前で正気を失ってしまった時に、元に戻る為だ。僕はね、“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”のアオを、ブルーの事だと勘違いしていた。夏芽さんもきっとそうだ。だから唐沢たかねを、この学校に呼んだのだろう。だが、日本人は昔、緑の事を“アオ”と呼んでいたんだ。人喰い女から、人を救う色、それはブルーでは無く、緑だったのだよ」

 平沢利夫の歯ぎしりが聞こえる。

「本当は、止めたかったのだろう。だから君は、恋人に、エメラルドをプレゼントした」

 綺堂の身体から緑色の光が発された。閃光の如く、グリーンの光が強く瞬く。

「君は、人間だ」

 石はわずかに光を放った。

「帰ってこい、平沢利夫」

 からん。

 裁ちばさみが落下する音が教室に響いた。それから少し遅れて、平沢はその場に崩れ落ちた。弱弱しい、ただの人間がそこに居た。

「……先生……」

 平沢は両手で顔を覆った。

「すまない、すまない……本当は……本当はやめたかった。やめたくてやめたくて、でもそれでも、知らない内に身体が動いていたんだ。どうしようもなかった。どうすることもできなかった……」

 平沢の嗚咽が響いた。綺堂はそれを、先程とは違った冷ややかな目で見降ろしていた。

「言えばいい、いつまでも、すまないと、言いつづけるがいい。泣けばいい、いつまでも、泣き続ければいい。それで死人が帰ってくるというのならば、それでお前の恋人の傷が癒えるというのなら、お前を待ち続け、思い続けた優子の心が癒えるというのなら、いつまでも、そうして泣いていろ。お前は過ちを犯したんだ。もう二度と、取り返しのつかない過ちを」



 平沢利夫は、人間に戻った。



 綺堂は振り返ると、立ち上がれないでいる夏芽に手を差し伸べた。

「さあ、夏芽さんの親友を救わないとね」




 その後、平沢利夫はそのまま、殺人未遂罪で現行犯逮捕された。たかねはすぐさま病院に搬送され、どうやら傷も浅く、幸い大したことは無いようだった。心に負った、闇のように深い傷に比べれば。







 佐々木麻奈が殺害された日、たかねはバスに乗って、そのまま帰宅することはしなかった。たかねは隣町、旭町に住む恋人、平沢利夫に会いに行く予定であったからだ。

 たかねと平沢利夫が付き合い始めて、丁度一年目である今日を祝おうと、二人は以前から会う約束をしていた。

 教師と生徒の禁じられた愛。色物語のように聞こえるが、二人の愛は、愛というよりも恋、純愛だった。

 待ち合わせ場所は、旭町の中央公園。去年の夏、二人で人目を凌ぎながら、子供のようにブランコに揺られて遊んだのを思い出す。たかねに無理やりブランコを押されて笑う平沢利夫は、まるで子供の様だった。

 三時を知らせる鐘が鳴ったころだろうか、たかねは時計を見て、それにしても平沢利夫の到着が遅いことに疑問を感じた。メールはしながらだが、遅れる、遅れる、と彼是一時間は待っている。物騒な事件が起きている最中であるし、ただでさえ心配性の平沢利夫が、こんな時間までたかねを待たせるなんて不思議だ。単純な脳味噌しか持たないたかねでさえも、違和感を覚えずにはいられなかった。

 その時、けたたましい悲鳴にたかねは振り向いた。思わず身を固める。ただ事では無い、異常を知らせる悲鳴だった。

 まるで、断末魔の叫びの様な。

 たかねは辺りを見回し、悲鳴の発生源を探した。しかし、悲鳴は常軌を逸していたにもかかわらず、一度しか上がらなかった。もがくような音も、叫びまわるような音も聞こえない。

―――なんだろう……嫌な予感。

 “人喰い惨殺通り魔事件”が頭をよぎる。今から思い返してみれば、事件現場は二回とも、この付近である……。

 たかねは恐怖に怯えた。

―――利やん、早く来て!

 ぐちゃり、ぐちゃり……。

 背後で、不気味な音がするのが聞こえた。たかねは再び、身を固める。動くことが出来ない。冷や汗が滝のように流れ落ちる。たかねは恐怖に耐えながら、ゆっくりと振り向いた。花壇の物陰に、誰かいる。あの後ろ姿は……。

「利やん?」

 近づいて、平沢利夫だと確信した。緑色の背広、幅狭の肩。

「利やんだ」

 どうしたの、と言おうとして、たかねは立ち止まり口に手を当てた。平沢利夫は、とある女生徒に縋って泣いているようだった。顔に見覚えがあった。二組の、佐々木麻奈だ。

―――麻奈ちゃん!

「まさか、麻奈ちゃん!やばいじゃん!警察に、警察に連絡しなきゃ……」

 平沢利夫が振り向いた。その顔を見て、たかねは言葉を失った。

 平沢利夫の口元は、血で真っ赤に染まっていた。

 泣いているのだと思ったのだ。通り魔に襲われた女生徒を助けようとして、女生徒に縋っているのだと思ったのだ。違った。平沢利夫は再び、まだうめき声を上げている女生徒に向き直ると、首元にくらいついて肉を引きちぎった。佐々木麻奈は痙攣していた。白目をむいている。たかねは恐怖に、ただ立ちすくむことしかできなかった。

 暫くの間、誰も居ない公園に、平沢利夫の咀嚼音が響いていた。

 ぐちゃり、ぐちゃり……。

 不意に嗚咽がこみあげてくる。たかねは我慢できず、その場で吐いた。同時に、堪えきれずに涙があふれ出た。悪魔と化した平沢利夫を見ている事しかできない自分が、辛くて仕方がなかった。

「……っこれは!」

 突然、平沢利夫は正気を取り戻したかのように、飛びのいた。まだ痙攣を続ける佐々木麻奈。平沢利夫は、動転していた。

「どうしよう、僕はまた、人を食べてしまったのか……!」

「……利やん、もしかして、無意識に、食べてたの?」

 平沢利夫はたかねを見た。顔中血まみれだった。目からは滝のように涙が流れていた。

「僕は……僕は……」

 愛する人が、泣いている。たかねはしゃがみこみ、平沢利夫を抱きしめた。

「大丈夫、大丈夫よ、利やんは、悪くないからね」

「僕は……悪魔なんだ……悪魔だ……」

「違うよ。利やんは、人間だよ。もうこんなことしないよね。たかねが見ててあげる。だから、もう大丈夫」

 たかねは自分でも驚くくらいに冷静だった。スクールバッグからハンカチを取り出すと、

「ほら、口拭いて、誰にも見られないように、逃げて。あとは、私が何とかするから」

「……たかね」

「いいから、早く!誰か来る前に、早く!」

 平沢利夫は顔を拭うと、それをたかねに返し、そのまま走って逃げた。たかねはそれを見送ると、佐々木麻奈に駆け寄る。

「麻奈ちゃん、大丈夫?しっかりして!」

 平沢利夫が顔を拭いたハンカチで、麻奈の傷口を押さえる。佐々木麻奈は、最早意識もなく、ただ痙攣するだけだった。たかねは慌てて携帯電話を取り出し、通報する。

「ひとが、襲われて……」

 その時初めて、自分が血だまりの中にいるのだと悟った。佐々木麻奈から溢れる血液は、留まることなく流れ続ける。地面を覆い尽くす。たかねを、血の色に染めていく……。


 警察が来て、救急車も到着したころにはすでに、佐々木麻奈は息を引き取っていた。幸せの中死ねなかったこと、恐怖に苦しみながら死んでいったことを思うと、居た堪れなかった。しかし、たかねには重大な使命があった。それは、愛する恋人、平沢利夫を守ることである。警察に嘘を吐くことしか出来なかった。犯人は見ていない、そう証言することしかできなかった。

『人喰い女』

 夏芽の声が脳裏を過った。この悲しくも恐ろしい事件を、妖怪の所為に出来たらどんなにか楽だろうか。

 無意識のうちに、たかねは夏芽の携帯電話に電話していた。

「私、見ちゃったの」

『何を?』

「……人喰い女」

 たかねは血まみれの自分を抱きしめた。平沢利夫を、今すぐにでも、抱きしめてやりたかった。でも、できない。だからその代わりに、きつく、きつく、自分を抱きしめた。

 どうしても、守りたかった。

 愛するものを、守りたかった―――。




 血に濡れたエメラルドが、きらり、と光った。







「ちっ」

 長い髪をかきあげて、男は舌打ちした。

「旦那、どうしたんで」

 機嫌が悪そうに葉巻をふかす着物男は、

「折角俺が結んだ糸を、誰かが引っぺがしやがったみたいでねえ」

「へえ、糸かい」

「人間ってのは、儚ねえもんよ。ちいっと手を加えてやりゃあ、面白い方に転がっていく。ころころころころと、俺の好きな方にねえ」

「妖怪はちがうのかい」

「妖怪ってのは、秩序通りに動いてる。あいつらを動かすのは難しい。秩序や規律に反したことは、金出してお願いしたって断られるのがオチよ」

「へえ、旦那は、こっちにいるってことは妖怪ってことですもんね。人間を転がすのが専門の妖怪なんですかい」

「俺あ単なる妖怪じゃねえんだね」

「へえ、半妖半人、ってやつですかい」

「近いが、違うな。人間の肉体に、妖怪の能力が詰まりに詰まっちまって」

 男はゆっくりと包帯をはがした。隠していた顔半分は爛れ、まぶたが無かった。

「ここにこうやって、溢れちまった」

煙草屋の親父は、自分も妖怪だからそんな見た目の事は気にもしない。いつものように笑いながら、

「へえ、そうですかい。生身の人間なのに、芯は妖怪ってのは、半妖半人とはまた違って、面白い種類ですな」

「親父、さっきから言ってる、半妖半人ってのは、ほんとにいんの」

「そりゃあ、居ますよ」

「ほう、何人居るの」

「大勢いますが、名前を知ってるのは一人ですね」

「誰だ、名前を言ってみてよ」

「綺堂壱紀っていう旦那でね、人間と妖怪の間の子なんでい」

「綺堂壱紀」

「近くに住んでやすぜい、もしかしたら似た者同士、気が合うかもしれませんね」

「いや、それはない。そいつの事は、そいつが生まれた時から知っているけど」

―――最悪な男だよ―――

「そんなことありやせんぜ。祭りや賑やかなのは嫌いだが、頼み事は聞いてくれるし、頭は切れるし、気前のいい……」

 振り向くと、そこには葉巻の吸い殻だけが残っていた。煙草屋の親父は苦笑いする。

「また、無銭喫煙ですかい。まあ、年末にまとめてくれりゃあ、それでいいけどね」

 吸い殻からはまだ煙が上がっていた。







 事件から数日後、たかねは目を覚ました。一報を受けた夏芽は、真っ先にたかねの病室を訪れていた。

「夏芽、来てくれたんだね」

 たかねは穏やかに、しかし悲しげに笑っていた。夏芽もなんとか笑おうと試みる。しかし、どうしても歪な笑顔しか作れない。

 夏芽はパイプ椅子を出して、たかねの横に座った。

「たかねの恋人って、平沢先生だったんだね」

「うん。イケメンでしょ」

 たかねの胸元では、エメラルドが悲しく光っていた。

「高価な、エメラルドのネックレスをあげるくらいだもん。平沢先生も、本当にたかねの事、好きだったんだね」

「相思相愛だったんだよ。先生と生徒の禁断の恋ってやつ。燃えるでしょ」

 たかねは天井を見上げた。

「でもね、昨日フラれちゃった」

「え」

「手紙が届いた。僕は一生刑務所から出られないから、君とは一緒にいられないって、言われちゃった。私、それでもよかったのにな。ずっと待ってて、良かったのにな」

 平沢利夫は、今や連続惨殺事件の容疑者だ。三人の女子学生を殺しておいて、刑務所から出ることは、叶わないだろう。

「……そっか」

 夏芽は気の利いた言葉が思い浮かばず、呟くように言った。内心、ほっとしていた。平沢利夫と付き合いつづけたら、たかねは一生傷を負ったまま、生きていかなければいけない。平沢利夫の亡霊にしがみついて生きていくよりも、いっそ自由になって、今まで以上に明るく生きていってほしい。平沢利夫もそれを望んでいる筈だ。

「でもね」

 たかねは笑った。

「私、利やんのこと、絶対忘れないんだ。世の中の人がなんと言おうと、利やんは優しくて、いい人だった。ただ、勝てなかっただけ。自分の中に生まれてしまった妖怪に、勝てなかっただけ」

「たかねは強いね」

 夏芽は言った。たかねの心の中にある悲しみはきっと計り知れないだろう。しかし今、彼女は若干十七歳で、それを乗り越えようとしている。

「流石、私の親友。私の見る目に狂いはなかったよ」

 たかねの手を握る。たかねは弱弱しく手を握り返すと、ほろり、と涙をこぼした。

「夏芽、嘘ついて、ごめんね。人喰い女を見たなんて、嘘ついて、ごめん。巻き込んで、ごめん。怖い思いさせて、ごめん。人喰い女が罪をかぶってくれたら、この事件が都市伝説になってくれたらなんて、そんなズルいこと考えてた。でも、そんなの許されない。佐々木麻奈ちゃんの死に顔がね、まだ私の頭の中にいるんだ。亡くなった三人は、怖くて、苦しくて、死んでいったの。だから、利やんは向き合わなきゃいけない。私も、向き合わなきゃいけない。重くて、辛い罪に。そして、罰を受けなきゃいけない。それが三人への手向け。そして」

 たかねは嗚咽を漏らした。

「壊れてしまった利やんを助ける、唯一の方法」

 夏芽はたかねを抱きしめた。二人は、人目をはばからず、声をあげて泣いた。

「たかね、たかねは悪くない。悪くないんだよ、大切な人を、守ろうとしただけなんだよ」

「ありがとう、夏芽。夏芽のお蔭で、利やん、人間に戻れた。人間のまま、死ねるんだ」

 残酷な結末に燈る唯一の光、それは、かけがえのない友情だった。

 病室の外の白い壁にもたれ掛かりながら、綺堂はふっと笑った。人間とは、実に奇妙だ。そして、実に、素敵な生き物だ。







 由宇奇秋男の通夜は、実に賑やかなものだった。親族が集い、酒をかわすのも、今の時代、通夜か結婚式位だ。

「秋人君の結婚式の方が先だと思ってたのにね」

 春代は、涙ぐみながら言った。

「まだ若いのに、残念だわ」

「突然だったもんな」

 由宇奇秋男の息子であり、喪主の由宇奇秋人は、ちびりと酒を飲みながら、

「糞じじい」

と、小さく悪態をついた。昔から、厳しい人だった。由宇奇が家を出たのも、秋男から逃げるためのようなものだった。

「折角テレビに出るくれえになったってのに、初番組観る前に死ぬなんてな。相当俺の事が嫌いだったんだな。俺も嫌いだよ、糞じじい。何で俺がお前の喪主なんかやらなきゃなんねえんだ」

「秋人、口が悪いわよ」

 由宇奇の母、陽子が言った。

「お父さんはね、あなたを立派な“人”にしたかったの。妖怪の心に負けない、立派な人にね」

「おかあ、妖怪の事勘違いしてるぜ。妖怪ほど、綺麗なもんはねえ。人間に捨てられた思想だってのに、人間を恨むことなく、秩序を守って規則正しく生きている。俺のじっちゃんも、立派な」

「だからこそよ。人間は恐ろしいもの。恐ろしいことを考えてしまうもの。あなたが妖怪の力を、人間の心で悪用しないようにって、お父さんはいつも恐れてた。心配してた。それくらいあなたの事を」

「言われなくてもわかってるよ。だから言ってんだよ、糞じじいって」

 由宇奇はくいっと酒を飲みほした。

「俺がちゃんと、別れを言う前に死んじまって、馬鹿野郎ってな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る