二.十一月三日、五日。敵軍は五十万、オレらは頑張っても一万。

超訳

 最初に襄陽守備の辞令が下ってから、早、半年以上が過ぎた。


 十一月三日、臨安府の朝廷よりお達しがあって、兄貴が知襄陽府を兼ねることになった。


「知どこそこ」っていう肩書は、もとはと言えば「どこそこの政治の面倒を見る」って意味だ。襄陽府知事っつったらわかりやすいか?


 でも、今のご時世、「知どこそこ」なんてのは実体のない看板に過ぎなくて、タコ金と国境を接している城市の防衛を命じられた武人にホイホイと与えられる程度の代物だ。


 とはいえ、これで兄貴は、襄陽でいちばんのボスというお墨付きをもらったってわけ。しかも、襄陽は現状、宋でいちばんの軍事的要衝だ。


「気を抜いちゃいられねぇな」


 兄貴は、いかつい顔で頼もしげに笑ってみせた。一千年近く前、この襄陽近辺でも大暴れした蜀漢の英雄、関羽も、兄貴みたいな人だったのかな(*1)。いや、関羽に例えるのは縁起が悪すぎるか(*2)。


 そうだ、このへんで説明しておく必要があるな。襄陽は、大昔から争奪の的になってきた城市まちだ。理由は、その立地にある。


 襄陽は、北の黄河流域のエリアと南の長江流域のエリアの結節点にある。南北を分かつのはわいで、これより北を華北、南を華南と呼ぶ。華北の中原が、オレたち漢族の文明発祥の地だ。今はタコ金に奪われちまっているけどな。


 襄陽の重要性についてイメージしやすいのは、タコ金軍の側に立つ場合だろう。華北に拠点を持つ連中が華南の宋へ攻め入りたいとき、まずは襄陽を落とさなければならない。


 なぜなら、襄陽は大河、漢江のほとりに位置している。漢江は西から来て、襄陽を過ぎたあたりで南に折れ、やがて長江に合流する。こうした川や運河や水路が、中国の南半分においてはめちゃくちゃ重要なんだ。


「南船北馬」って言葉を聞いたことがあるか? せわしなく旅をするって意味なんだが、注目してほしいのは交通手段だ。つまり、中国の南側を旅するなら船で、北側は馬を使うってことが、ここにハッキリ示されている(*3)。


 タコ金が宋の臨安府まで攻め落とすには、船じゃなけりゃ難しい。船で臨安府へ到達するには、長江とそこから伸びる大運河に乗り入れなきゃならない。船を長江に進めるには、まず、その最大の支流である漢江を占める必要がある。


 そして、漢江を取るには、襄陽を落とさなければならない。


 襄陽は漢江の南岸に建っている。川を挟んで対岸、およそ一里の向こうには、双子の弟分みたいなはんじょうが建っている(*4)。


 漢江は厄介な川で、浅瀬や暗礁、中洲が多いし、やたら流れが速い場所やら季節によっては地中に隠れる支流やらがあって、簡単に航行したり渡ったりできない。そもそも、ほとんどの場所で川の両岸は断崖絶壁になっているから、近付くことさえ難しい。


 北から進軍してきたとき、最初に出くわす「最も安全な港」が襄陽と樊城だ。だから、繰り返しになるが襄陽は大昔から火薬庫で(*5)、有名どころで言えば漢の終わりから三国時代にかけては漢の劉表が、孫堅や孫策、孫権と激しく戦った(*6)。


 ああ、有名どころといえば、三国時代随一の名軍師と名高い諸葛亮も、襄陽にゆかりが深い。襄陽の近郊にあるりゅうちゅうざんに引きこもっていたところを劉備に説得されて、蜀漢の軍中に赴いたんだ(*7)。襄陽じゃ地元の英雄ってことで、諸葛亮の人気も抜群だ(*8)。


 説話はオレも好きでさ、特に軍記物や英雄譚にはワクワクする。恋愛物も悪くないけど。オレは字が割と自由にできるから、話本を読んだりもする。士大夫が好きこのむ詩のよさはわからねぇが、詞は好きだ(*9)。


 って、横道に逸れちまったな。話をもとに戻そう。


 さて、軍事的キーポイントである襄陽に着任したオレたちだが、むろん、武器を執ったことのない一般人も城内には住んでいる。いろんな軍閥ヤクザがこの界隈に集結してはいるものの、戦えるのは、せいぜい一万ってところじゃないか?


 一方、タコ金軍の兵力はマジでシャレにならなくて、総勢五十万をごうしていやがる。それを三つに分けて宋の領内に攻め入ろうって腹らしい。すでにタコ金軍を迎え撃った城市からは次々と悲惨な報告が入ってきている。


 十一月五日、そうようが攻められた(*10)。ここを守っていた統領のきょう、張虎、韓源が戦死。統領ってのは分隊長クラスだ。そう簡単に死ぬ程度のやつでもなかったんだろうに。


 タコ金軍は数に物を言わせて棗陽を包囲。統制のようせいや馬謹が軍勢を率いて、どうにか包囲網を突破した。統制は、統領の一つ上のランクに当たる。統領が戦死した穴を、雍政や馬謹は何とかして埋め合わせたわけだ。


「始まったな」


 ポツリとつぶやくと、兄貴はオレの背中をバシンと叩いた。


「気合いを入れておけ。おまえは目端が利くからな、信用してるぜ。俺の背中を守ったり、俺の耳目となったり、ガッツリ働け」

「わかってますよ」


 明日には戦場に駆り出されて死ぬかもしれない。

 身震いは、武者震いだ。



――――――――――



(*1)

一千年近く前


 三国時代のこと。一八四年の黄巾の乱から二八〇年の西晋による統一まで。襄陽絡みのバトルは一九〇年代から始まっており、その防衛を担った漢の劉表が二〇八年に死去してから、曹操率いる魏による南方侵略が本格化する。


 このへんを詳述すると超絶長くなるので割愛。興味があるかたは書店か図書館か漫画喫茶へどうぞ。ちなみに、日本では弥生時代で、卑弥呼の文通相手は曹操の息子。


 一二〇六年にこの記録を付けている趙萬年からすると、三国時代は約千年前ということになる。



(*2)

関羽に例えるのは縁起が悪すぎる


 二一九年に起こった樊城の戦いの末、関羽は呉軍に捕らわれ、斬首された。


 樊城の戦いは、魏・呉・蜀漢による三つ巴のドロドロ怨憎劇。私情が入りまくった展開が連発する。


 魏が襄陽とその双子都市の樊城を領有していたところ、関羽が陣頭に立つ蜀漢軍が攻め入って包囲し、水軍を巧みに使って魏軍を撃破した。関羽は勝利に乗じ、襄樊両城を包囲して兵糧攻めを展開。


 関羽の勝利によって魏には動揺が走るが、魏は呉に呼び掛けて関羽の背後を突かせる。呉軍の攻勢と時を同じくし、関羽は部下の裏切りを受けて敗北。襄樊両城を放棄して逃走する最中、関羽は討たれる。



(*3)

南船北馬


 紀元前二世紀に成立した『なん』巻十一「斉俗訓」が典拠と言われるが、原文を見ると「せわしなく旅をする」とする後世の解釈とはニュアンスが違う。


「各有所宜、而人性齊矣。胡人便於馬、越人便於舟、異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴」


 人間には皆等しく、それぞれに優れたところがあるものだ。北方の民族は馬をよく扱い、南方の民族は舟をよく使い、姿かたちや技量の種類が異なり、従事することがらを変えれば失敗し、技量を振るうのにふさわしい場所を過つのはよろしくなく、時と場がかなえば素晴らしい。


 この「胡人、馬に便なり、越人、舟に便なり」が「南船北馬」の語源とのことだが、『淮南子』で言われているのは「適材適所」だ。


 ちなみに、中国正史を始め東洋史の資料を多数公開している維基文庫で「南船北馬」の検索をかけると、元のクビライの下で活躍した宋の皇族で政治家で書家で画家の趙孟頫(一二五四‐一三二二)の詩がヒットした。


「欽頌世祖皇帝聖徳詩

 東海西山壯帝居 聚皇都

 一時人物從天降 萬里車書自古無

 秦漢縱强多霸略 晉唐雖美乏雄圖

 經天緯地規模逺 代代神孫仰聖謨」


 世祖皇帝聖徳クビライさまに献上する詩。陛下は東西南北に広がる遠大な国土、をお持ちです。あるとき世界が生まれ、交通や文字や度量衡が不統一であったところ、歴代の強国が統一を成してきました。時間空間の両方において、陛下と御子孫の支配が及ばんことを願っております。


 ……みたいな感じじゃないかと思うけど、詩の解釈はまったくもって自信がない。ただ「南船北馬」が『淮南子』と同じニュアンスで使われていることは確かだろう。趙萬年が現代的な意味で「南船北馬」を使うのはメタフィクション的というか。まあ、カタカナ外来語も使っているから、よしとするか。


 なお「せわしなく旅をする」意味での用例は、ウィ文庫の検索結果を見る範囲では、清代にまで下る模様。調べ始めるとキリがないので、このあたりで南船北馬論を閉じることにする。



(*4)

およそ一里


 宋代の一里は約五百六十一.一メートル。伝統的に、中国の一里はおよそ五百メートルであり、現代でも一市里=五百メートルとする単位は残っている。


 ゆえに万里の長城は五千キロメートルのグレートウォールということになる。が、現存する城壁は合計六千二百キロを超えるらしいし、歴史上では二万里を超えた時期もあったらしいので、万里との呼称は、実は控えめに言っている。



(*5)

火薬庫


 この時代、すでに黒色火薬が発明されている。後ほど、火薬を搭載して爆発する仕組みの「せん」も本文中に登場する。



(*6)

漢の劉表


 一九一年、襄陽の戦いにおいて、襄陽と樊城の守備を担っていた漢の政治家、劉表は、孫堅の激しい攻勢にさらされる。劉表は多大な犠牲を出しながらも、闇夜に紛れて総大将の孫堅を討ち取ったことで、どうにか敵軍を撃退。


 その後、劉表は、死去する二〇八年まで、孫堅の子の孫策・孫権の攻撃を防ぎ続けた。



(*7)

諸葛亮


 有名な「三顧の礼」のくだりは『三國志』巻三十五、蜀書五、諸葛亮伝に見える。

「庶曰「此人可就見、不可屈致也。將軍宜枉駕顧之」由是先主遂詣亮、凡三往、乃見。」


 劉備は徐庶に「諸葛孔明は臥龍だから、年下の引きこもりの変人ですが、常識を曲げてでも、とにかく会ってスカウトしてきてください」と勧められ、三回訪ねていって、ようやく初めて会えた。


 小説として脚色された『三国志演義』だけではなく、その元ネタとなった正史『三國志』にも登場するエピソード。


 隆中山は、『万暦襄陽府志』巻六、山川によると、襄陽の西三十里(十七.二八キロメートル。明代の里程換算)にある。景色がよく由緒もある名所として知られていた。



(*8)

諸葛亮の人気も抜群


 別に地元贔屓がなくても、諸葛亮は人気があった模様。


 北宋の徽宗の宣和五年 (一一二三年)の記録によると、武廟には歴代の英雄的武将が七十四人、祀られており、殿上のセンターは戦国時代の燕の武成王(太公望のこと)で、この章で引き合いに出している三国時代からは以下の人々が選抜メンバーに入っている。


 (殿上東側)諸葛亮

 (殿上西側)韓信

 (東棟)鄧艾、張飛、呂蒙、陸抗

 (西棟)張遼、關羽、周瑜、陸遜、羊祜


 関羽や張飛より諸葛亮のほうが武神としての位が高いと認識されていたらしい。



(*9)

説話、話本、詞


 いずれも宋代に流行した芸能。物語を語って聞かせる話芸を説話と呼ぶ、説話を書き記したものを話本と呼ぶ。『三國志平話』という作品が存在し、これが後の明代に『三国志演義』として書かれた。


 詞は、各句の字数が五言や七言に定まった詩と違い、一見するとフリーダム。実は詞調(メロディ)ごとに定められた形式があり、押韻のルールも決まっている。また、お堅い内容が多い詩と違い、詞では庶民的な恋愛をテーマにしたものも多い。


 例えば、陸游とその元妻が交わした詞がこちら。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884142738/episodes/1177354054884143783

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884142738/episodes/1177354054884143811



(*10)

棗陽


 現在の湖北省襄陽市にある棗陽市。『万暦襄陽府志』巻一によると、襄陽の東北にあり、襄陽との境まで七十里(約四十.三キロメートル。明代の里程換算)。

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