あきらめたらそこでツアーは終了ですよ?

守賀透

全章

 まもなく目的地に到着だ。

 手元の時計で、現在時間を確認する。到着予定時刻から五分早い。マニュアル本の誤差の範囲内だ。

 大丈夫、落ち着け。自分に言い聞かせる。

 しゃべる前はいつだって緊張してしまう。わずかに高鳴る胸。

 背筋を伸ばす。口角をくっと持ち上げる。

 わたしはシートベルトを外して、立ち上がった。

 四角いバスマイクを口元に近づけた。

 親指の腹で、マイクのスイッチを押し込む。ちいさな雑音を拾って、霧のようにかすかなノイズが走った。

 朝の第一声が、お客さまのハートをつかむ。わたしの持論だ。

 お客さまは、旅行中なんども値踏みするものなのだ。本当に信用に足る添乗員なのかと。

 気合いを込めて、ぐっと下腹に力を入れる。

「みなさま、おはようございます! 日本時間に換算すると、今は朝の十時です」

 バドミントンのラケットに、羽(シャトル)がクリーンヒットしたようなスコンと抜ける声。よっし、いい挨拶ができた。こういう日は、一日じゅう気分がいい。

 おはようございます、と元気な声が返ってきた。

 うんと控えめに表現しても最高だ。朝日を浴びるように、その返事を全身で味わう。細胞が歓喜している。お客さまのワクワク感。これがなくちゃ、添乗員なんてやってられない。わたしの活力。営業スマイルではない微笑が自然とこぼれる。

 ツアー客は四人。かなりの少人数である。ツアーの直前で、二名のドタキャンがでた。ふつうは中止にするが、今回は強行されたのだった。

 会社の資金繰りが苦しいのかもしれない、と上司がぼやいていた。そうかもしれないな。前年度に比べて旅行者数は十二パーセント増えたが、旅行会社も増えた。価格競争で一度下げた単価は、なかなか上げられない。薄給だし、残業代がでないこともしばしば。

 同僚の宗光なんて、「こんな会社辞めてやる」と一日に三回は口にしている。

 とはいえ、そんな裏事情はお客さまに関係ない。

 なにより、わたしは添乗員の仕事を愛しているのだ。

「改めてご紹介させていただきます。わたくし、添乗員を務めさせていただく月館結月(つきだてゆづき)と申します。どうぞよろしくお願いします」

 優しい添乗員に映るように心がける。唇を引くのではなく、口角を持ち上げるようにするのが笑顔のコツだ。

「覚えていたよー、というかた……。あら少ないですね。いいんです、いいんです。今から覚えてくだされば。もう一度いいますね。わたしは、つきだてゆづき。名前のなかにツキがふたつ。ラッキーって感じでおめでたい名前でしょう。よく先輩からおめでたいやつなんていわれちゃって……あ、それは意味が違いますね」

 何人かが笑う。よしっ、と心のなかで握りこぶし。なんでもいい。心の垣根を壊すのが目的だ。

「奇しくも、みなさまが今から訪れる異世界『ウェヴェルエント』には月がふたつございます」

 そう説明しつつ、わたしは、3Dプロジェクターのボタンを押した。

 ドビュッシーの『月の光』の旋律が流れる。車内の中空に、月がふたつ浮かんでいる写真が表示された。オレンジの月と、緑の月。

 おおーという歓声。

 映写されているのは、もちろん地球ではない。

 ――異世界ウェヴェルエント。

 今から百年ほど前のこと、某国の政府によって、地球とはまったく異なる世界の存在が公表された。地球より遙かに広大なその惑星では、二百億人ほどの青い肌の知的生命体が暮らしていた。外見は比較的人間に近い。電気工学や化学工学の分野では地球のほうが発達しているが、その代わり魔法――人間の目からみてだが――を操る。魔法には、炎・氷・雷・土と、四系統の魔法が存在する。

 異世界ウェヴェルエントに一般人が旅行できるようになったのが、三十年ほど前。異世界転移技術も、日進月歩の進化である。

 ……といっても、わたしからすれば、物心ついたときから異世界というのは身近に存在していたのだけれど。

 そういえば、数年ほど前、『神隠し』から戻ってきた人物――いわゆる帰還者のコメントを、ドキュメンタリー番組でみたことがある。ある日、人間が忽然と消えてしまう。かつて神隠しや天狗隠しと称されていたその現象も、半数近くは異世界に転移したことが原因ではないか、というのが現在の定説だ。男性は「僕は二百年以上前の異世界に転移した」と証言していた。彼のいうことを信じるならば、神隠しによって、人間が時間軸を移動したことになる。

 異世界転移の手法が確立したとはいえ、人類の技術力は、まだタイムマシンを発明するには至っていない。

 異世界ツアーには、不確定要素が高いということだろう。

 だからマニュアルに沿った適切な対応が必要なのである。まあ、上司からは「おめでたいほど頭が固いな」とよく指摘されてしまうのだが……。

 お客さまに日程の説明を終えた。

 席に着くと、わたしはタブレットを取りだして、自社のウェブページにアクセスしようとする。さっそく到着の報告だ。

 だが、

「あれ? またか」

 自社のサーバーがダウンしている。最近多いのだ。

 マニュアルどおりに作業しないと、どうにも落ち着かない。

 だがどうしようもない。あとにするか。


 一日のスケジュールを終えて、宿泊予定のホテルに到着した。

 今日のツアーでは、『軍神ナヴィ』の伝説にまつわる遺跡を巡った。軍神ナヴィは、かつて四系統すべての魔法を駆使し、獣の王を撃退したとされている伝説の勇者だ。日本でいうなら、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトといったところだろうか。

「早く寝て、出発時刻に遅れないように気をつけてくださいね。明日も期待していてくださいね。思わず『嘘っ』と叫んでしまうような、新体験が待っていると思いますよ」

 そうであるといい。

 お客さまの満足そうな笑みを想像する。

 わたしは頬が緩むのを感じていた……のだけれど。


   ※


「嘘でしょっ! 満室?」

 グァプホテル一階のロビーに声が響く。ほかの誰でもないわたしの声だ。

 はっと我に返った。ダメだ。お客さまに動揺を与えてしまっては。一瞬で冷静になる。声のトーンを落として話すよう心がける。

「ホテルが満室って、どういうことですか?」

 グァプホテルは『超』がふたつほどつく格安ホテルだ。日本のビジネスホテルのほうが、ずっと対応も設備もいい。アメニティーグッズが補充されておらず、苦情が寄せられたこともある。それでも、予約を受け忘れるなんて考えられないレベルのミスだ。

「バウチャーだってあるんですよ」

 バウチャーというのは、予約・代金支払いと引き換えに発行される証票のことだ。それを提示することによって、当該のサービスを受けられる。よってホテルバウチャーというのは、そのホテルを予約したことを証明する券である。

 受付は、ブルーベリーのように青い肌をした三つ目の女だった。目の下にタトゥーのような模様が入っている。おでこにある目玉がぎょろりと動き、こちらをみる。

「バウチャーは無効です。期限までに入金されなかったので、部屋の確保がキャンセルとなりました。くわしくはそちらの会社に問い合わせてください」

 けだるそうに三つ目の女がいう。

 入金ミス? 振込先を間違えてしまったとか。でもそんなことありえる? このホテルを使うのは今回が初めてではない。振込先は登録してあるはずなのに。

 頭のなかは、はてなマークで満載だ。

 こういうときは……マニュアルだ。

 使い込んでボロボロのマニュアル本を取りだす。該当しそうなページをバサバサめくった。だがどこにも対処法が載っていない。

 ええい、ひとりで考えても埒があかない。とにかく、会社に確認しなくては。

 玄関に、軍神ナヴィの像が飾られていた。その横を通り抜ける。回転ドアを押して、ホテルの外にでる。タブレット型の通信機器をだした。イヤフォンを装着する。特殊な回路が組み込まれていて、異世界間でも通信できるようになっている。だが繋がらない。電話が混み合っているようだ。

 あきらめて、上司のケータイ電話に連絡を取ってみる。

 なかなか取らない。じれる。

 七コール目で上司がでた。

「お疲れ様です。月館です。ホテルに入金がされていないって。どうなっているんですか」

 ああ、と投げやりな上司の声。

「逃げたんだよ、宗光が。置き手紙を残して雲隠れ」

「はっ?」

「ふざけやがって。手配もぜんぜんしてやがらねぇの」

 ガシャンとなにかを蹴るような音が聞こえた。

 よろりと足がぐらつく。嘘、嘘?

 マジですか。

 たしかに不平は述べていたけれど。

 だからって振り込みもせずに逃げるか? あの野郎!

「ちょ、ちょっと待ってください。どうすればいいんですか」

 マニュアル本に載っていないことが連続で押し寄せてきて、パニックになった。

「べ、別のホテルの手配をお願いしたいんですが」

「知るか。そっちで考えろ。こっちも大変なんだ」

 ぶつっ。通信が途絶えた。

 信じられない。

 もう一度かけ直す。なんどコールしても、もう上司はでなかった。

 背中を冷たい汗がつたう。この旅行をどうしよう。

「あの……」

「はいっ!」

 ふいに話しかけられて心臓が跳ね上がる。

「なにかトラブルですか?」

 お客さまだった。大学生の舟橋さんだ。

 不安そうな表情だ。

 反射的に口角をつり上げ、営業スマイルを作る。

「お疲れのところ申し訳ありません。もう少々お待ちください」

 パニックになっている場合じゃない。

 旅行は人生の思い出になる。異世界旅行なんて、なんども経験できるわけではない。この旅行をするために、お金を稼いできている人もいるはずなのだ。

 わたしはきびすを返すと、ふたたび回転ドアをくぐった。そのまま三つ目の女のところに、つかつかと歩いていく。

 また来たのか。そういいたげな嘆息。

「すみません。別のホテルを紹介してくださいませんか」

 なにもいわず額の目をそらされた。余計な仕事を増やされるのはごめんだといわんばかりだ。

「期限までに入金しなかったことは謝ります。でも通達もなしにキャンセルするのはマナー違反です!」

 三つ目の女が鼻で笑った。つっと、青い指が目の前に突きつけられる。その指先から、拳ほどの氷のカタマリが出現した。

 一瞬にして気温が下がり、わたしの前髪が凍りつく。思わず上半身を引いた。

「ロビーではお静かに願います」

 そういうと、小馬鹿にするように、三つ目の女が唇をゆがめた。

 氷の魔法だ。

 この異世界の住人は、四系統いずれかの魔法を使える。いや違う。正確にいうと、この異世界ウェヴェルエントでは、誰でも魔法を使える。

 地球人であっても、じつは訓練次第で魔法を操れる。上司なんかは、自在に氷をだして、ウィスキーをロックで飲んでいた。じつに実用的である。わたしは、炎の系統。練習してみたけれど、マッチくらいの火を一瞬だすのが精いっぱいだった。上司からは、切れかけのライターという不名誉なあだ名を頂戴した。

 氷を指の上に浮かべたまま、三つ目の女は、指をくるくると回した。

 あんまりな対応だ。

 こんなホテルに、大切なお客さまを宿泊させようとしていたのか。そのことに腹が立つ。安いことしか取り柄がない。しかし、そのホテルに決めたのはわたしの会社だ。ならばその添乗員のわたしがなんとかしないと。

 添乗員を舐めるなってんだ。

 さっと右手を伸ばすと、氷ごと彼女の指をつかんだ。針を刺したような痛みが、手のひらに走る。

「なっ?」

 相手が引き抜こうとした指をぎゅっとつかむ。離してやるものか。

「お願いします。別のホテルを紹介してください」

 お客さまの安全がかかっているのだ。

「わたしは添乗員です。お客さまは不安になっています」

 しばらくにらみ合う。

 三つ目の女が、強引に指を振りほどいた。

「もう。わかったって」

 とたんに砕けた口調になる。

 根負けしたというような顔つきだ。

「ここから北東の方角に行けば『ウリグィ』というホテルがある。そこなら部屋の空きがあるはずよ」

 とりあえず礼をいった。

 胸がドキドキしている。こんなのマニュアル本にはぜったいに載っていないだろう。

「気をつけな。たまに金猩猩(ゴルデモ)がでるよ」

 金猩猩というのは、金色の毛を持つ哺乳動物だ。外見はゴリラに似ている。体長は雄で二メートルほど。肉食。知性が高く、群れで人間を襲うこともある。蔓繚果(マリョカ)の実で興奮し、攻撃性が増すという。

 上司が持ち帰ったその実をみたことがある。無数のとげがでていて、ちょうどチョウセンアサガオの実のような形状だった。匂いも嗅いでみた。塩昆布みたいな香りで、こんな匂いで興奮するのかと思った覚えがある。日本人ならむしろ気が鎮まる匂いだ。

「安心しなよ。万が一の事故があれば、あんたの家族が面会に来るまで、腐らないように冷やしといてあげるよ」

 三つ目の女が、指先から氷をだしていった。

 やかましい。

 そう思ってにらむと、三つ目の女はケラケラと笑った。


   ※


 三つ目の女のいったとおり、ウリグィホテルには空きがあった。とりあえず、四部屋を確保する。

 あとは、お客さまに説明と謝罪をしなければならない。

 別のホテルに移動しなければならない旨を告げたところ、いちばん激高したのは藤原唯舞(ふじわらいぶ)さんだった。

「どういうことなのよ! 部屋がないって。おまけに歩けって? いやよ。わたしクタクタなんだよ。シャワーだって浴びたいし」

 今回のツアー客は四人。

 藤原唯舞(ふじわらいぶ)さんと、その恋人の小野寺充さん。

 最年長は、帆谷七海(ほだてななみ)さん。七十二歳。

 そして、彼女の孫。大学二回生の舟橋(ふなばし)めぐみさん。

 ウリグィホテルまで移動するバスは、残念ながら用意できなかった。異世界を運行できるバスの所持数は、会社の規模によって法律で制限されている。そのすべての便が、別のツアーで出払っていた。

 別のホテルまで、徒歩で二時間弱かかる。

 頭を下げるほかない。喜んでほしい相手を怒らせてしまうのは本当につらい。

「申し訳ありません。明日からの予定は、通常どおり行うことができますので」

 なんども繰り返したセリフをいう。

 確認してみたところ、バスを手配してくれる観光会社への入金は完了していた。不幸中の幸いってやつだ。地球時間にして明日の朝八時半に、移動先のホテルに迎えに来てもらえる算段がついている。

「そもそもさぁ――」

「イブぴょん、もういいんじゃないか? 添乗員さんを責めても、時間が遅れるだけだし」

 小野寺さんが助け船をだしてくれた。

 ……イブぴょん?

「えー、充きゅん。野生の猿もでるっていっているし。イブぴょん怖いよぅ」

 ひまわりの種を頬袋に詰めたリスのように、ぷっくりと頬を膨らませてみせる藤原さん。……改めイブぴょん。

 小野寺さんが指を左右に振ってみせる。

「じゃあ、イブぴょんに質問です。小学二年生から武道を習っている俺は、空手何段だと思いますか?」

「……三十五段」

「当たり。正解のキス」

「んっ」

 船橋さんがそっと視線をそらす。うん、さすがにわたしもみてらんない。あと空手は十段までです。

「なんだろね。このバカップルは」と帆谷さんがぽつり。

 添乗員としてノーコメントでございます。

 きっとお互いの姿しか見えていないのだろう。ふたりは潤んだ瞳で見つめ合っている。まさしく、世界はふたりのために。

「じゃあ、金猩猩も退治できるの?」

「余裕。向こうのパンチをガードしてからの、ボディに一撃(ワンパン)でKOだね」

「ちょっとお待ちください!」

 その軽率な発言は聞き逃せない。

 金猩猩に遭遇するというのは、森のなかで腹ぺこの熊さんに出会うくらい危険なのである。現に、ここ異世界ウェヴェルエントでは、金猩猩に襲われて死亡する人が一年に数名はでる。

 ふたりに滔々と説教したあと、ホテルを出発した。


   ※


 空にはオレンジの月と、緑の月が昇っている。なんて幻想的なんだろう。

 イレギュラー続きの旅行だが、それでも案内の旗をにぎれば無尽蔵のエネルギーがわいてくる。

「伝説によると、あのふたつの月には、それぞれ恋人が別れて暮らしているそうです。日本でいうところの織姫と彦星みたいですね。ふたつの月が重なってみえるのは、五年に一度。そのときにしか会えないそうです」

 解説しつつ、懐中電灯を手に持って、山道を先導する。

「えー、充きゅんと五年も会えなかったら、イブ死んじゃう」

「俺、イブぴょんと五分会えないだけで淋しい」

「充きゅん……」

「イブぴょん……」

 慣れてくると、面白いお客さまである。

「ちょっと月館さん」

 ふいに、お孫さんの船橋さんに耳打ちされた。

「なんでしょうか」

「もう少し歩行スピードを落としてもらえますか? 祖母が」

 はっとなった。いくら若くみえても帆谷さんは七十二歳なのだ。

「すみません」

 自分の軽率さを恥じる。

「余計なこというんじゃないよ、めぐみ。年寄り扱いはよして」

「でも七海おばあちゃん、だんだん遅れてきているし」

 しわの入った顎で、帆谷さんがカップルをさす。

「あの連中から距離を取りたいだけだよ」

「お祖母ちゃん!」と、孫の舟橋さんが諫める。

 その噂のふたりが近づいてきた。

「添乗員さん。もっとスピード上げてくれないかな。逆に疲れちゃうよ」

「申し訳ありません。ですが足下が暗いので、みなさまが揃って歩いていただかないと危険です」

「エー、最悪」とイブぴょん。

「ねえ。本当なら、今頃はホテルのベッドで夢のなかだよ。それなのに山道を歩かされているんだ。それくらいのお願いも聞いてもらえないわけ?」

 言葉に詰まった。そこを突かれると弱い。

「わたしのことは放って、先にいけばいい」と帆谷さん。

「ほら、婆さんもそういってるし」

 マニュアルには、何度も説明してご理解いただく……ということになるのだが。余計にこじれそうだ。

 わたしはため息をついた。

「わたしからみえる範囲内にいてくださいね」

「了解」

 カップルはお互いの臀部をなで回しながら、先に歩いていく。そのまま、どこぞの暗がりに消えていきかねない。目を光らせておかなくてはと思う。

「なにかお手伝いできることはありませんか?」

「心配は無用。あんたこそ息切れしているじゃないか」

「七海ばあちゃんは頑固ものなんです。お祖父さんが亡くなってからも、ひとりで山奥に住んで……。お母さんも、近くに住んでほしいっていってるんですけどね」

「わたしはひとりで大丈夫。そうやって生きてきたんだ」

 三十代のときに輸入雑貨販売の会社を興し、切り盛りしていたそうだ。

「あっ」

 そのとき、帆谷さんが石につまづいた。

「やっぱり荷物をお持ちします。そのほうが……痛っ!」

 指先にしびれが走った。

「聞いたことないかい? ちいさな親切おおきなお世話って」

 驚いて、帆谷さんの手をみた。血管の浮いた手から、プラズマに似た紫色の光が放電している。

 これは……雷の魔法だ。しかも相当使いこなしている。

「七海おばあちゃん。それって魔法! 異世界のツアーは初めてっていってたのに」

「この年になると、ひとつやふたつ、秘密があるもんだよ」

 そういって、帆谷さんは目尻にしわを作った。

「わたしのことは心配しなくていいといったろう。それよりあのカップルはなにをしているんだい?」

「えっ?」

 わたしは前方に目をこらした。

 たしかに、ただ歩いているだけではない。なにかを道にばらまいているような……。

 胸のなかに暗雲が広がっていく。

「無理のないペースで来てくださいね」

 そう言い残して、わたしはふたりの元に駆けつけた。

「あっ」

 わたしが近づいたことに気づいた小野寺さんが、後ろ手になにかを隠した。

「なにしているんですか!」

「えっ」

「今隠したものをみせてください」

 わたしは手を伸ばした。

 観念したように、小野寺さんが袋をだした。そのパッケージには『しお昆布』と表記されている。

 ぞっとした。

 蔓繚果の実が放つ香りには、金猩猩の攻撃性を増やす効果がある。そして、塩昆布の匂いは、蔓繚果の実のそれと限りなく近いのだ。つまり、このふたりは金猩猩を呼び寄せようとしていたのだ。

「どうしてこんなことを!」

 気をつけていても、声にとげが混じった。

「イブぴょんが、金猩猩に会いたいっていうから」

「ひどーい。充きゅんがみたいっていったんじゃん」

 わたしは拳を握りしめた。

 どうしてあんたらは勝手なことばかりするんだよと、怒鳴りつけたい気分だ。

 深く息を吸い込む。

「あれだけ出発前に注意しましたよね」

 地獄の底より低い声でいってやる。

 ふたりが、しゅんとちいさくなった。

 まあ手遅れになる前に気づけてよかった。

「とにかく、これは没収します!」

 ――そのとき木々を震わせる咆吼が響いた。



 靴底から地響きが伝わった。

 一斉に鳥が飛び立った。

「帆谷さん! こちらにこないで! 急いで離れて!」

 声の限りに叫ぶ。

 塩昆布の匂いを嗅ぎつけて、金猩猩が寄ってきたのだ。血の匂いをたどってダイバーを襲う人食い鮫のように。

 草の隙間から、金色の毛がみえた。

「ひっ」

 小野寺さんが、猛スピードでわたしの背後に隠れる。

 うおい、空手三十五段! 向こうのパンチをガードするって、『わたしで』てことか!

 わたしのシャツの背中をつかんだ手が、ガタガタと震えている。

 緊張が高まる。胃液が逆流して、喉元までせり上がってきた。

 草を踏む音がしだいに近づいてくる。

 がさっ。

 ふいに金色の身体が現れた。ついに金猩猩が、その全貌を現したのだ。

「ひいい。でた!」

 小野寺さんが、わたしの背中に顔を押し当ててくる。鼻息がシャツごしに当たって、生暖かい。

 だけどこれは……。

「……小野寺さん。落ち着いてください」

 わたしは、眼前にちんまりと座った金猩猩をながめながらいった。

 現れた金猩猩は、まだ子供だった。体長は三十センチくらい。くりくりとした目が、なんとも愛らしい。写真を撮影して公開すれば、好意的な評価をたくさんいただけそうだ。

「かわいい! この子と写真撮る」

 イブぴょんが、小猿を抱き上げる。

 小猿がキイキイと鳴いて暴れた。

「ちょっと待ってください。金猩猩の子供がひとりだけで行動することはありえません。それにさっきの雄叫びは……」

 そのとき――。

 ズウン。ふたたび地面が揺れた。

「い、イブぴょん」

 彼女がゆっくりと振り向く。

 そこには、毛むくじゃらの壁。体長は二メートルを超えていた。小猿の親だろう。その瞳は怒りに燃えている。

 シュウシュウ……と蒸気が洩れるような鼻息。

 先ほどの雄叫びの主に違いない。

 腕の拘束から抜けだした小猿が、親猿の元に駆け寄る。

 イブぴょんは、恐怖のあまり彫像と化している。

 金猩猩は歯茎をむき出しにしたまま、ゆっくりと足を踏みだした。

 涙目の彼女がびくりと震える。

「イブぴょん!」

 背後から飛びだそうとする小野寺さんを手で制した。

 腕力でなんとかなる相手ではない。知力で勝負しないと。

 やつも動物だ。ならば火を怖がるはず。

「これをみなさい!」

 わたしは魔法を使い、指から炎をだした。

 どうか消えないで。失敗すれば、あの三つ目女の世話になることになる。

 お願い神さま……いや、軍神ナヴィ。今だけわたしに力を!

 願いが届いたのか、炎は消えずに、指先にとどまっていた。

 金色の獣は荒い息を吐き、揺れる炎をみつめている。気にはなっているようだ。

 まだだ……もっと強く!

 強く!

「きえええええい!」

 気合いとも悲鳴ともつかない声がでた。それとともに、炎が膨れ上がる。バスケットボールほどの火炎球を敵に投げつけた。

 燃えさかる火の玉は、金猩猩の頬に直撃して火柱になった。

 恐ろしい猛獣が、悲鳴のような鳴き声を上げる。

 そして身を翻すと、子供を抱えて逃げていった。

 わたしは太い息を吐いた。

「す、すみませんでした」

 小野寺さんが頭を下げる。

「謝るのはあと。それより早くホテルに移動しましょう」

 そのときだった。

「危ないっ。左!」

 誰かのするどい声が飛んだ。

 首をひねる。顔に火傷を負った金猩猩が、躍りかかってくるところだった。

 横飛びする。間一髪。黄金の風が、身体のすぐ横を通り抜けていった。

 手負いの獣が、憎悪をあらわにして、わたしをにらんでいる。攻撃したことで、余計に怒りを買ってしまった。

 ホテルまでは、まだ二十分くらいかかる。とても逃げ切れる距離ではない。

 わたしは覚悟を決めた。

「皆さん! この道をまっすぐ進んで、ホテルの人に事情を話してください! わたしもあとで合流します」

「添乗員さんはっ!」

「わたしはこいつを誘導します」

 さきほど小野寺さんから没収した袋を開ける。塩昆布を握った。

 黒い鼻がひくひくと動く。

「こっちだよ。お猿さん!」

 わたしは山道を外れて、獣道に足を踏み入れた。

 地図は頭にたたき込んでいる。たしかこの先には――吊り橋がある。吊り橋は金猩猩の体重を支えきれない。なんとか橋に誘い込んで落としてやる。

 草が足に当たる。

 メキメキと不吉な音がした。背後をみる。邪魔な木をなぎ倒しながら、金猩猩が迫ってきていた。

 息が切れる。

 もうすぐだ。

 と、突然、足が止まった。

「吊り橋が……ない!」

 木片とロープが散らばっている。なんらかの理由で、橋は落ちてしまっていたのだ。

 なんて役に立たない地図だ!

 違う方法を考えないと。振り向いたところて、左肩に衝撃を受けた。殴られて吹っ飛ぶ。地面を転がる。

 追いつかれてしまった。

 肩がひどく痛む。もしかすると骨が折れたのかもしれない。

 わたしは死を覚悟した。

 地面に腰を下ろしたまま、指から炎をだす。

「ただでは食われてやらないからね。添乗員を舐めるんじゃないよ」

 金猩猩はうなり声を上げている。

「来い!」

 わたしの声が合図だったように、金色の獣が飛びかかってくる。

 最後の炎を放とうとした。そのとき、わたしの座っている地面が振動した。

 え、地震?

 と思ったのもつかの間。わたしをすくい上げるように、一気に地面が盛り上がった。

「うわあっ!」

 土でできた台座の上から、金猩猩を見下ろす形になる。

 これは……まさか土の魔法?

 そう思った次の瞬間、爆音とともに金色の獣が猛炎に包まれた。

 あまりの光量で、目の前が真っ白になる。

 目をつぶっても、まぶたの裏が赤くなる。

 肉の焦げる匂いがする。

 ふたたび目を開けたときには、すべての毛が焼け落ち、黒くなった獣が転がっていた。

「ずいぶん無茶するんだね」

 その声はっ。

「帆谷さん! 今のはあなたが?」

 だが、帆谷さんは雷の魔法の使い手だったはずだ。

 いくつもの魔法を操れるなんて、軍神ナヴィくらい。

「帆谷さんって、何者なんですか?」

 よっこいしょ、といって帆谷さんが木の幹に腰を下ろす。

「わたしは十代のときに、この世界にきたことがある。そして、獣の王を討ち滅ぼした」

「そ、それって……」

 軍神ナヴィの伝説そのままだ。

 ドキュメンタリー番組を思いだした。神隠しにあった人は、何百年もの時間を超えることもあるという。

「七海(ななみ)ってのは、この世界の人間は発音しづらいみたいだね。ナヴィになっちまったよ」

 開いた口が塞がらない。まさか、帆谷さんが伝説上の人だったなんて。

「十代の小娘にとっちゃね。そりゃ大変な経験だったさ」

 帆谷さんが遠い目をする。

「孫が心配してくれるのはうれしいけれど。軍神に情けなんていらないのさ」

 そのとき、黒焦げになったカタマリが動いた。

「帆谷さん!」

 金猩猩が最後の力を振り絞って、軍神に攻撃を加えようとしている。

「ちっ。焼き加減が甘かったか」

 立ち上がろうとした帆谷さんの表情がゆがむ。

 膝を押さえて、うずくまってしまった。その背中に、黒い一撃が迫る。

「危ないっ」

 ほとんど無意識で、わたしは指から炎をだした。

 矢のように放たれた炎は、赤い直線を描き、金猩猩のこめかみに命中した。断末魔の叫びを上げ、横倒しになった猛獣は、今度こそ動かなくなった。

 わたしは太い息を吐いた。

 帆谷さんがゆっくりと身体を起こした。

「やれやれ。年は取りたくないね」

「たまには人を頼るのも悪くないでしょう」

 帆谷さんがにやりと笑う。

「余計なお世話だよ」

 わたしは、軍神の細い手を取った。


   ※


『帆谷さんが炎の魔法で金猩猩を倒した。帆谷さんは、複数の魔法を操る軍神ナヴィだったのだ』

 そこまで打ち込んだが、すべてバックスペースで消す。軍神ナヴィの正体は伏せる。それが彼女と交わした約束だ。

「でも、これ抜きでどうやって報告書を作ればいいわけ?」

 左手を三角巾でつったまま、もう片方の手で頭を抱える。

「おい。いつまで時間かけているんだ。さっさと報告書を提出しろよ」

 上司の叱責が飛んでくる。

 はぁいと返事した。

「なあ、月館。辞めるとかいいださないよな」

 ふいに上司が優しい声をだした。

「エー? 辞めませんよ」

 わたしは答えた。

「だって……やっと仕事が楽しくなってきたんですもん」

 そういうと、わたしは肌身離さず持っていたマニュアル本を引き出しの奥にしまった。


      ――了――

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