五、
華やかな祭りは今日も開催されていた。曇天の空の下、妖怪たちは楽しそうに、街を練り歩いていた。
「あ、御嬢さん」
昨日“三十分妖怪になれる飴”を夏芽に売ろうとした妖怪が声をかけた。
「今日も来たのかい。もうすっかり、こっちの世界に馴染んだみたいだね」
「あ、はい。おかげさまで」
「今日はね、獅子舞が通る日なんだよ。人間世界の獅子舞の十倍の大きささ。きっと楽しんでもらえると思うよ」
十倍の大きさ、を想像することができないまま、夏芽は妖怪に礼を言った。
「妖怪になりたかったらいつでもおいで。御嬢さんかわいいから、まけてあげるよ」
そんな日はきっと、いや、絶対来ない。夏芽は思った。
突然、誰かに手を掴まれた。振り向くが、誰も居ない。手にはまだ、捕まれている感触がある。夏芽は恐る恐る自分の手に目を落とす。そこには、夏芽の手を掴む“手”があった。
―――手だけで動いてる!
“手”は、夏芽を“見て”、「あ、人違いだ」とでも言うように去っていった。夏芽はふう、と安堵の息をついた。
中央通りを進む。妖怪たちにもまれながら、中央通りを左に曲がる。暫く行くと、妙に物静かな路地があって、そこだけ屋台が出ていない。ここが、綺堂壱紀の家である。
「夏芽姉さん」
聞き覚えのある声に振り向くと、辰之助が立っていた。
「待ってましたぜい、今日も来てくれたんですねい」
「うん。だって、早く事件、解決してほしいから」
言ってから、
「辰之助くん、綺堂さんの家の中で待ってればいいのに」
辰之助は肩をすくめた。
「旦那あ、あっし一人じゃあ家にゃ入れてくれないんでさあ。なげえ付き合いだってのに、ひでえ話でさあ」
夏芽は玄関のドアを叩く。
「綺堂さん、夏芽です」
「ああ、夏芽さん」
声が上から降ってきた。やはり、綺堂は二階にいたようだ。綺堂は本を右手に持ちながら、夏芽を見下ろすと、
「待っていたよ。夏芽さん。さあ、遠慮なく上がって来たまえ」
と言った。
「へい!」
辰之助は勢いよく返事をすると、夏芽より先に玄関の戸を開け、ドタドタと中へ入っていった。
「五月蝿い!」
と綺堂が言うのが聞こえる。夏芽は微笑しながら、靴をそろえて家に上がった。階段は、古い木でできているようで、足を乗せる度にメシメシと音を立てた。体重に負けて壊れてしまわないように、夏芽はゆっくり階段を上った。
階段を上りきると、そこにはぎっしりと本棚が並んでいた。窓際に綺堂がいて、その周りに無数の古本が積み重ねられている。綺堂は夏芽を見ると、
「そんなところに立っていないで、いいよ、好きな所に座り賜え」
と言った。好きな所、と言っても、余りにもスペースが無くて―――本が密集し過ぎていて―――ろくに座れそうなところがない。夏芽は仕方なく、目の前に在る本の山を、崩さないようにそうっとずらして、正座した。
「ぎょろ眼、茶」
「へい!旦那!」
辰之助はさっき上ってきたばかりの階段を再び下って行った。辰之助がいなくなると、部屋は一気にしんと静まり返った。
「あの、綺堂さん」
静寂を遮るように、夏芽は切り出した。
「何か、分かりましたか?」
「ああ。奇妙な文献を発見した」
綺堂は非常に古い、分厚い本を取り出した。本、というより、紙を束ねてひもで閉じてあるだけの簡素な造り、しかし立派な表紙、読めない字。相当古い文献のようだ。
「この部分を見たまえ」
綺堂は蚯蚓文字の羅列を指さした。
「いや……あの……綺堂さん、読めないです」
「読めない?夏芽さんは高校生だろう?古文をやらないのかい」
「いや、勿論、古文はやりますけど、こういう、なんていうか、象形文字?みたいな文字は勉強しません」
「象形文字じゃないくずし字だ」
綺堂は溜息をついた。
「全く、最近は教育がなっていない。古語を読めてこそ、初めて当時の状況や文献の美を掌握することが出来るというのに。先人の知恵あってこその今だ。現代社会の教育を一から見直す必要があるようだね」
「あ、あの……兎に角、読めないので、読んでもらってもいいですか?」
項垂れる綺堂に夏芽は言った。綺堂は夏芽を見、姿勢を正すと、読み始めた。
「シビトクライ、ノバカニテ、アラハル。ヨノキコヘ、シンジツナレバ、ゲニ、オソロシキカナ。シビトクライ、シビトクライシトコロ、ミシモノ、シビトクラワザレバ、ナラヌ、トキク。ウツロハヌウチ、コレニカキトメオク」
古文の授業、ちゃんと受けておけばよかった、と夏芽は頭を押さえた。さっぱり意味が解らない。夏芽の様子を察したのか、綺堂は言った。
「『死人喰らいが墓場で出た。噂が本当なら、本当に恐ろしい。死人喰らいが死人を喰らっているところを見たものは、死人を喰らわなければいけない、と聞いている。心変わりしない内に、ここに書き留めておく』と書いてある」
「つまり、死人喰らい、人喰い女を見た人間は、人を食べなきゃなんねえってことですかい?旦那あ」
いつの間にか隣にいた辰之助が言った。
「でも、そんなこと言ったら、私だって人食べなきゃいけないことに」
夏芽は慌てた。綺堂が一喝する。
「ぎょろ眼、お前は馬鹿か。ここにはな、『死人喰らいを見たら、死人を食べたくなってしまうから、そうなる前に、正常なうちにここに書いておこう』と書いてあるんだ。それに、『ハカバニテアラハル』の時点で、『墓場で食人していたところ』を、この作者は見たのだろう。『噂で言っていることが本当ならば』、とね。人喰い女は暫く、何百年も人を食っていない。だから、その所為で人間が人を食べているという事はまず否定される」
「えっと、つまり?」
「“人を食べているところ”を見ていない夏芽さんは大丈夫だよ」
綺堂は笑顔を浮かべた。夏芽はほっと胸をなでおろした。
書物に目を落とすと、刺し絵が描かれていた。髪の長い女が、死者にむさぼりついている絵である。
「これ、人喰い女さんですかね」
美しい優子からは想像できない絵だった。
「まあ、この人間は想像で描いているからな。おどろおどろしく描いているのだろう」
「想像?」
「ああ。まあ、女である点と気色が悪い点は同じだ」
綺堂は懐から扇子を取り出した。綺堂は口悪くそう言うが、夏芽は優子程の美人は見たことが無かった。
「もしあの女が、死人を喰らっていて、それを人間が見てしまったとしたら、そいつが犯人の可能性がある。まあ、この書にも“噂だ”と書かれているから何処まで真実かは未知数だが、人喰い女が人を喰らっているところを見てしまうと、その人間も死人を喰らうようになるようだ。だが、人喰い女は数百年もの長い間、人を食っていないと言い張っていた。あの時の女の様子は、どうもおかしくてね、調べて正解だった。あの時その話を、人喰い女の方から持ち出したのは、僕に、この故事を探させるためだったんだよ」
「でも、優子さんが人を食べてない以上、“人を食べる人間”ができるはずないですよね?」
「そうさ」
「じゃあ、綺堂さんは、優子さんが嘘を吐いている、そう思っているんですか?」
「いや、そうは思わない。そうだったらあの女は、わざわざ僕にこんな話はしなかっただろう。それに、“人喰い女はお人よし”だ。嘘を吐くことが出来ない。でも、自分からはどうしても言い出せない用件だった。だから、“言ってはいけない単語”を除いて、僕にこの故事を探させるよう仕向けたのさ」
「でも、優子さんが人を食べてないなら、どうして綺堂さんは、優子さんが人間世界の事件と関わっているって思っているんですか?」
綺堂は腕を組んだ。
「それは、夏芽さん、君が初めてこの街に迷い込んだあの日に関係している」
「あの日?ああ、お偉い方たちが来た日ですね」
「ああ。僕は君を人間世界に返すのに必死で、見逃していたんだが、どうやらあの日、君以外にもこの世界に迷い込んでいた人間が“やはり”居たらしい」
「やはり?やはりって、綺堂さん、気付いてたんですか?」
「ああ、臭いがね、二つしたんだよ。どちらにせよ人喰い女の方からしたから向かったんだが、そこで君を見つけてね。僕はとりあえず、君を人間世界に送り戻すことを優先した。そして公園まで走った後、もう一度臭いを確認してみたんだが……そうしたら、消えていたんだよ。あんなにもはっきりと、二つの違う匂いがしていたのに、消えていたんだ。だから僕は、上手く帰ったのだと思っていた。いや、思い込もうとしていた。嫌な予感という奴はね、的中する。きっとあの日この世界に迷い込んだもう一人の人間も“人喰い女”に会っていたんだよ」
「じゃあ、それで、優子さんが脅かそうと、人を食べる真似をしたとか」
「あり得る」
綺堂は言った。
「人間というものはね、非常に恐ろしい存在だ。この世で最もと言っていい。何故なら、人間は巨大な“脳味噌”を持っている。巨大な脳味噌は、あらゆるものを作り出し、あらゆるものを壊す、恐ろしい兵器だ。もし人喰い女が意図せずその人間の脳味噌に隠れていた潜在意識“人を食べたい”というものを呼び起こしてしまったのだとしたら、勿論、人喰い女は妖怪だから、悪意などないだろうが、その人間は“人を食べる”ことに興味を持ったり、美を感じたりしてしまったかもしれない。そうして、脳味噌はその人間を“壊す側”に仕立て上げた。人を殺して喰らう魔物に、ね。人間は脳味噌の十パーセントしか使っていない。普段はね。しかし感化された脳味噌は開花し、普段は発揮しない能力や、恐ろしい思想を生み出すことがある。使われていない十一パーセント目が現れた時、人間は幻覚や妄想に取りつかれるんだ。“人は美味い”“人を食べろ”十一パーセント目が人間にそう命じた時、その人間は、自らの脳味噌であるにもかかわらず、その指令に背くことが出来ない」
「人喰い女さんに出会ってしまった所為で、人間の方が壊れちゃったってことですか?」
「壊れた、という解釈は芳しくない。寧ろ“本人にとって”は、“開花”したんだよ」
綺堂は、辰之助が運んできた麦茶をずずっと啜った。
「その人間はきっと、ずっと“人を食べたかったんだろう”」
人間が人間を食べるなんて、狂っている。夏芽は血の気が引いて行って、意識が遠くなるような気がした。綺堂は倒れそうになる夏芽を支える。
「大丈夫かい、夏芽さん」
「す、すみません」
夏芽は冷や汗を拭いながら、
「余りにも衝撃的な話だったので……」
「僕も、こんな奇話は初めてだよ。まあ、あくまでも僕の推測だけどね」
綺堂は扇子で仰いだ。
「それから、更に興味深い文献を発見したんだよ」
綺堂は今度は緑色の、同じような古書を取り出した。ぺらぺらとページを捲る。
「確かこの辺に……あった。“シビトクライ、ミシトキ、アオキホノオ、アガリテ、ワレヲ、タスケン”この本は、人喰い女を実際に目撃した人物が書き留めたもののようだ。“死人喰らいを見た時、青い炎が上がって、私を助けた”と書いてある」
「青い炎?」
「何があったかはわからないが、確かに、人喰い女の家に“青”は無い。屋根は赤、カーペットも、赤だっただろう?」
優子の豪邸を思い出す。確かに、庭に咲いていた花たちも、赤いものだらけだったような気がする。
「人喰い女は“赤”が好きだ。血の色だからね。だがそれに反した色、青が苦手な節がある」
「じゃあ、犯人も、青が苦手なんですかね?」
「その可能性もあるし、その反対の可能性もある」
「反対の可能性?どうしてですか?」
「君は、人を食べることが良いことだと思うかい?」
「え?」
夏芽は思わず聞き返した。
「いいわけないじゃないですか。道徳に、人道に反したことです」
「犯人も、そう思っている可能性がある、そうは思わないかい?」
「でも、三人も殺してるんですよ?」
「三人、とわかっているということは、死体が上がっているということだ。死体の損壊状況は、君から聞いた通りだと“歯形が付いている”とわかっているくらいだから、少なくとも人喰い女のように、首以外全てを食べたりはしていないだろう。つまり、犯人は犯行を行ってから、間もなく逃げている」
夏芽はたかねの言葉を思い出した。
「そう言えば、私の親友、犯人が逃げた後、被害者の女の子を抱き寄せたらしいんですけど、まだ生きてたって言ってました」
「ああ、やはりそうか。犯人は、衝動的に人を食べて、そして正気に戻り、人を食べた自分に恐怖し、嫌悪し、それで逃げているんだ」
「捕まりたくないからとかじゃないんですか?」
「勿論、それもあるだろう。犯人はね、僕が推理するに」
「罪悪感を持って犯行を行っている……」
「……その通りだ夏芽さん」
綺堂は言った。夏芽は、綺堂の言葉を遮ってしまったことに気付いて、慌てて、
「いや、さっき、テレビ見てたら、変な格好のルポライターさんが出てて、その人がそんなことを言ってたんです」
と言った。
「ルポライター?」
「犯罪心理の専門とか」
綺堂は拳に顎を乗せて、考えるポーズをとった。
「ううん、まあ、いい。そいつの事は置いておいて、まあ、そういう事だ。犯人は罪悪感を持ってそれと戦っているはずだ。だから、もう少しすれば、自首するだろう。この事件、放っておいても解決するよ」
「そ、それはそうですけど……」
警察も本格的に動いている。事件現場周辺に包囲網が敷かれ、目撃情報も多数出ているという事だ。
「そう簡単に、行くかなあ」
夏芽は呟いた。
「だって、三人も被害者が出てるってことは、三人も被害者が出るまで犯人を捕まえられなかったってことですよね。まだ、犯行は続くかもしれない……」
「それよりも、犯行がおさまって、犯人が捕まらない方が、僕は怖いね」
「それも怖いですけど、何でですか?」
「人肉の味は、一度食べたら忘れられないというからね」
白い顔が不気味に笑った。夏芽は背筋を凍らせる。少し間を開けて、綺堂は笑った。
「冗談だよ、夏芽さん。犯人は捕まる。そして、僕の推理通りなら、犯人は“青色”の何かを身に着けている人物だ」
「青色?だって、青色は人喰い女の苦手な色なんでしょ?」
「だからさ。自分の犯行を抑えるために、青色の何かを、常に身に着けている人物、それが犯人だ」
夏芽は思考を巡らせた。
「まあ、君の知り合いに、犯人がいないことを願おう」
綺堂は言った。それから立ち上がると、
「人喰い女は、“またいつでも来い”と言っていたな。行って、確かめてみようか」
「そうですね!それが一番手っ取り早い気がします」
夏芽も立ち上がった。
「あっしぁ旦那の行くとこにゃ何処でもついていきやすぜい」
辰之助も立ち上がる。綺堂は辰之助を見下ろすと、
「いや、お前はいい。邪魔だ」
「そんなあ、旦那あ、ひどいですぜい」
辰之助は綺堂の着物の裾を掴んで揺さぶった。
二人のやり取りを見て、夏芽は思わず笑ってしまった。なんだかんだ、この二人は仲がいいのだ。たかねの事を思い出す。たかねと夏芽も、こんな風に見えているのだろうか。
綺堂の家を出て、三人はまた賑わう街並みを歩いていた。綺堂はやはり気分悪そうに、終始扇子で口元を覆っていた。
「あと二八九日。祭りが続くと思うと、吐き気がする」
「ちゃんと数えてるんですね」
「当たり前だよ。早く終わってほしいからね」
「終わってほしいなんて、まるで夏休みを待っている小学生みたいですね」
夏芽は苦笑した。
「あ、綺堂さん、質問があるんですけど」
「なんだい?」
「座敷童って、向こうの世界とこっちの世界、行き来して生活してるんですか?さっき、親友の家で、こっちで見た座敷童とそっくりの座敷童を見たんです」
「夏芽さん、考えてもみたまえ」
綺堂は眉を寄せた。
「世界中に家は何件あると思う?その何件かに、座敷童が住んでいる、とされている。一人の座敷童が、全部の家を行き来できるわけがないだろう?」
「えっ、じゃあ、座敷童っていっぱいいるんですか」
「そうだなあ、数百、いや、数千……数えきれないなあ」
夏芽は想像した。無数の座敷童が同じ顔で笑っている。ぞっと背筋を悪寒が走るのが分かった。
突然、綺堂は咳込んだ。
「ところで、夏芽さん、君は、高校生だから勿論、独身だね?」
「え?あ、はい、そりゃ勿論」
「想い人は……」
綺堂には珍しく小さな声だった。思わず聞き返すと、綺堂はもう一度咳をして、
「想い人は、居たりするのかな?」
「想い人!」
夏芽は言ってから赤面した。想い人って、今日はそんな話ばかりだ。先程も、たかねの家で、しかも隣にいる綺堂の話をしてきたばかりだというのに。
「いません、いません。いるわけないです。あー今日は一段と暑いなあ」
「夏芽姉さん、この世界は、天気はいつも一緒なんですぜい、一段と暑い筈が」
「あ、歩いたからかな」
夏芽は笑って誤魔化した。綺堂の事が好きな訳では無い。勿論、そんな筈はない。
夏芽の返答を聞くと、綺堂は満足げに笑った。
「そうか、それはよかった」
「はい」
言ってから、
「よかったって?」
「夏芽さん、人喰い女の家に着いたよ」
気付くと、あの豪邸の前にいた。夏芽ははぐらかされたような気がして、心がもやっとしたまま、赤い屋根を見上げた。
「あの悪臭にも、慣れたようだね」
綺堂は微笑んだ。確かに、今回は優子の家に入る路地での生臭さを感じなかった。原因は分かっている。
―――綺堂さんが、変なことを言うから……。
綺堂は昨日と同じように、優子の家のドアを強くたたいた。
「おい、人喰い、今日も来たぞ」
「あいよ、待ってたよ」
綺堂が一歩引くのと同時にドアが開いた。
「坊や、人喰いっての、やめておくれって、何度言えば分るんだい」
「入るぞ」
「人の話を聞かんかい」
綺堂は優子を押しのけて、家の中へ入っていった。優子は夏芽を見ると、
「夏芽ちゃん、こんな男とは、絶対に結婚しちゃだめだよ。まず礼儀がなってないからね」
「あ、あの、いえ、はい」
夏芽はお辞儀をしながら、赤面を隠した。
「辰之助も夏芽ちゃんも、お入り。今日はね、夏芽ちゃんの要望通り、とっておきのハーブティを用意したんだよ」
優子は笑顔で言った。
「ありがとうございます!楽しみです」
夏芽はお礼を言いながら、招き入れられるまま家に入る。辰之助もそれに続く。
やはり、いつみても―――昨日初めて見たのだが―――豪邸だ。そして綺堂の言った通り“赤”が多い。
優子は暫くキッチンの方で鼻歌を歌いながら、紅茶を入れているようだった。夏芽は小声で、
「辰之助くんの好きな味だと良いね」
「へい。姉さんのお蔭でさあ。何とお礼を言っていいやら」
辰之助はテーブルに頭を付けた。
「お礼なんていいよ。私も、ハーブティ、楽しみなんだ」
キッチンの方から優子が歩いて来る。着物の擦れる音がなんとも風流だ。
「ローズヒップティだよ」
赤い色の紅茶だった。
「あ、私、これ、大好きなんです」
夏芽は配られたティーカップを見て頬を緩めた。優子が笑う。
「それはよかった。夏芽ちゃんが気に入ってくれたんなら、あたしも嬉しいよ」
辰之助は、少し戸惑いながら、ティーカップを口に運んだ。それから顔を輝かせて、
「甘酸っぱくて美味しいでさあ」
と言った。
「辰之助も気に入ってくれたかい。よかった」
「人喰い」
綺堂は突然口を挟んだ。
「紅茶まで赤いとはな」
楽しい会話を邪魔されて、優子は不安げに言った。
「そりゃ、あたしゃ、人喰い女。血の色が好きな妖怪さ。着物も赤、家の屋根も、カーペットも赤。紅茶も赤で何が悪いのさ」
「お前、青は苦手か?」
「苦手ってわけじゃないけど、そんなに好きじゃあないね」
優子は紅茶を口に運んだ。
「あたしのローズヒップティに、何か不満かい?」
「いや、僕が不満なのは、お前が夏芽さんとぎょろ眼の為に、わざわざ苦手な外にまで出向いて屋台で手に入れた、この特別なローズヒップティじゃない。お前が隠してる、“あの日”の“もう一人の来客”の事だよ」
「隠してる?隠してるつもりはなかったよ。ただ、聞かれなかったから言わなかったのさ。聞かれたらなんでもこたえるよ。あたしゃ、お人よしなんだから」
「じゃあ聞こう」
綺堂は鋭い眼光で優子を捉えた。優子はティーカップを持つ手を止め、一瞬静寂が訪れた。夏芽はごくりと息を呑んだ。
「あの日、何があった」
優子は表情を変えないまま、ティーカップをテーブルに置いた。
「綺堂の坊やが夏芽ちゃんを連れ去った後、あたしの元に、もう一人“来客”が来た」
「来客?ということは、知り合いか」
「ああ。以前、一度会った事があってね。だから、怖がらせるのは諦めて、この家に招き入れたのさ」
「そうか、だからあの日、突然人間の臭いが消えたのか」
優子は頷いた。
「その子と初めて会ったのは、十年くらい前だったか。夏芽ちゃんみたいにね、突然、街に現れたんだよ。妖怪を怖がるような子じゃなくてね。寧ろ、妖怪に会えた、と喜んでいた。一週間くらい、こっちの世界にいたよ。お祭りを堪能して、それで、決まってあたしの家に泊まった。あたしが誘ったんじゃないよ。あっちから来たのさ。なんとなく、ここが良い匂いがするからって。迷惑な話さ」
辰之助が紅茶を啜る音が広い家内に響く。
「一週間すると、そろそろ親や、友達が心配するころだろうから帰るって言ってね。妖怪みんな、寂しがったさ。珍しい人間だったし、妖怪の事を怖がらないのも、妖怪としては、“ウケた”んだろうね。そいで、出て行くその日、その子はね、あたしに手紙を残してくれた。“またいつか、あなたに会えたら、私は幸せです”ってね」
優子は懐から封筒を取り出した。白かったであろう封筒は、長い年月をかけてベージュに色褪せていた。机の上にそれを置く。
「あの子がもう一度、ここに来てくれた時、あたしゃすごくうれしくてね。あの頃とは別人のように大人っぽくなっていて。人間って、こんな短期間で、こんなに変わるものなんだね。感動したよ。暫く、話した。他愛もないことばかりさ。人間世界はどうだ、とか、妖怪世界の祭りが久々に見れてうれしい、とか。あの子はね、夏芽ちゃんと違って、自分から妖怪の世界に入ることが出来ないんだよ。大抵の人間はそうだけどね、きっと夏芽ちゃんは特異体質なんだろうね。あの子は、この世界が大好きだった。どうしても帰らなければいけない、と言って帰ってしまったけれど、もし夏芽ちゃんのように、自由にこちらの世界と向こうの世界を行き来できる人間がいると知ったら、さぞうらやましがるだろうね」
それから、すっと、肩を落とした。
「あの子が、犯人、なのかい」
「その可能性が高い」
綺堂は間髪入れずに言った。
「だとしたら、あたしの所為だね」
「いや、それは違う」
珍しく、優子を擁護した。
「お前はただ、その人間と会って、楽しく会話をしただけだ。何百年も前に人喰いをやめたお前に、人間に人喰いをさせる妖力が残っているとは思えない。現に、夏芽さんも正常だ。異常なのは、犯罪を犯した、“そいつ”だ。お前が気にすることじゃない」
「でも……」
言いかけて、優子は口を閉じた。
「優子さんは、悪くないですよ。私、優子さん、いい人だって知ってます。それに、綺堂さんの言う妖力?ってやつ、感じないし。あ、これって失礼に値したらすみません。でも、やっぱり優子さんは悪くないと思います」
夏芽は言った。
「だって、優子さん、ただでさえ外に出るのが苦手なのに、私と辰之助くんの為に、この紅茶、買ってきてくれたんですよね?こんないい人に出会って、人を食べてみたいなんて、思いません、普通」
「そうだ。異常なのは、人間の方だ。人喰い、お前が気にすることじゃない」
綺堂は扇子を開いた。
「先人が言った。“世の奇妙は人である。世の異常は人である。”と」
妖怪は、人間に手を出すことが出来ない。影響を及ぼすことはできたとしても、優子の場合はその人間と、会話をしただけだ。脅かしたわけでは無い。つまり、影響が及ぼされたのならば、その人間がそれを“望んだ”からだ。人を食べることを、人喰い女になることを、自ら望んだからなのだ。
「あたしゃ、存在自体がまちがいだったのかねえ」
優子は遠くを見るように言った。
「人を不幸にして、人生を狂わせて。それが嫌でこの世界に来たのに、あたしゃまた、繰り返すのかねえ」
「繰り返させないさ、人喰い」
綺堂は言った。
「そのための、僕だ」
「どういうことですか?」
夏芽が問う。
「僕は、人間と妖怪の間の子。半妖半人。君のようにこの世界と向こうの世界を自在に行き来することが出来るうえ、向こうの世界で妖力を使うことが出来る、数少ない存在だ」
「え?妖力って、綺堂さん、何が出来るんですか?」
「それは秘密だ」
あっけなく言う。
「そのうち分かる。そんなことより」
綺堂は人喰い女が机に置いた、色褪せた手紙を手に取った。
「この事件、僕が解決する。それが人喰い、お前の為だ」
「ああ」
優子は寂しそうな顔をした。
「頼んだよ、坊や」
*
優子の家を出た後、夏芽は三人で並んで歩きながら、優子の切なげな表情を思い出した。きっと、余程思い入れのある人物なのだ。その人物が、人間世界で、もしかしたら自分の所為で犯罪を犯しているかもしれない。優しい優子は、今頃途方に暮れている事だろう。それを思うと、夏芽は悲しくなった。勿論、佐々木麻奈を含め、三人の犠牲者を出したこの事件の犯人を許すことは出来ない。しかし、犯人を逮捕したところで、死刑は確実だ。優子の思いは届かない。誰も幸せになれない。
「夏芽さん」
不意に、綺堂が言った。
「君に危害が及ばないように、忠告しておく。青色のものを身に着け、そして帰宅したら、家から決して出てはいけない。わかったね?犯人は、今日、僕が捕まえる。必ず。約束する。だから、僕とのこの約束、必ず守ってくれ」
夏芽は頷く。
「分かりました。私、綺堂さんの事、信じてますから」
綺堂は笑った。
「ありがとう。僕は早速、事件解決の為に、自宅で準備を進める。君は、自分で家に帰れるね?」
「はい。もう、道は覚えました」
「よかった。それじゃあ、くれぐれも気をつけて。そして、決して、特にブルーのものを身に着けている人間には近づいちゃあいけないよ。決してだ」
「分かりました」
「夏芽姉さん、綺堂の旦那あ、やるって決めたらとことんやるお方でさあ。安心していてくだせえ」
辰之助が笑う。
「うん。ありがとう」
二人と別れて、賑わう祭り街道を歩く。優子が言っていた“あの子”も、この騒がしい雰囲気を好んでいた。夏芽はその気持ちがわかる気がした。この世界は、“向こう”には無い安らぎがある。嘘偽りのない、外見や思想への偏見がない、美しい世界。
ふと、目の前を獅子舞が通っていった。人間世界の獅子舞とはだいぶ違う。スケールもそうだが、透き通っていて、空中を舞うように街を練っている。綺麗な光景だった。心が癒されていく。
―――綺堂さんと二人で見たかったなあ。
夏芽は顔を赤らめた。そんなこと、思ってしまうなんて。
その時、夏芽の肩に衝撃が走った。
「おっと、すまねえ」
ぶつかってきたのは、顔の右半分を包帯で覆った、髪の長い男だった。赤、紫、黄色の派手な着物を、胸が見えるまで肌蹴させて、良く言えば色っぽく、悪く言えばだらしなく着こなしていた。
「あ、いえ、こちらこそ。獅子舞が素敵すぎて、見入ってしまって」
そこまで言うと、男は、夏芽の顔を興味深そうに、探るような目で見た。
「あんた、どっかで会った事あるっけ?」
「いえ……ないと思いますけど」
こんなに派手な男、一度会ったら忘れるはずがない。
男は暫く夏芽をじろじろ見た後、ふと言った。
「青い、髪飾り」
「え?」
夏芽は聞き返す。すると男は微笑を洩らして、
「青い、髪飾り」
ともう一度言った。それから、夏芽の肩に手を置くと、
「んじゃ、失礼するよ、“お嬢ちゃん”」
と言って去っていった。
「青い、髪飾り?」
夏芽は首を傾げた。何の事だろう。青い髪飾りが似合うよ、とか、そういう意味だろうか。
いや……。
ふと、夏芽の脳裏に閃光が走った。
「青い、髪飾り……」
まさか……。
夏芽は振り返ったが、男はもう居なかった。夏芽は立ち止まったまま、ここ一週間を回想する。
「青い、髪飾り……」
たかねは毎日、青い髪飾りを付けていた。喋る時にそれを触るのが、たかねの癖だった。
あの日、初めて夏芽がこの世界に迷い込んだ日、真っ先にたかねは夏芽を見つけた。奇妙な話である。八千代トンネルは、通学路から少し離れた路地にあるのだ。
人喰い女を見た、と言った夏芽に、“妖怪なんている筈ない”と言ったくせに、今日、たかねは夏芽に座敷童の話をした。
そして彼女は、佐々木麻奈の第一発見者だ。
「うそ……」
夏芽の脳内で、全てが繋がった気がした。そもそも、佐々木麻奈をたかねが見つけられるはずがない。何故ならば、彼女が発見されたのはたかねの通学路と反対側の、旭町。たかねが通る筈がないのだ。
「うそ……うそよ……」
脳内で、たかねの笑顔が崩れていく。
『妖怪の事を怖がらないのも、妖怪としては、“ウケた”んだろうね。』
自宅に座敷童がいるのだから、怖がるはずがない。
『あの頃とは別人のように大人っぽくなっていて。人間って、こんな短期間で、こんなに変わるものなんだね。感動したよ。』
人間、十年も経てば見た目も変わる。特にたかねが十年前に迷い込んだのだとしたら、その時はまだ六歳か七歳の、幼女の筈だ。
『先人が言った。“世の奇妙は人である。世の異常は人である。”と』
たかねがやったのだとしたら……。
『僕は、人間と妖怪の間の子。半妖半人。君のようにこの世界と向こうの世界を自在に行き来することが出来るうえ、向こうの世界で妖力を使うことが出来る、数少ない存在だ』
綺堂さん、たかねを襲撃するつもりだ!
夏芽は駆け出した。妖怪たちにぶつかるたび、文句の声が聞こえる。しかし、そんなことにかまっていられない。たかねが犯人だというならば、それならば親友である夏芽が、止めてやらなければならない。
たかねの笑顔が脳裏で歪む。
―――やめて!歪めないで!
『ありがとう、夏芽』
水面に滴が落ちたように、たかねの顔が消えて行く。電波を失ったラジオのように、たかねの声が遠のいていく。
夏芽はいつの間にか八千代トンネルを駆け抜けていた。太陽がまぶしい。こちらの世界の時間は、一分たりとも進んでいないようだ。
夏芽は携帯電話を取り出した。このまま放っておいたら、たかねは。
きっと、まだ、間に合う。
呼び出し音が鳴って、たかねが出た。
『どうしたの?今の今じゃん』
「たかね、私、犯人分かったの」
『え……?本当?』
「今すぐ、学校来れる?」
たかねは少し沈黙してから、
『わかった』
と言った。
『でも、その代わり、今日あげたブローチ、絶対つけてきて』
「なんで?」
『友情の証でしょ』
たかねが電話の向こうで微笑んだのが分かった。夏芽は電話を切ると、そのまま学校へ向かった。たかねからもらったブローチは、勿論胸につけていた。
―――だって、友情の証だもん。
夏芽は歩きながら、こぼれる涙を抑えきれなかった。
*
家に着いた綺堂は、早速守り刀の短刀を腰に差すと、優子から拝借した手紙を開いた。綺麗な文字である。差出人の名前も、しっかり記されている。これだけで、証拠は十分だ。あとは本人の良心に任せるだけである。
その時、額をはじかれたような、嫌な妖気を感じた。以前、感じたことのある妖気である。綺堂は額を押さえた。
「旦那?どうしたんでさあ?」
辰之助が心配そうに尋ねる。
―――気の所為か?
綺堂の脳裏に、ある情景が映った。投げつけられる無数の石、少年を守ろうと、必死に庇う少女……。
この事件とは関係ないだろう。しかし、引っ掛かる、引っ掛かる。
夏芽の泣き顔が脳裏を過った。
―――夏芽さんに、何かあったのか?
嫌な映像を払拭するように、綺堂は頭を掻いた。夏芽が心配である。彼女は、何かを守るために自分を犠牲にしてしまう節がある。今回の件で、それが良くわかった。
「ぎょろ眼、行ってくる」
「へ?もう行くんでい?」
「ああ。なんだか嫌な予感がする」
当たらなければ良いのだが。
綺堂は早足で家を発った。急がなければならない。
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