きゃっち&りり~す

淺羽一

〈掌編小説〉きゃっち&りり~す

 地上では春一番が梅の香りを運ぶその日、真冬の湖の上に積もった新雪さながらにふわりと白い雲の上では、釈迦如来様を初めとする仏尊の歴々が陽光よりも眩い後光によって年に一度の晴れの舞台を飾っておられました。

「いよいよ、今年もこの日がやって来ましたね」

 微笑み一つとっても優雅な仕草でお釈迦様へと話し掛けられたのは、智慧の菩薩の一尊に相応しい凛々しさを身に纏った文殊菩薩様でした。

 お釈迦様は文殊様へ「えぇ」と穏やかに応えつつ、辺りに満ちる気品と密やかな期待感を眺めて「本当に、素晴らしいことです」とお応えになられました。

「おや、もしかして」

 と、そこへ新たに声を掛けてこられたのは、慈愛の心がその眼差しにありありと表れている観世音菩薩様でした。「釈迦のそれは、新しいものですね」

 観音様の問いかけにお釈迦様は嬉しそうに目を細めて「そうなのです」と頷かれました。

「去年は確か、釈迦が悟りを開いた菩提樹の枝から作ったものでしたね」

 文殊様の言葉に、お釈迦様は「さすが素晴らしい記憶力」とでも言うかのような笑みを浮かべて、「今年は少し奮発して、沙羅双樹の枝を竿にしてみました」と言われました。

 文殊様と観音様は揃って「おぉ」と驚かれると、順にお釈迦様の持っていた釣り竿を手に取り、「やはり艶が違いますね」 「気品があります」などと口々に褒めそやしました。

 お釈迦様はかすかに照れ臭そうに微笑みつつも、それ以上に嬉しそうな声で「いえいえ」と謙遜されました。

「釈迦も以前は仏舎利を加工したものなどを好んでいたのに、最近はずっと天然物ですね」

「そう言う文殊も、貴石や金など素材にはこだわっているではありませんか」

「いやはや、お二方の道具にはいつも惚れ惚れさせられますね」

 観音様がお釈迦様の竿と文殊様の金無垢の竿を感心したように見つめられます。「私はもっぱら質よりも量ですから」

 その途端、お釈迦様と文殊様は互いに視線を交わし、やがて静かに笑い合いました。

「観音は千手に竿を持たせる作戦で来ますからねぇ」

 お釈迦様がそう言えば、文殊様も「あれにはみんな驚きましたね」と応じられます。

「あれでこの大会の規則が一新されたのですから」

 文殊様の言葉に観音様は「もう、千年も前の話は止して下さいよ」とうっすら顔を赤くされました。

「あの頃は、今よりもみんな若かったのですよ」 そう話をまとめるお釈迦様の表情もまた、ご自身の過去を思い出しているのか僅かに気恥ずかしそうなものになっていました。

「それでは皆様、お集まり下さい」

 やがて天界に響き渡る声が思い思いに語り合っていた歴々の視線を集めます。その中央では、不動明王様を始めとした大会の進行役を務められる仏尊が豪奢な箱を用意して立っておられました。

「今年もこうして皆様と春の訪れを祝えることを」

「不動よ、今日は無礼講ですよ。あまり堅苦しい挨拶は良いではないですか」

 真面目な顔で開催の宣言をされようとした不動様へ、横から阿弥陀如来様の愉快そうな声が掛けられました。するとその場に自然と笑声が生まれ、いかにも春の到来に相応しい雰囲気が天上を包みます。

「これは失礼しました。性分なもので」 口調こそ変わらぬものの、不動様の表情にも柔らかさが浮かびました。

「それでは、皆様すでにご承知の通りでしょうが、規則でもありますし、一応ご説明させて頂きますね」

 不動様がそう言われると、傍らにいた軍荼利明王様が箱の蓋を開けてその中から翡翠さながらに輝く蓮の葉を一枚、取り出されました。そして蓮の葉には一匹の小さな蜘蛛が乗っていました。

「これより皆様にはこの蜘蛛を一匹ずつお配りしますので、大会中は必ずご自身の蜘蛛の糸のみをお使い下さい。もしも糸が切れる、或いは絡まってしまった場合などは、新たな糸が吐き出されるまで休憩となります。誤って他の方の蜘蛛を使ってしまいますと、即座に失格となってしまいますのでご注意下さい」

 不動様が説明をされる中、軍荼利様がお歴々に蜘蛛の乗った蓮の葉を一枚ずつ配って回られます。蜘蛛を受け取った仏尊はさっそく、蜘蛛の尻を指先でくすぐり、ややあって生まれた細い糸を各々が用意してきた竿の先端にくくりつけられました。

「釣りをする場所はこの雲海を越えない範囲で御自由にお決め下さい。途中で変更されることも可能です。ただし、その際は必ず残った糸や撒き餌を処理し、また雲に開けた穴を塞いでから移動して下さい。尚、糸を垂らせる釣り穴は必ず一つまででお願いします」

 不動様のお言葉に歴々から笑みがこぼれますが、観音様だけは照れ臭そうにお顔を赤くされていました。

「最終的な釣果は糸に掛かったものの重量でなく、それらが生前に犯した罪の大きさの合計によって決まりますので、糸にお目当ての亡者が掛かった場合はすぐに計測係をお呼び下さい。尚、亡者がぶら下がりすぎて糸が切れてしまった場合、また有り得ないこととは思いますが亡者が天上まで辿り着いてしまった場合も、申し訳ありませんが即失格となりますのでご注意下さい」

 そうして不動様が説明を終えられた後、開催を祝って弁財天様の演奏と吉祥天様の舞が披露され、惜しみない拍手と共にいよいよ遂に天上釣り大会の幕が切って落とされました。

 さて、他の仏尊がそれぞれ場所を探される中、お釈迦様もまた何処が良さそうだろうと雲の上を歩きながら、時折、そこへ丸い穴を開けて下を覗かれました。そこには一面に真っ赤な血の池が広がっていて、水面には白蝋さながらの体色をした亡者が次から次へと新しく放り込まれる度に複雑な波紋が生まれていました。赤黒い血に溺れる亡者は最初の方こそもがいているものの、次第に力尽き、やがてその身が赤く染まる頃にはもうぷかりぷかりと浮かんできては棒を持った子鬼に沈められると言うことを繰り返していました。

「おやおや、釈迦よ。まだ場所が決まらないのですか」

「これはこれは文殊、あなたは早いですね」

 お釈迦様の優しい眼差しの先では文殊様が雲の上にあぐらを掻いておられました。その前には綺麗な真円が雲に開けられ、金色の先に結ばれた糸が垂らされていました。蜘蛛の糸はそれ自体がはっきりと見えるのでなく、光の反射によってのみ存在を知れるような儚さでした。

「どうですか、釈迦もこの辺りにしてみては。ほら、どうもこの下はずいぶんと食い付きが良いようですよ」

 文殊様がすっと指で穴を示されました。そしてお釈迦様が「どれ」と覗かれると、確かにその下ではまさしく死んだように力を失っていた亡者が、まるで池に餌を放り込まれた直後の鯉さながらに真っ赤な飛沫を散らして我先にと糸へ両手を伸ばしていました。

「これは凄い」と、心から感心した風にお釈迦様が目を細くされました。

「少し撒き餌を使いましたが、それでもこの勢いはなかなかでしょう」

 文殊様が指先をこすると、美しい蝶の鱗粉めいたものが生まれ、それが穴の底へと落ちるやいなやさらに亡者の勢いが増します。お釈迦様が耳を澄ましますと、きらきらと輝く撒き餌を目にした亡者らの発する極楽への憧れや地獄への恐れが言葉にならない声となって聞こえてきました。

 お釈迦様は「なるほど、これは素晴らしい」と微笑まれ、文殊様の隣りにあぐらを掻かれました。そしてお釈迦様が指先でくるりと円を描くように雲をなぞられると、そこに音もなくぽっかりと穴が開きました。お釈迦様は繊細な手付きで白い竿の先に蜘蛛の糸を結び、すっと穴へと糸を垂らされました。

 お釈迦様の糸が水面に近付いた途端、南国の肉食魚の群れがいる河に牛の死体を丸ごと放り込んだかのごとく、バシャバシャと亡者が群がりました。細い糸がぴんと張り、しなやかな竿が見事な曲線を描きました。楽しそうに声を上げられるお釈迦様の手に、幾人もの亡者が死に物狂いで糸を上ってくる感触が伝わっていました。

 あっという間に出来上がった、文字通り人柱じみた赤黒い亡者の連なりの様子を眺めながら、お釈迦様が文殊様へ「今年は優勝を狙えそうですね」と話し掛けられました。

「最近は罪の大きな亡者が多いですからね」と文殊様は応え、さらに「しばらく前に現世の作家がどうやって知ったのかこの大会のことを書いてから、どうやら亡者の中に変な誤解をしている者も増えているようですし」

 文殊様の言葉にお釈迦様は深く頷かれました。「いや、私もあの話は読みましたが、なかなかに見事な作品でしたよ」

「それはそうでしょう、何せあなたが主役だったのですから」

 文殊様は可笑しそうにお釈迦様の言葉へ首肯されつつも、「ですが、あれのせいで、他の人間の邪魔をしなければ極楽へ行けると言う風な誤解が広がったのも事実でしたが」と、その点に関してのみは僅かに複雑そうな表情を浮かべられました。

「亡者が途中で他の亡者を蹴落とすかどうかも、この勝負の見所の一つだったのですけれどねぇ」 昔を思い出す風なお釈迦様の声は、あたかも人間の本質を憂うかのように静かな響きをされていました。

 それからしばらく、お釈迦様と文殊様は互いの釣りに集中されました。途中、幾度か糸が切れてしまいましたが、どちらも「それも一興」とばかりに「ほほほ」と笑い、またのんびりと蜘蛛に糸を出させて続きを楽しまれました。辺りでは計測係の摩利支天様が、それぞれの仏尊に呼ばれるやいなや目にも止まらぬ速さでその瞬間に糸へぶら下がっている亡者の罪の大きさを測り、好記録が出た時はそれを朗々とした声で報されていました。

 雲の上を優しい風が吹き、早春の陽光がゆっくりと天を流れていきます。それぞれの釣りの調子を表すように、仏尊の後光が強まったり弱まったり、朝と夜を行き交う星々のごとく美しい煌めきを放っています。

 雲の下では糸を上っては落とされ、やがて疲れ果てた亡者が幾人も血の海を流れていきます。ですが、新たな亡者は次から次へと現れて、糸に群がる罪人が尽きる気配は一向にありません。そしてまたそうだからこそ、この大会が最後となる未来も訪れません。

 果たして、今回の勝利の栄光はどなたに輝くのでしょう。

 全てを見通せる目を持つ諸尊でさえも分からぬ戦いは、優雅な盛り上がりを見せながら、さらなる佳境へと進んでいくのでした。


〈了〉

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