カクヨム自主企画用2次小説「素顔」

淺羽一

「素顔」

 まるで、腕時計の一秒が僕にとっては十秒にも感じられそうな気分で、僕は彼女を待っていた。これまでにも、学生時代の退屈な授業中などに一秒が三秒や五秒になったことはあったけれど、この場所ほど秒針がゆっくり見えることはなかった。

 でも、不思議なことに、僕は同時にそれを幸せだとも感じていた。彼女を待つことはちっとも嫌じゃなかった。むしろ、頭の中で色々な想像が膨らんで、それを少しでも長く楽しんでいたいとさえ思った。

 やがて遂に、彼女が来た。きっと、まだ彼女の目には、僕が座るいつものベンチは見えていないだろう。それくらい、僕らの距離は遠い。だけど、僕の目が彼女を間違えるはずもなかった。

 真っ赤に色づいた並木道の下を、花柄のスカートをふうわりとゆらしながら、彼女がやってくる。彼女が一歩、進む度に、僕の体まで紅葉していく気がした。

 いよいよ彼女はすぐそこに。

 僕はさっと足を組んで座り直し、傍らに置いてあった――本当は苦手なコーヒーのカップを手に取った。そして、彼女に話しかける代わりに、熱くて苦い液体を一口。

「僕だよ」

 と言いたい気持ちを、無糖のコーヒーで流し込む。胸の内側を熱いものが下りていく。

 彼女は僕に一瞥もくれず、颯爽と僕の前を過ぎていった。僕はそれを「おや、お嬢さん。ごきげんよう」とでもうそぶく紳士みたいな気分で見送った。

 それから、僕は立ち上がり、彼女に背を向けた。視線の先に何があると言うわけでもない。ただ、僕と彼女は、必ず反対方向へと歩みを進める。互いに振り返ることもない。それは様式美だ。

 僕は歩きながら、振り向く代わりに頭の中で彼女の背中を再現した。記憶に描かれるその彼女は、高校時代の制服を着ていた。

 僕と彼女の縁が初めて、かろうじて結ばれたのは、僕らが同じ高校に通っていた時のことだった。と言っても、僕はやはり友達もいない地味な存在で、彼女は勿論、皆に人気で憧れの的だった。

 彼女は常に、人だかりの中心にいた。そして僕はいつも、彼女を世界の外から眺めていた。

 だから、なのだろう。あの頃、僕だけが、彼女の"表情"に気付いたのは。

 それは、彼女が人だかりと人だかりの間を、まるで渡り廊下を進むような感じで移った時のことだった。喧噪と喧噪の境目を越える、ほんの一瞬、彼女は確かにその笑顔をえらく陰鬱なものにした。

 驚いた。だって、当時の彼女と言えば枕詞に「いつも笑顔の」とでも付けられそうな女生徒であったのに。

 勿論、人間なら誰にだってたまには不機嫌な時や疲れている時がある。彼女にだってそういう「感情が濁ってしまう時」はあるだろう。

 しかし、僕にはどうしてもその一瞬の出来事が忘れられず。それから後、僕は以前にも増して彼女を"観察"するようになった。

 すると、どうだろう。彼女の美しさや、明るさというフィルターを除外して、ただただ素顔だけを見ようとした結果、実は思っていたよりも遙かに頻繁に、彼女が表情を変える時があると知った。それはあたかも「笑顔」の仮面と仮面を付け替えるように。

 チャンスは高校二年生だったか三年生の時にやってきた。

 クラスの席替えで、僕らは偶然にも隣同士になったのだ。

 けれど、いざ話しかけようにも、休憩時間は決まって彼女の周りには人の壁。

 ならばと、僕は授業中を狙って、初めて彼女に話しかけた。

「疲れてる?」

 呼びかけも前置きも一切無く、僕はいきなりそう聞いた。

「疲れてないよ」

 彼女は笑顔で即答した。

「そう」と、僕は再び前を向いた……振りをした。そして横目で密かに彼女を伺った。

 果たして、彼女もまた机の上に置いてあるノートに視線を落とした、まるで生気を失った人形じみた表情で。

 僕の背筋に電気が走った。

 気付けば僕は反射的に顔を上げて、言っていた。

「君、たまに表情が変わるよね!」

 今にして思えば、それはきっと言葉が足りなかった。

 しかし、瞬間的に僕を見返した彼女の"表情"を見れば、言いたいことが伝わったのは明らかだった。

 突然の大声に驚いて、周りの生徒や教師が僕らを、いや、彼女を見た。

 すると、即座に彼女の表情が元の笑顔に戻りかけた。

 僕は、そうはさせまいと思って、告げた。

「君、上っ面はいいよね」

 本当に、分からないのだけれど。どうして、あの時、僕はそんなことをしたのだろう。

 それは明らかに、彼女にとって喜ばしくない行為であったし、喩えるならまるで急に言葉のナイフで切り掛かったようなものだ。単なる通り魔と変わらない。

 そうだ。彼女はまさしく被害者で、悪いのは間違いなく加害者である僕だった。

 なのに、やがて彼女の顔に浮かんだのは、怒りでも、恐怖でもなく、あたかも困った弟を注意する長女のようなものだった。

「あなたはどっちが良いと思う?」

 どっち、と言われても、そもそも僕には彼女から選択肢が与えられていなかった。だけど、僕は直感した。選択肢は、既に僕の方から差し出していた。

「そんなに明るくなくて良い」

 それもまた、きっと言葉不足な回答だった。でも、そう気付いたのは、言ってしまった後だった。

「そっか」

 彼女はふっと息を吐いて、笑った。ただ、その笑い方は、何とも薄っぺらいものだった。

 それ以来、僕と彼女は、たまに顔を合わせれば話をする程度の間柄にはなった。だけど、その時の彼女と言えば、決まって他の人へ向けているような笑顔でなく、いかにも退屈そうなものだった。なのにそのくせ、彼女は決して僕を無視しなかった。

 僕はしばらくの間、実は僕に向けられるものこそが、彼女の"素顔"なのだと考えていた。

 いつでも完璧な笑顔は仮面で、僕の目の前にある無表情は、即ちその仮面が無いからなのだと。

 そして僕は、そんな彼女の本心を唯一きちんと分かっている人間だと、自惚れていた。

 真実はまるで違ったのに。

「僕だけが、本当の君を知っているんだよね。だって、君がそんな顔をするのは僕に対してだけだもの」

 ある時、いよいよ浮かれた僕はそんなことを彼女に言った。

 すると彼女は、やはり普段と同様に淡々と、

「だって、あなたがそれを望んだじゃない」

 その瞬間、僕ははっとした。直後にぞっとした。

 言われた意味を理解したからだ。要するに彼女は、単に僕自身が選んだ"仮面"をだけだった。

僕は感情を抑えきれなかった。

「君は、相手が望めば何でもするのか?」

「どうかしら」

 彼女はイエスともノーも答えなかった。いや、仮にどちらかを言われた所で、もうどちらも偽りとしか受け取れなかっただろう。そう考えると、それはおそらく、彼女が唯一、僕に見せた優しさだった。

 しかし、僕はその優しさに気付けず、

「なら、僕と付き合ってくれよ」

 売り言葉で買い言葉、それはまさにそんな告白だった。

「良いわよ。じゃあ、あなたは今日から私の彼氏ね」

 彼女は心底から退屈そうに頷いた。

 そうして僕らは「恋人」になった。笑顔なんて欠片も無いままに。

 しばらくして、周囲の生徒から僕に対する接し方が変わったと確信したのは、僕の靴箱に生ゴミが詰め込まれていた時だった。それは、「学校の人気者と付き合っている地味な生徒」に対する嫉妬であり、単に「地味な生徒」に対するイジメであった。

 直接的な暴力こそなかったものの、イジメは日を追う毎にエスカレートした。

「こうなったのは、あなたが私と付き合ったせいよ。あなたが望んだことなのよ」

 精神的に追い詰められつつあった"恋人"に対してさえ、彼女はつまらなさそうに言った。

「いつでも止めて良いのに」

 正直に言って、僕は怒るよりも、悲しむよりも、ただ驚いた。せめて、ほんの少しでも、僕に対する気持ちが他とは違って特別なものであったなら、きっと僕はもの凄く怒って、悲しんで、そうして諦められていただろう。

 僕の心に仄暗い灯がともったのは、その瞬間だった。

「僕は別れないよ」

「そっか」

 彼女は泣きも笑いもしなかった。

 イジメは相変わらず続いた。だけど同時に、僕はそれこそ彼女と望むがままに付き合った。キスもした。セックスもした。その度に、精巧な人形を抱いている感覚に陥ったけれど、彼女は僕が望んだ通りに相手をした。受験が忙しくなれば、自然とイジメは減っていた。

 高校を卒業し、僕らは一緒の大学へ進んだ。同棲もした。旅行もした。

 彼女が初めて、僕の望みを断ったのは、就職の内定先も決まり、もうじき大学を卒業しようかという時だった。

「大学を出たら結婚して欲しい」

 奮発して予約した高級レストランで、豪華なディナーを囲みながら、僕はテーブルの向こう側へと安物の指輪を差し出した。

「それは、無理」

 びっくりした。断られるだなんて、想像してもいなかった。プロポーズ成功を祝って出てくるはずのケーキをギャルソンさんが運ぼうとして、僕は慌てて止めた。

「いや、ちょっと待ってくれよ。それは、あれかな。まだ、社会人にもなってないから、早いってこと?」

「いいえ、違うわ。あなたとの関係は、学生時代で終わりってこと」

「そんな! どうして!」

「あなたは結局、本当の私を見付けられなかったから」

 言われて、はっとした。ただし、ぞっとはしなかった。その代わり、心臓がきゅうと鳴った。

「……そんなこと、君は一度も言わなかったじゃないか」

「あなたが望んでいなかったから」

「それなら、どうやって僕と別れるつもりだったんだ? 何も言わずに、去るつもりだったのか?」

「いいえ」

「なら、どうやって」

「最初と同じ」

「最初?」

「あなたは今日からただの他人ね。それだけのことよ」

「まさか、そんな風に別れられると思っていたのか?」

 僕がそう言った瞬間だった。

 初めて、彼女が僕に笑いかけた。それは、いつか見た、ダメな夫と知りながらも家を出ない妻のような笑い方だった。

「まさか、こんな風に最後まで一緒にいられると思っていたの?」

 僕には最早、彼女を止める術が分からなかった。

「……教えてくれよ。僕は一体、どうすれば良かったんだ」

 彼女はしばらく黙っていたが、僕が再び「教えてくれよ」と言うと、ややあってから、

「私は、何も選んで欲しく無かったわ」

「それは、どういう意味だい」

「私は、最初に『どっちが良い?』って聞いた。それにあなたは『一つ』を選んだ」

「それは、だって君が聞いたから。それに、あの時の僕はずっと君を見ていて、本当の君の姿は」

「どうしてあなたは、『どっちも君だ』と言ってくれなかったのかしらね。どんな顔をしている時も、それを全てまとめて『本当の私』だと思ってくれなかったのかしらね」

「………………」

「私は仮面を被っていたんじゃないの。私には何も無かったんじゃない。私にはただ、ありすぎた。だから、その時々に要らないものを脱いでいただけ」

 それはまるで、全ての色を混ぜ合わせれば黒になってしまうように。

 それはまるで、黒から赤と青を綺麗に捨て去って純粋な黄色を求めるように。

 改めて、僕は思い知らされた。僕もまた、彼女に、僕にとって都合の良い"望み"を押しつけていたのだと――いや、違う。そうじゃない。僕は、僕自身が"望まない"ものこそを彼女に押しつけていたのだ。

「私はあなたとは結ばれない。だって、今の私は普段に外していた"もの"を一枚、元に戻しただけなのに、それでもあなたはもう何も言えない」

 だとすれば、僕らの終わりは、始まりの直後から決まっていた。

「……君は、僕を恨んでいたのか? 最初から?」

「どうしてそう思うの?」

「僕が、あの頃の君から、から」

 いや、或いはもっと他にも多くのものを。

 そして、そうやって、まるでタマネギの皮を剥き続けるかのように、彼女の大切な"一面"を捨て去り続ければ……。

 そこにいるのはもう、彼女でなく、それこそ空っぽの人形だ。

 結局、彼女が僕を恨んでいたのかどうか、彼女が答えてくれることは最後まで無かった。

 ただ、やがて先にレストランを後にしていた彼女に続いて、深夜に僕が帰宅した時、二人の部屋に彼女の私物は残っていなかった。いつから計画していたのかは知らないが、きっといつでも実行できるようにしていたのだろう。

 大学を出て、僕は引き籠もった。幸い、結婚資金にと貯めていたお金が少しあった。

 しばらくして、風の噂で、彼女が別の街へ移ったと聞いた。

 もう二度と、彼女の姿を見ることさえ出来ないかも知れない。

 その時になってようやく、僕は自分が本当に彼女との未来を望んでいたのだと自覚した。

 僕はありったけの貯金を医者に渡して顔を変えた。

 全てをやり直す為に。今度こそ、本当の彼女を見付ける為に。

 僕は二度と外せない仮面を顔に貼り付けた。

 紅葉色をした並木道が終わり、僕の目には黒いアスファルトの道が見える。

 周囲には通勤や通学で急ぐ人々の姿が溢れている。

 そして僕もその波へと沈んでいく。

 人の表情と喧噪が何度も何度も入れ替わる。

 毎朝7時45分。遅れることのないバスが来る。

 僕の"観察"は始まったばかりだ。

〈了〉

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