Les beaux jours

片理若水

第1話

「えっ、なんで埋まってんの。」


無視するつもりが声に出てしまった。上野仲町通りに、綺麗な女性がアスファルトに埋まっている。20代後半くらいだろうか。化粧をしっかりしていて年齢はあまり分からない。先日、ここで道路工事をしていたことを思い出す。あぁ、あの時か。私は妙に納得してしまった。


月曜早朝、まだ出勤するには早く、水商売人が帰るには遅い時間だ。人通りはほとんどなく、道の外れに飛び出している人の頭は異彩を放っていた。


その日の前日、アメ横で飲み過ぎてしまった結果、終電を逃してしまった。日曜日の昼間から大学の友人と話し続け、3軒ほど回ったところで潰れた。友人はタクシーで帰ったが、私はそんな金を使うくらいならカラオケボックスで寝たほうがマシだと思い、一晩一人、カラオケボックスで過ごした。大学は夏休みだった。私は月曜日も休みという大学生の特権を行使したのだ。


いや、そんなことはどうでもいいと思うかもしれないが、私はそのせいで酷い頭痛がしていたのだ。その光景に、夢でも見ているのではないかと思ったことを理解して欲しい。しかしもう20歳だ。夢見る少女ではないのだ。


カラオケボックスから出た時、早朝の上野という世界に少し興味が湧いた。人でごった返す上野広小路もこの時間ではほとんど人がいない。のんびりと朝の散歩を上野でしたいという思いは、多くの人間から共感されることだろう。


普段は使わない通りに入ったこともそんな気まぐれの一貫である。そこは小さな歌舞伎町のようだった。その光景はそんな通りの中頃で見ることができた。


もう1度言おう。アスファルトに女性が埋まっていた。


「あの、大丈夫ですか?」


私は仕方なく声をかける。正直頭のみアスファルトから出ている人に話しかけるのは嫌だ。帰りたい。


「えぇ、大丈夫です。というのも、先日私の家に母が来たんです。」

「は?」


どうしたら良いのだろうか。突然、母の話をアスファルトに埋まった状態で話し始めてしまった。気が狂ってしまったのか。それも仕方ないとは思う。もう帰りたいが、寂しそうな彼女を放置することはできない。警察を呼ぶべきだろうか。


「母は1週間後に来る予定だったんです。でも私ったら家の片付けをしていなくって。お酒の空き缶とタバコの吸殻、ゴミ箱にはこの前の使用済コンドーム。お母さんったらもうカンカンになってしまって。」

「ちょっと待ってください。すぐに警察を呼びますからね。」


私はカバンを漁り、警察を呼ぼうとした。上野公園の前に交番があると言っても、この頭を放置しては行けまい。


「お母さんったら酷く怒ってしまって、当然ね。でも私、その時は突然来た母に腹を立ててしまって。逆ギレというのかしら。そのまま家を出てしまったの。もう田舎の実家で暮らしているわけじゃないのに、家出なんて恥ずかしいわ。」


何故だろう。急にタメ口になった。もはや一人で話している気分になっているのだろうか。

しかし携帯が見つからない。どこかで落としたか。カバンの中身が洗濯機のようにグルグルと回る。


「だからね、ちょっと聞いてるかしら。まぁいいわ。あの後、仕方なくこの通りにある職場まで行ったの。少し悲しい気持ちだったけれど、働いていれば気が紛れると思ったの。シフトは入っていなかったけれど、あそこはいつだって人手不足だもの。大丈夫だと思ったわ。」


彼女は嬉嬉として話し続ける。まるで私のことを待っていたかのようだ。

やはり携帯がない。カバンの中身を地面に出していく。ハンカチ、ちり紙、メモ帳、ノートパソコン…その他。やはりない。どこで落としたのだろうか。交番に届いていないだろうか。


「でもね、その時おかしな人を見つけたの。」


彼女の口調が少し変わった。暗く、そして何かを思い出すようにゆっくりと話す。


交番に行こう。勿論彼女を置いていくのは不安だ。しかし携帯が無いのではどうしようもない。人通りが出る前に走って行けば大丈夫なはずだ。


「おかしいの。頭より下がアスファルトの中に埋まっていてね、顔だけになってるの。そう、今の私みたいにね。勿論すぐに警察を呼んだわ。」


電話が鳴る。あぁ、ポケットの中に入れていたのを忘れていた。鳴った原因はゲームの通知だった。つまらないゲームだが大学の友人と話を合わせるために時々いじっている。その通知を無視して110と押す。


……繋がらない。おかしなことに圏外だ。仕方ない。交番に向かおうと振り向くと、解けた靴紐を踏み、思い切り転んでしまった。全身が打ちつけられて、鈍い痛みが体を襲う。女子大生にもなってこんなに派手に転ぶとは思わなかった。


「でも繋がらないの。ここで圏外だなんておかしいでしょう。仕方ないから交番まで行こうと思って走り出したわ。でもね、転んでしまったの。」


アスファルトから出た頭は転んだ私を見ながらそう言った。


「そのとき確かに彼女はこう言ったわ。」

彼女は相変わらず一人で話す。

怖くなって逃げ出そうとするが、転倒したときに頭を打ってしまった。意識が酷く朦朧とする。


「『次はあなたの番なのね』って。」


意識が飛ぶ瞬間というものをご存知だろうか。いや、知っているだろう。眠るのとあまり変わらない。実際に今回普段の眠りと違ったのは、次に起きた時に体が動かなかったということくらいのものだ。




起きると私は病院にいた。


「あら、目が覚めましたね。」


看護師さんが私に言う。医師の説明によれば、私は上野で倒れているところを発見されて、救急車で運ばれたらしい。体はぐったりとしていて動かなかった。


病院内を巡った。脳に異常がないかだとか、よく分からないまま色んなところに連れていかれた。結構な額を請求されてしまったが、仕方ないだろう。こんなことになるならタクシーを使っておけば良かった。


病院を出たのはちょうど夜になるころだった。もう今月のお金は無い。明日からカップラーメン生活になる。休みが終わる前に何か儲かるバイトでも見つけよう。


何かを忘れている気がしたが、あまり気にはならなかった。忘れるということは、きっと大したことのない用事だったのだろう。


病院の前の通りでは、道路工事が行われていた。

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