第55話 別離

 その日、まだ夜が明けぬ頃、ネイの身柄が留め置かれているリュクサンブール宮殿の一室の扉をノックする者がいた。扉に近づくことが許されぬネイに代わり、警備兵が扉を開け訪問客を室内に招き入れた。その顔を確認したとき、ネイの顔には光と影、喜びと悲しみ、相反する2つの感情が同時に表れた。


 未明の訪問者は、ネイの妻アグラエと4人の息子たちであった。

 ネイの顔を見るなり、アグラエは言葉にならぬ声をあげて床に泣き崩れた。しばらくの間、彼女の嗚咽だけが部屋を満たした。


 むせび泣く彼女の傍らに腰を落とし、ネイはそっと肩を抱いた。

「来てくれたんだね、ありがとう」


 夫の処刑が決まったことを彼女に伝えたのはネイ自身だった。判決が出てすぐに手紙を書いたのだ。ネイを愛してやまないアグラエに夫の運命を伝える残酷な使命は、とても他人に任せることはできなかった。


「君のことを考えていたよ。出会ったばかりの頃を思い出していた。あの頃の俺は国を守るために戦うことだけを考えていた。家庭を持つなんて戦いの邪魔になるだけだと思っていた。だけど、初めて君のはにかむような笑顔を見た時、俺の中で世界の見方が変わったんだ。戦う理由は国のためだけじゃないんだってね」


 あれから十数年の月日が流れた。その間にアグラエは妻となり母となった。そしてネイは元帥になった。

 戦いで家にいないことが多かったが、帰るたびに彼女は出会ったころと変わらぬ少しはにかんだ笑顔で出迎えてくれた。


「それなのに君を守り切れなかった」

「私、国王に訴えるわ」

 彼女は意を決したように顔をあげた。陛下、とは言わなかった。

「皇帝でさえ命を救われたのに、あなただけが処刑されるなんて理不尽だわ。あなたは彼の命令で戦っただけじゃないの」

「そうじゃないさ。俺は俺自身の意思で戦ったんだ。祖国フランスのために」

「でもその祖国はあなたを守ってくれなかった。それどころかあなたは殺されるのよ。誰ひとり……」

 最後は言葉にならなかった。彼女はまた顔を覆って慟哭した。


 泣き止まないアグラエに替わって、それまで黙っていた長男のジョゼフが口を開いた。

「父さんは何も悪いことしてないよね」

「父さんは明日処刑される。だけど父さんは人に恥じるようなことは何ひとつしていない。祖国のために生き、祖国のために戦ってきたんだ」

「それなのに処刑されるなんておかしいよ」

 ジョゼフの頬を涙が伝った。しばらく唇をかみしめていたジョゼフだったが、やがて決意のこもった強い口調で言った。

「父さん、僕は大きくなったら軍人になるよ。そして父さんの仇を討つ。イギリスもプロイセンも、それから父さんを処刑すると決めた奴ら全員に復讐してやるんだ」

 その言葉に警備兵の眉がぴくりと動いたが、咎める様子はなかった。

 ネイは両手をジョゼフの肩に置き、その目をじっと見つめた。

「ジョゼフ、聞いてくれ。お前はまだ子供だ。この先長い人生が待っている。人を憎みながらその長い人生を生きていくのはとても辛いことだ」

「どんなに辛くたって構わない。僕は一生を懸けてでも父さんの恨みを晴らすんだ」

「お前の気持ちはうれしい。けれど父さんはお前に暗く苦しい人生を送って欲しくないんだ。

人を憎む者は自分も他人から憎まれる。敵を愛することができる者だけが、自分を幸せにできるんだよ。憎しみを捨て、相手を許すんだ、ジョゼフ」

 ジョゼフはネイの胸に顔をうずめ、悲鳴のような泣き声をあげた。


「父さんは死ぬのが怖くないの?」

 ジョゼフに代わって、1つ下の弟ミシェルが絞り出すような声で言った。

「怖いさ。だけどどれほど死を避けようとしても、誰もがいつかは死ぬ。死ぬより怖いのは、死を恐れて自分の大切なものを捨ててしまうことなんだ」

「父さんの大切なものって?」

「我が祖国フランス、そしてお前たちだ」

「それなら僕たちを捨てないで。一緒に逃げよう。今ならまだ間に合うよ」

「ここで逃げたらお前たちは一生逃げ続けることになる。人目を避けて、名前を変えて、常に追跡に怯えながら暮らすことになってしまう。父さんは正々堂々と死ぬ。だからお前たちは正々堂々と生きるんだ」


「そろそろ時間です」

 警備兵が冷めた声で言った。


 アグラエはハンカチで鼻を押さえてすすり泣き、子供たちはネイの足にしがみついて離れようとしなかった。まだ3歳の一番下のエドガーだけは、父が処刑されるということが理解できない様子だったが、声をあげて泣く家族の姿にただならぬものを感じたのか、母親のスカートの裾をしっかりと握りしめていた。


「さあ、早く出ていくんだ!」

 警備兵が声を荒げた。アグラエと4人の子供たちはいっそう大きな声で鳴きながら部屋を出ていった。


 親子を部屋の外へ送り出すと、警備兵はゆっくりと扉を閉めた。鉄製の重い扉がずしりと音を立てて閉じたとき、グスリ、と警備兵が鼻をすすり目頭を押さえた。

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