第6話
エリーは不思議そうに、今オレが文章を書いた紙を覗き込んだ。右に傾けてみたり、左に傾けてみたり、上下を逆にしてみたりする。
「――これが、妖精さんの文字なのですか?」
そう。そこに書いてあるのは、彼女たちの公用語ではなかった。
日本語だ。
オレがエリーの身体で、彼女の使っていた文字を、彼女の使っている紙とペンで、彼女の普段通りに書いたつもりにも関わらず、紙の上にあるインクは日本語の形をしていた。間違いなく、ひらがなと漢字の文章だ。
これまでは全て彼女の知識を引き出すことで対応してきたというのに、ここに来てまさか文字が書けないとは……。
いや、わかる。文字はわかるんだ。だって文章は読める。でも書けない。
いざ文章を書こうとしたとき、さらさら書こうと思ったら全部日本語になるんだ。
「不思議な文字ですね……角ばっているものも、ぐにゃぐにゃしているものもあります。覚えるのが大変そう」
こちらの文字は割とアルファベットに近いので、彼女がそう思うのも無理はない。ただ、オレの英語力を振り絞っても彼女の知識なしで本を読むことは一文たりともできなかったので、英語とかその辺りの見覚えある言語でないのも確定だった。
エリーの身体に入っていることによって、聞くことも読むことも話すこともできたので油断していたが……。
初めに、戸惑っていた彼女の髪を彼女と同じように三つ編みできなかったことを思い出す。
オレは本当に彼女の身体から知識を引き出しているに過ぎず、つまり聞く、話すに関しては完全に彼女の存在がタイムラグなしの翻訳機として働いていて、読むに関しても一度知識を引き出してからはそれと同様だった。
なんというか、エリーの身体が覚えている動作はオレを介しても難なくできるのだが、彼女も意識しなければできないことは、オレもまた意識しなければできない……オレから見ても難しい話だが、惰性でできないようなことはできないのだろう。
伝えたい言葉を無意識に書くなんて、ペンを持ったまま好きな子の顔を思い出していたらノートの隅に『すき』の文字が並んでいたみたいな辺りしかないだろうし、オレにはそもそもそんな経験はない。
「……もしかして、わたしとお喋りをしようとしてくれました?」
日本語を眺めながら、エリーは首を傾げる。
あー、この仕草を対面で見てえな~。
というのは置いといて、そう、そうだ。お喋りしたかった。筆談ができるなら、かろうじて意思疎通ができたのに。しかもこの辺りのできるできないはあまりにややこしい。
いや、待て。待つんだオレ。まだ完全にできないと決まったわけではない。これまで本を読んできたんだ、簡単な文字くらいなら覚えているはずだ。あとオレにはエリーの知識がついているんだから、どの文字がどんな形なのかとか、この単語はこう書くとか、そのくらい教えてもらえれば……。
オレはとにかくもう一度、今度は必死で文字を書いた。
「……。まあ! わたしたちの文字も書けるのですね、すごいわ」
文面を確認したエリーは両手を叩きそうな勢いで褒めてくれたが、オレの書いた文字の不格好なことといったらない。
まるで初めて文字を習った小さな子どものような有様で、しかしそこにはしっかりとこう書かれている。
『そう 君と 話が したい』
これが一体どういう作業だったかというと、英単語の書き取りだ。非常に雑な表現だが、そういう雰囲気と思っていただきたい。全く知らない言語を、すぐ傍に置いたハイテク辞書をガン見しながら必死こいて書き写す気分だ。
これで会話するとなると労力と時間はかかるが、確実に会話自体は成立する。快挙と言えるだろう。
筆談そのものをもっと早く思いついていれば、オレはもっとこちらの言語を精力的に自ら学んだだろうし、エリーが誰もいないところでたくさん独り言を喋る必要もなかったのかもしれない。
だがとにかく、オレは今、彼女との意思疎通、会話手段を手に入れた!
「素敵。だって妖精さん、わたしがいくら話しかけてもちっともお返事してくださらなかったもの……会話してはいけないって決まりがあるのかしらって思っていました」
まあ、それはあながち間違いではない、という気もする。実際、オレはエリーの身体、エリーの口と声を使って彼女自身と話すことはできないのだ。
この辺りは何故なのかオレの方でもよくわかっていないので、残念ながら彼女に説明してあげることはできない。
だがともかく、オレの考えを伝えることはできる。
一苦労する作業だが、オレはまたペンを握り、紙に向かった。
『エリー 私は 君の 体から 出る 方法を 探している』
オレの書いた文章を読んだ途端、エリーの表情が曇ったのがわかった。
ペンを握ったままの手を軽く頬に当てて、考え込むように押し黙り、何度か文章を読み直す。
「……わたしと、別れたいという、ことですか?」
なんか彼氏彼女の別れ話みたいな雰囲気じゃないか。いやそんなことを言っている場合ではないしそんなことを言っているわけでもない。
思いの他エリーが悲しそうなので、オレは慌てた。
『君を 嫌い なわけ では ない』
『でも ずっと 君の 体に いる わけにも いかない』
『私は 男だ』
まあ一番やばい理由はこれだよな。どう考えてもこれだ。嫁入り前の美少女の身体の中に男の人格が入ってるのって絶対にまずい。それがたとえ本人の作り出した人格のひとつであっても違う意味でまずいし。
「あ、やっぱり男性の方だったんですね。わたしの湯浴みの時だとか、いつもとても
それは伝わってたんすね。
「そう、それは確かに……そうですね……、でも、わたし……その……」
エリーはどこか恥ずかしそうに、視線を右往左往させて口ごもる。
えっ、どうした。もしかしてこの短期間でオレのことを好きに……? だから離れたくないとか……?
それはさすがに童貞の妄想が過ぎるとオレの理性がオレをタコ殴りにしてくるが、だったら何だというのだ。自分の身体の中で得体の知れない男と永遠に同棲なんて、普通に考えてちょっとごめんだぞ。オレだって自分の中に女の子の人格が突然入ってきて、これからずっと一緒だよ☆ とかなったらちょっとかなりまずさを感じる。
「その、勿論、わたしたちは別れるべきなのだと思います。きっと別々の存在なのですもの。ただ……ごめんなさい、なんだか少し、寂しいような気がしてしまっただけなの。おかしいでしょう、笑ってください。わたし、あなたを気味悪く思うことだってあるんです……」
『笑わない』
「――…………」
笑わないというか、笑えない。
オレだって、なんだこの状況はおかしいだろと思いつつ、そもそも死んだはずなんだからそのまま死なせておいてくれよとも思いながら、彼女の身体で生活することをほとんど楽しんでいたんだから。
穏やかな当たり前の生活を
たとえ全く普通じゃない、考えるのも嫌になる程わけのわからない状態に置かれているとしても、平和な生活が嬉しかった。
エリーの身体から出れば、それはもう二度と味わえないのだろう。
だってオレは『妖精さん』なのだから、彼女の身体から出るということは、また死ぬか、あるいは新たな肉体を得てしまうということもあるかもしれない。そうなれば間違いなく、この生活は終わる。
エリー以上に、むしろオレの方が、彼女の身体から出て行きたくないのだ。本当は。
「……わたし。わたし、なんだか、新しいお友だちができたような気持ちで。あなたと一緒に、家の探検をするのが、とても楽しくて。だから……別々の存在になってしまったら、もう二度と……そんなことは、できないような、気がしてしまって……」
『わかる』
『私も 君と 過ごす ことが 楽しい』
『君の 生活は 素晴らしい』
『それを 壊したく ない』
「そんな……、あなたがわたしの生活を壊すだなんて」
そんなことない。とはエリーは言わなかった。多分、わかっているからだ。
今は楽しくても、後々嫌になることの方が増えるかもしれない。そうでなくとも、ひとつの身体を二人で使うなんてこと、問題の方が多いに決まっている。今だってオレを気味悪く思うことがあると、彼女は告白した。
それで正しい。そもそもそうあるべきのはずだ。オレたちは別々の人間なのだ。
一時の楽しみや快楽に流されると碌なことにならないというのも、古今東西の訓話をはじめ、ドラマでもマンガでもあらゆる媒体でよくよく描かれているではないか。
有り体に言うなら、問題を先送りにするな、ということだ。
『エリー 私が 君の 体から 出る方法を 一緒に 探して ほしい』
「……」
もしかしたら、オレを追い出すような気持ちになってしまっているのかもしれないと思う。
オレがどんな風にどこから来て、そしてどこへ行くのかなんてこと、エリーは知る由もないだろうし、オレ自身でもわからない。オレが消えてしまうかもしれない存在だなんてこと、彼女はますます知らないはずだが……。
そしてたっぷりと考え込んだような後、彼女はようやく口を開いた。
「わかりました。でも、ひとつ、お願いがあります」
なんだかフィクションでよく聞く台詞だ。でも、オレが彼女のお願いをどうにかしてやることができるのだろうか……?
「わたし、妖精さんの名前も知らないんですよ。教えてください」
エリーが微笑んでいるのが、鏡を見なくてもわかる。
この顔を対面で見たかった。本当に見たかった。絶対かわいいってオレはわかってるんだ。とても悔しい。
ということは置いといて。オレは彼女の要望通り、ペンを手に取り名前を書く。
「……。……。……ふふ」
手にした紙を右に傾け、左に傾け、上下を逆さまにしてみてから、エリーは笑った。
「妖精さん、これじゃあ読めないわ」
オレがなんとなくそうなるだろうと思っていた通り、書いた名前は日本語だった。
Re:Lif/ve ミキ ハル @mikirin
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