最終話 リオン・ルージュ

 そのまま眠ることのできないまま夜が明けはじめた。どのみち数時間後には永遠の眠りに就いていると思えば、眠る必要も感じられなかった。


 銃を担いだ兵士が2人、ネイを迎えにやって来た。逃亡を警戒しているのか緊張した表情だったが、ネイには逃亡する気などなかった。

 ネイは正装に着替え、青いフロックコートを羽織った。

 部屋を出るとき振り返ると、あの警備兵が敬礼でネイを見送っていた。


 リュクサンブール宮殿の庭には1台の馬車が停まっていた。誰が用意したのだろうか、囚人用の質素な馬車ではなく、貴人の送迎用に使われる馬車であった。

「朝早くからご苦労だね」

 ネイは御者に声をかけて馬車に乗り込んだ。

 御者は黙ったまま軽く頭をさげ、馬車を出発させた。

 空は薄鈍色うすにびいろの雲に覆われ、冷たく強い風が庭園の植栽を揺らしている。

「太陽も俺を見送ってはくれぬのだな」

 ネイは恨めしげに馬車の窓から空を見上げた。

 馬車は、その庭園から真っすぐ南へと延びるみちを、ゆっくりと進んでいった。

 両脇に立ち並ぶマロニエの木々が、すっかり葉の落ち切った枝を物憂げに広げている。


 かつてパリの人々が革命の抗いがたいエネルギーに突き動かされていた頃、処刑は日中、大勢の群衆が集まる広場で行われていた。人々の罵声を浴びながら受刑者が死刑台に登り、ギロチンの刃が落ちる鈍い音とともに、熱に浮かされた民衆の歓喜の声が響き渡ったものだった。

 しかし今、まだ眠りから覚めきらぬ街角に人影はなく、道端でごみを漁っていた野良犬だけが、馬車の音に少し驚いたように頭を上げたものの、すぐにまたごみを漁りはじめた。


 ナポレオンがセントヘレナに流された今、ネイこそが反国王派の象徴であった。国王は、ネイを群衆の前で処刑することで反国王派を刺激することになるのを恐れたのかもしれない。


 最南端にある門を出てすぐの、うら寂しい壁際が、処刑場として元老院が指定した場所だった。

 馬車を降りると、祭服に身を包んだ司祭と武装した数十人の兵士がネイを待っていた。

「これはまた盛大な歓迎ですな」

 軽口を飛ばした後、ネイは司祭の前で最期の祈りを捧げた。司祭はネイの顔見知りだった。祈りの間じゅう司祭はまるで自分が処刑されるかのように悲痛な表情であった。

「戦場で多くの命を奪った私が、自分の最期に神に祈るのは自分勝手かもしれませんな」

 祈りが終わるとネイはポケットから金貨を数枚取り出した。

「これは?」

「貧しい者に分け与えていただきたいのです。私にはこの先必要のないものですからな」

「あなたが自分勝手ではなく、常に人のために尽くしてきたことを、神はよくご存じでありましょう」

 司祭は震える手で金貨を受け取った。


「目隠しをさせていただきます、閣下」

 壁際に立ったネイに、1人の兵士が緊張気味に声をかけてきた。

「俺はもう閣下ではないぞ」

 ネイは苦笑した。

「それに、俺に目隠しは不要だ。銃弾が飛び交う戦場でも、俺は敵の銃口から目を逸らしたことはないのだからな」

「ですが……」

 その兵士は戸惑った様子で手にした目隠し用の布に視線を落とした。つられて視線を落としたネイは、その兵士の手首を見てはっとした。

「そのブレスレット——。貴官は先の会戦で俺の命を救ってくれたアルノーだな」

「私の名前を覚えておいでですか」

「もちろんだ。顔を見て思い出せなかったのは俺の不覚だ。申し訳ない」

「あの日以来、私は閣下からいただいたこのブレスレットを常に身に着けています」

「そうか、大切にしてくれているか。ありがたい。——ところで、今日の処刑、貴官も加わるのか」

「……はい、申し訳ございません」

 アルノーは苦しそうに答えた。

「俺は構わぬが、一度助けた相手を処刑せねばならぬのでは、貴官も辛かろう」

 そう言うと、ネイはアルノーの上官と思しき将校に呼びかけた。

「ひとつ頼みがある。この者を処刑の任務から外してやってはくれぬか」

 2人の会話が聞こえていたと見え、将校は素直にうなずいた。

 思いがけぬネイの計らいにアルノーは一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに感謝の言葉を述べて退いた。


 壁際にはネイが1人残された。

 将校が配下の兵士たちに声を掛けた。

 銃を持った12人の兵士がネイの前に並んだ。

「もうひとつ頼みを聞いてもらえるだろうか」

 ネイはもう一度将校に呼びかけた。

「発砲の命令を、俺にさせてもらえないか」

 死刑囚自らが発砲の命令をするなど前代未聞である。将校も今度はさすがに戸惑った様子であったものの、それを承諾した。同じ軍人として共感するものがあったのだろうか。あるいは軍の英雄であったネイの銃殺を命ずることに後ろ暗さを抱いていたのかもしれない。


「感謝する」

 礼を言うと、ネイは眼前の兵士たちを見据えた。

「諸君!これから諸君に、ミシェル・ネイの銃殺を命ずる。まっすぐに心臓を打ち抜け!」

 そう言ってネイは自分の胸に手を置いた。


「だが、その前に1つだけ言っておく。これまで私はブルボン王朝、革命政府、そして帝国の軍人として数多くの戦場で戦い、数え切れぬほどの敵を葬り、そしてまた数え切れぬほどの同胞を失ってきた。しかし如何なる立場にあっても、決して祖国に対し銃を向けたことはない。その私に反逆者の汚名を着せる、それが政府の処遇であるか。私は今でも祖国を愛している。だがこれに対してだけは強く抗議したい!」


 早朝の、人気ひとけのない街にネイの声がこだました。

 兵士たちは皆、無表情のまま直立不動の姿勢を保っている。ただ1人、司祭だけが胸の前で十字を切るしぐさをした。


 いつの間にか空は明るくなり、雲には切れ間が見え始めていた。


 すっと背筋を伸ばし、ネイは両手を体の後ろに回した。


「構え!」

 ネイの号令とともに、兵士たちが素早く銃を構えた。一糸乱れぬその動きに、ネイは満足げにうなずいた。


「狙え!」

 全ての銃口が、ネイの胸の一点に向けられた。

 まじろぎもせず、ネイは真正面の銃口を、射貫くような視線で見つめた。


 沈黙が辺りを包んだ。

 それはほんのわずかな間であっただろう。だが、その場にいる者たちには、無窮むきゅうの時が流れたように感じられた。


 そのとき、雲の切れ間から一すじの光芒こうぼうが差し込んだ。

 ネイの赤橙色せきとうしょくの髪が、旭日あさひを受けて赤く輝いた。長く伸びた髪が風になびく姿は、あたかも草原を駆ける獅子のたてがみのようであった。

赤い獅子リオン・ルージュ……」

 任務を外れ、傍らで見守っていたアルノーの口から小さなつぶやきが漏れた。


 ネイは大きく息を吸った。

 そして、生涯最後の命令を下した。



「——撃て!」

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Lion Rouge(リオン・ルージュ) 尾形貴以 @Eygnip

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