新釈 鶴の恩返し

淺羽一

新釈 鶴の恩返し

 その昔、まだ人々が動物の祟りや山の神様などを本当に信じていた頃の事、ある山外れの村に一組の老夫婦が住んでおりました。二人は貧しく、決して贅沢をする事は出来ませんでしたが、それでも互いに相手を思いやり、いつも心豊かな毎日を送っていました。

 そんな冬のある日、お爺さんが仕事帰りに雪に染まった山を歩いていると、どこからともなく鳥の鳴き声が聞こえてきました。それはとても悲しそうな声で、お爺さんは一体何事だろうかと、声のする方へ歩いていきました。

 まだ日は暮れていないものの、木々に囲まれた視界は薄暗く、ただでさえ積もっている雪のせいで足下も悪いのに、それでもお爺さんは草をかき分けえっちらおっちら山道を進みました。すると、やがてようやく少しばかり開けた場所に着いた時、お爺さんの前に罠に掛かった一羽の鶴が現れました。

 おそらく猪か何かを獲る為の虎ばさみに運悪く引っかかってしまったのでしょう、黒い鉄の板に片足を挟まれた鶴は、白い翼を弱々しく羽ばたかせながら、細長い首を持ち上げて甲高い声で助けを求めるように鳴いていました。

「おぉ、これは可哀想に」

 お爺さんは鶴のあまりの痛々しさに、すぐさま駆け寄ると、触れるだけで肌が避けそうなほどに冷たい罠を丁寧に丁寧に外してやりました。鶴はそんなお爺さんを、真っ黒の瞳でじっと見つめていました。

 「ほら、これでもう大丈夫だ」。お爺さんが懐から取り出した手ぬぐいで鶴の傷口を縛ってやると、それまではほとんど動こうとしなかった鶴も、やがてゆっくりとですが片足を庇いながら立ち上がりました。

 そうしてしばらくの間、足の様子を確かめるみたいにお爺さんの周りを歩いていた鶴は、それからとても嬉しそうに一声鳴くと、美しい翼を広げて高々と空へ飛んでいきました。

 「もう二度と罠になんか掛かるんじゃないぞぉ」。お爺さんは彼方へと飛び去っていく鶴に手を振り、満足そうにその姿が完全に消えるまで見送りました。

 その夜、お爺さんがお婆さんに帰り道での出来事を語りつつ、二人で囲炉裏の鍋を穏やかに囲んでいると、不意にコンコンと入り口の扉が叩かれました。

 こんな時間に誰だろうと、お爺さんとお婆さんが訝しがっていると、再び控え目ながらも確かにコンコンと。

 「はいはい、今出ますよ」。お爺さんは茶碗を置いて立ち上がり、扉を少しだけ開けました。

 しんしんと雪の降る中、そこに立っていたのは足下まである白い着物を着て、艶やかな黒髪を背中で束ねた、一人の美しい乙女でした。

「おやおや、こんな雪の夜に。一体どちらさんですかな」

 お爺さんが扉を全て開けて尋ねると、その乙女は氷で作った鈴のごとき声で「あぁ、お爺さん。私です、私でございます」。

 お爺さんは「はて」と首を傾げました。どうやら以前にも会った事のありそうな口ぶりですが、皆目見当が付きません。しかしながら、これ程寒い晩に、まるで見知らぬ人間がわざわざ尋ねてくるわけも無いだろうと思い、気の良いお爺さんはこんな若い娘さんに知り合いはおらんはずだがなぁと考えながらも、改めて眼前の人物を見つめました。

 するとその乙女は僅かに悲しげな表情を浮かべて、「あぁ、お爺さん。私です。お忘れになりましたか」。

 これはいよいよ思い出してやらなければ気の毒だと、お爺さんは必死に頭を巡らせました。

 と、その時です、お爺さんの耳に、乙女の悲しげな声ととても良く似た声が蘇ってきました。それはお爺さんが山の中で聞いた、あの鶴の声でした。

 「あぁ、まさか」。お爺さんは信じられない気持ちになりました。

 けれど乙女は真っ直ぐに、黒い瞳でお爺さんを見つめてきます。

 お爺さんは確信しました。「お前さんは、あの時の鶴か」。そしてお婆さんを振り返り「おい、婆さんや。見なさい、私が助けた鶴が人になって来てくれたよ」。

 お婆さんは「まぁ、まぁ」と驚いた様子で入り口へとやって来ます。

 「お爺さんに助けて頂かなければ、どうなっていたか。本当に、本当にありがとうございました」。鶴は改めて、お爺さんとお婆さんに向かって深々と頭を下げました。

「いやはや、何とも不思議な話だ。まさかあの罠に掛かっていた鶴が、こんな綺麗な娘さんに変身するなんて」

「それよりもお爺さん、いつまでもこんな所に立たせておいては可哀想ですよ。ほら、鶴さん。どうぞ家の中へとお入りなさい」

 お爺さんとお婆さんはしきりに感心しながら、人の姿をした鶴を囲炉裏の傍へと導きました。

「鶴さんや、足の怪我の具合はどうだい」

「はい。お爺さんのおかげで、ずいぶんと楽になりました」

「そうかいそうかい、それは何よりだ。もうあんな目に遭うんじゃないよ」

 まるで初孫でも眺める風な眼差しで頷くお爺さんに、鶴が「はい」と頷くと、今度はお婆さんが「それで、鶴さんや。一体どうしてまた、家へやって来たんだね」と聞きました。

 鶴は真面目な顔をして、「お爺さんに助けて頂いたお礼をしたくて参ったのです」と答えました。

 お爺さんとお婆さんは揃って、何とまぁ律儀な鶴だと驚きました。だけど同時に、人に変身出来るほどに不思議な鶴のお礼とは、どんなものなのだろうかと少しだけ興味も抱きました。

 すると鶴はゆっくりと家を見回して、言いました。「お爺さん、お婆さん。あれは機織りの道具ですか」。

 鶴の視線の先には、半分ほど空いた襖の向こうに見える、使い込まれていそうな織機がありました。

 お婆さんは奥の部屋を振り返り、「えぇ、そうですよ」と笑いました。「私はこの人が仕入れてきた糸を使ってね、あれで織物を作るのが仕事なんです」。

 「私は毎朝、山を下りて、婆さんが織ったものを街に売りに行き、それで儲けたお金でその日の食料と新しい絹糸を仕入れてくるんだよ」。お爺さんも誇らしそうに言いました。

 「絹糸ですか。それはそれは素敵なお仕事ですね」と、鶴は晴れやかな笑みで二人の働きを称えました。

 お爺さんとお婆さんは、生きる為に当たり前にこなしている自分達の仕事を褒められるなんて滅多に無い事で、本当に嬉しくなりました。

 と、そこで鶴はこんな提案をしました。「お爺さん、お婆さん。実は、私も機織りが得意なのです。お願いです、どうぞ私に布を織らせては頂けませんでしょうか」。

 二人は思いがけない提案に好奇心をそそられました。

「ほぉ、鶴の機織りとな」

「それは初耳ですねぇ、お爺さん」

「あぁ、婆さんや。しかし、あんなに綺麗な翼を持つ鶴の事だ。さぞや素晴らしい織物を作るのだろうなぁ」

「まぁ、それは素敵ですねぇ。私も是非、そんな綺麗な織物を見てみたいわ」

「それでは、お許し頂けるのですね」

 お爺さんとお婆さんの返事は決まっていました。

 鶴は静かに奥の部屋へ入ると、襖の前に膝を突きました。「一つだけ、お願いがございます」。

 「それは何だい」。お爺さんが聞き返すと、鶴は真剣な表情で「私が此処で機を織る間、決して中を覗かないで欲しいのです」。

 「あら、どうして」。不思議そうなお婆さんに、鶴は「私は機を織る時、鶴の姿に戻ります。そして私達の世界の約束として、人間の道具を鳥の姿で使っている所を人間に診られてはならないと言うものがあるのです」と答えました。

「鶴や。もしも、人に見られたらどうなるんだい」

「もう人の前にはいられません。私はすぐさま鶴の世界に戻らなければならなくなるのです」

「それはそれは、厳しい決まりなのねぇ」

「鳥と人とでは住む世界が違いますから」

「分かった。儂らは絶対に、お前さんがこの部屋にいる間、中を覗いたりはせんよ」

「ありがとうございます。それでは一晩、この織機をお借りします」

 そう言って鶴は静かに襖を閉めてしまいました。

 さて、しばらくお爺さんとお婆さんがそこで耳を澄ませていると、やがてキイパッタン、ギイバッタン、キイパッタン、ギイバッタンと、織機の動く音が聞こえてきました。

「さてさて、どんな織物が出来上がるのか」

「楽しみですねぇ、お爺さん」

「あぁ、不思議な事もあるものだなぁ」

 一定の調子で生まれる心地よい音を背景に、お爺さんとお婆さんはしみじみと会話を交わしながら茶碗などを片付け、そろそろ寝ようかと思いました。

「ねぇ、お爺さん。もう夜も更けてきたし、鶴さんにも休んで貰ったらどうかしら」

「あぁ。だが、襖を開けて邪魔をするわけにもいかんしな」

「それなら、せめてお布団だけでも敷いておきましょうよ」

「そうだな。しかし、家にまだ布団はあったかな」

「私の布団を使って貰いましょう。私は今晩は床に藁を敷いて、そこに寝ますから」

「それはいかん。それなら私が藁で寝よう」

「いいえ、お爺さんはいつも反物を担いで街に売りに行ってくれているんです。私が藁で寝ます」

「それはお前が機織りをしてくれてこそだ。儂が床で寝よう」

「いえいえ私が」

「いやいや儂が」

 それから何度か「私が」、「儂が」と問答を繰り返していた二人でしたが、相変わらず鳴り響く機織りの音にどうしてだか心を和まされ、ついにはどちらからともなく「それなら、今夜は一つの布団で一緒に眠ろう」と言いました。

「鶴や、儂らは休ませて頂く事にするよ」

「鶴さん。あなたも疲れたら休んで下さいね」

 鶴の返事はありませんでしたが、代わりに襖の向こうからはキイパッタン、ギイバッタンと柔らかな音が聞こえていました。

 そしてその夜、お爺さんとお婆さんは久しぶりに互いの温もりを感じながら、まるで子守唄のように紡がれる音に包まれて眠りました。

 翌朝、先に目を覚ましたのはお婆さんでした。

「お爺さん、お爺さん。起きて下さいな」

 お婆さんは傍らに寄り添って眠るお爺さんの肩を揺すって起こしました。すぐにお爺さんも目を覚ましました。

「どうしたんだ、婆さんや」

「ほら、音が止んでいます」

 お婆さんの言葉に、遅ればせながらお爺さんも襖の向こうが静かになっている事に気付きました。

「一体、どうしたんでしょう」

「機織りが終わって眠っているのかも知れないな」

「まぁ、あんな寒い部屋で布団も無しに。それは大変です、すぐに起こしに行かないと」

「いやいや、待て。しかしそうなると、儂らがあの襖を開けなければならなくなるぞ。鶴との約束を破ってしまう」

 お爺さんとお婆さんは悩みました。鶴の身は心配ですが、鶴との約束も大切です。もしも襖の向こうで眠っている鶴の姿が、人ではなく本来のものであったなら、彼女はもう二人の前に居る事は出来なくなってしまいます。

 二人が彼女と会話を交わしたのはほんの短い間だけでしたが、それでも二人にとって彼女はもう実の孫さながらに可愛い存在になっていました。

 出来る事ならもっとずっと彼女と一緒にいたい、だとすれば約束は破れない、けれど一向に部屋から出てくる気配のない彼女の体も気がかりで、二人はどうすればいいのかと、懸命に考えました。

 そうして遂に、お爺さんは思い付きました。「そうだ、鶴は言ったじゃないか。道具を使っている所を見られてはならないと。だが、今は音も止んでいる。道具を使っていない時なら、その姿を見ても大丈夫ではないだろうか」。

 お婆さんは少しだけ迷いましたが、やはり最後には鶴を案じる気持ちが勝りました。

 そこで二人は襖の前に並ぶと、一度だけ「おい、鶴や」と声を掛けました。

 ですが、返事はありません。

 二人はもしも万が一、鶴が織機を使っていてはいけないからと、共に強く目を瞑り、おずおずと襖を開けました。

 沈黙が流れました。と、目を閉じたままのお爺さんの頬に、不意に冷たい風が触れました。ようやく、お爺さんが目を開けました。

 そこには、誰もいませんでした。ただ、小さな窓が開いていて、そこから音もなく降る雪が入り込んでいました。織機には、作りかけの真っ白な布が残っていました。

「あぁ、やっぱり勝手に襖を開けるんじゃなかった」

 お爺さんは全てを悟り、後悔しました。やはり鶴は本来の姿に戻っていて、自分達が約束を破って部屋の襖を開けたから、あの窓から飛び去ってしまったのだと。

 せっかく、子供のいなかった自分達にも娘が出来たように思えたのに、それは残念で仕方ありませんでした。本当は、綺麗な織物なんかよりも、ただ一緒に暮らしてくれるだけで良かったのにと、お爺さんは窓の前に立ち、ひとしきり純白の雪景色を眺めると、はらはらと雪の舞う空へと向かって声を上げました。

「ありがとうな、鶴よ。たった一晩だけだったが、儂はとっても幸せだったぞ」

 そしてお爺さんは心から願いました、どうかあの鶴が、もう二度と人間の罠になんて掛かりませんようにと。

 と、そこでお爺さんの背後からお婆さんの声がしました。「あぁ、お爺さん、お爺さん。大変です」。

 その声は少なからず焦っていて、お爺さんは、どうやらお婆さんも鶴が去ってしまった事に哀しんでいるのだろうと思いました。そしてだからこそ、お爺さんは振り返って微笑みました。素敵な夢を見せて貰っただけでもありがたかったじゃないかと、そんな想いを伝える為に。

 けれど、そんなお爺さんに対して、お婆さんの浮かべていた顔つきはとても真剣なもので。

「大変ですよ、お爺さん。私の作った反物が、みんな無くなってしまっています」

 それはそれは不思議な事に、鶴の消えた部屋の中からは、街で売るはずだった絹織物までが綺麗に姿を消していました。


〈了〉

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