隣の芝生は純金で出来ている

脳幹 まこと

嫉妬でしょうか、いいえ、何でも。


 まず前提として、現時点での筆者には酒が入っている。更に風邪気味であり、それを誤魔化すために今の時間になって、エナジードリンクをぶち込んでいる。

 この文章が伝えたいこととは、どんな鬱屈した状態にも、どんな狂躁とした状態にもなり得るという事であり、当文章を読んだことによる精神的被害については、責任を負いかねるという事である。

 これをふまえた上で読み進めていただきたいと願う。


 隣の芝生は青く見える――なんて言葉がある。「他人のものは良く見える(ように思える)」という意味で、言い換えれば「人にはそれぞれ苦労があるので、あんまり嫉妬すんな」ということになる。

 人間が生きていく上で嫉妬という感情は避けられないものだ。その他の動物だって嫉妬を抱くことがあるのだから、より賢くなり、より歪んだ見方が出来るようになった人間がそれを持ちえない理由はない。

「嫉妬」というキーワードで検索をかけると、先頭の数ページの内に何件かはありがたいお言葉が出てくるものだ――例えば「他人と比較することをやめろ」だとか「今の自分だって恵まれていると知れ」だとか、本当に素晴らしい解決策が提示されるのである。

 確かにその方法を取れば完璧なはずだ。他人は傷つけないし、自分も傷つかないのだから。問題はたった一つ、その解決策が実行可能ではない――それだけのことである。

 隣の豪邸を見ずにずっと生きていけと?

 それとも、自分の家の窓に付いている蛾でも見て、こいつよりかはマシと自分を慰めろと?

 ああ、反論の内容は分かっている。

「自分の生き方を認めればいいじゃん」とか「その歳なら、まだまだこれから」とか、それとも「自分から何か行動を起こしてみろ」か。

 やろうとしたさ、そんなこと。というより、人生に満足していない人間が大抵購入する本――それを人は自己啓発書と言うが――を見れば、腐るほどにそんなスローガンは載っている。

 だが駄目だったのだ。「無料」でも「1日10分」でも「リスクなし」でも。こんなに都合のいい話は他にないって程、好条件をつけられても改善には至らなかった。

 毎日のように、なぜなのだろう、と考える。

 目的をこなす為の道筋があり、利点もあるのに、どうして行動に移せないのかと。

 そうなると浮かんでくるのは、「自分の性格」である。

 自分は重度のずぼらであり、必要に迫られないと、身体が一切動かない。だから、働いて寝るだけの必要最低限の生活だけでも、正直それが苦痛であったとしても、決して行動しようとしないのではないか――と。

 だが、そんな話ももううんざりである。つまるところ、ただの怠慢の正当化に過ぎないことは分かっている。大体、嫉妬の感情にしたって、やれ羨ましい羨ましいなんて言っているが、どこが羨ましいかなんて考えてもいない。他人に問われてようやく理由をひねり出す位だ。


 以上より自分の立ち位置をまとめるとこうなる。

 今の自分は、理想の自分よりも劣っていると感じ、劣等感も抱いている。その為、他者に理想の自分を投影して、嫉妬という感情でその劣等感を表現しようとする。

 ただ、どこが劣っているのかも分からないし、どう修正すればよいのかも分からない――なぜなら、理想の自分が何なのかすら分かっていないから。

 それならば何かしらの行動をして調べればいいのに、妙なところで無欲で慎重な部分が出てきて、それも出来ない。

 結果として「不満はあるが現状維持をし続けるドM」が出来上がる。

 このような男が助かるような話は一つしかない。

 退屈な毎日を送っていた男の前に、突然、異世界に通じる穴が出来上がり、その中に自分だけが入りこみ、そして強烈な能力を引っ提げた上で、リスクもなく大義を成し遂げ、大衆に愛される存在となる。

 一世代前の流行モノの展開を思わせるが、全くその通りである。

 ポイントは「自分の意志で選ぶことなく」「他人より上に立つ」だろうか。

 典型的ダメ人間の思考パターンである。


 話を元に戻す。

 そもそもとして、どうして今更になって、黒い感情が爆発し、ゴホゴホ咳込みながら執筆をしなくてはならなくなったのか。

 今日は自社の呑み会――所属チームの顔合わせ会があったのである。

 そこで上司が、先輩が、同期が、後輩が、実に充実した人生を現在進行形で送っていることを目の当たりにさせられた。

 ある人物は結婚し、二児の父親となっていた。携帯の待ち受けは無論、微笑ましい幼児の微笑みである。「子供を育てるのは苦労ばかり」と言いながらも、そこには人生の勝者としての余裕が見えている。「結婚は人生の墓場」だなんて言葉は「隣の芝生は青く見える」の言い換えに過ぎないことが良く分かる。

 ある人物は夢を目指していた。その内容は決して簡単なものではないが――語る際の目は輝き、顔は喜びに満ちている。ちなみに、既に実現への道筋を固め、着々と進行している。「作品」の未完成品を見せられた時――隣同士の席のはずなのに、大きな溝が隔てているような錯覚を受けた程だ。

 ある人物は一部界隈で世界的に有名な人物と浅からぬ繋がりを持っていた。実際、仕事の援助をしていることも判明している。援助をする際のその人は会社で見る姿とはすこぶる違っている。スーツ姿でもないし、窮屈な部屋の中でもないからか、とてもはつらつとしているように見える。まるで別次元の話に聞こえた。

 聞いている内に自分の存在がみるみる萎んでいくことを体感した。誇張表現でも何でもなく、本当に、話している人物が巨大に、それを聞いている人も巨大に、相対的に自分がどんどん小さくなっていくように見えたのだ。

 そして、その一言は飛び込んできた。


「キミは週末、何をやっているの?」


 砕け散った。

 友人がおらず、恋人もいない、趣味もない。

 やっていることは気休めの物書き、読書、散歩だが――そのどれもが、趣味というか特技と呼べる領域に達していない。人に話したところで、話が膨らむとも思えない。


 薄っぺらい。

 薄っぺらい、薄っぺらい、薄っぺらい。


 思えば、人に命令されるばかりの人生だった。

 学生の頃は、典型的ながり勉クンだった。

『勉強すれば褒めてくれる』『学生は勉強するのが本分』『勉強以外は目の毒』 

 本当にそう信じ込んでいた。

 実際、そんないい子ちゃんを演じていたから、先生からの評価は悪くなかったように思える。ちょっと不満があるとすれば、それでもスポーツが上手な子の方が取り上げられていたことくらいだった。

 それは大学に行っても続いた。周りが遊びに入っていたのを横目に見ながら、延々と講義を聞き、ノートを書き、単位を取った。試験前にノートを貸したことも何度かあった。答えはそこにあった。教えられた内容がそのまま答えになっていた。

 周囲からの評価は「まじめだね」の一本だった。何も間違っていないと思った。親も友人も教授も誰も訂正しなかったから。

 要求に答え続けていた自分が、ようやく疑念を持ち始めたのは就職活動の時であった。

 自己PRはともかくとして――趣味・特技の欄に書くべきことが分からなかったのだ。就職課に行って「勉強って趣味になるんですかね」と訊いて――担当の方々はこう答えたのだ。


「それ以外になければ、書いても良いよ」


 その言葉で、晴れ渡っていたはずの視界が曇っていくのを感じた。

 勉強とは――つまるところ、目的の為の行動であり、目的そのものにはなり得ない。欄に「勉強」と書くという事は、何も目的を抱いていないのと同じなのだ。

 自分は一体、何のために勉強してきたのだろう――大学の講義から知識を得て、ひいてはその知識を基に仕事を、なんて高尚な目的があったわけでもない。ただ単に他にやることがなかったから、勉強していたに過ぎない。

 結局、履歴書には「読書」「散歩」というありきたりな趣味を付け足して、面接に臨んだ覚えがある。

 成績は悪くなかったので、なんとか就職浪人は逃れたが、嫌な予感と心のが消え去ることはなかった。


――そして、勉強に価値がある時代は終わった。


 それから数年間はぼうっとしていた。

 確かに勉強の力を活かして資格を取得し、会社の中での評判こそは「悪くない」で通っているが、他の人達はこちらの全力を片手間に乗り越えていくのだ。

 一体自分が何をしたと言うのだろう。

 志が高い低いの問題ではない。恵まれているか、いないかの問題でもない。

 自分自身が救われたか救われていないか、それだけが重要であり――そして自分は救われていないと思っている。


 じゃあ、勝手に一人で悩んで、死ぬまで後悔しろ。


 まったく、まったく面倒な性格になってしまった。

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