八年目の靴

淺羽一

〈短編小説〉八年目の靴

 左足ばかり傷みの早い靴を眺めながら思い出した。AV女優のスカウトマンは街を行く女性の靴を見るらしい。

 昔、おそらく何かのテレビ番組で得た知識だ。画面に移っていたモザイク顔のスカウトマン曰く、派手なアクセサリーや高価なバッグ、有名なブランドの服に身を固めているくせに、足下だけ妙に残念な女ほど誘いに乗って来やすいそうだ。理由は分かりませんけれど、なんて前置きをしながらも、最後に彼が半笑いで呟いた「要は中途半端なんでしょうね」は今でも耳に残っている。

 リビングの青白い蛍光灯の下、木製のシュー‐キーパーのせいでずしりと重い牛革のプレーン‐トゥのつま先とかかとは、仕上げの磨きのおかげで艶やかな光沢をまとっている。それはしばしば鏡面だなどと形容されるけれど、実を言うと俺はもっと相応しい表現を知っていた。

「革靴のつま先とかかとは、グロスを塗られた女の唇のように磨くのよ」

 彼女が教えてくれたことだ。いや、それだけじゃない。靴の手入れの仕方も、それ以外の小物のそろえ方も、何より女の本当の愛し方も、全て彼女から学んだことだ。そして最後に、別れの辛さまで。

 シートを敷いたフローリングにあぐらをかき、色合いの順に並べた靴の前で感傷に浸る。それはいかにも大人の男っぽくて良いじゃないか……と、そんな風に孤独を慰める方法こそが、ある意味で最も「オトナ」らしいのかも知れない。

「知ってるか。満里奈まりなさん、実家に戻ってるみたいだぜ。それも一人で」

 不意に蘇ってくる友人の声へ、応えられなかった「関係ないよ」を今更取り繕うかのように呟きながら、磨き終わったプレーン‐トゥに靴紐を通す。四つの穴に合わせた独特の通し方と、ステッチに合わせたアイボリーの細紐によって、薄いブラウンの靴が途端に春めいた印象へと変わる。×印を描くように結ばれた紐は、あたかも並んで咲いた花だった。

「結局さ、あの人の自業自得だって言っちまえばそうだけど、やっぱり少し哀れだよな」

 しつこく語ってくる幻想をとにかく振り払おうと、今度は黒いワークブーツへ手を伸ばした。ソールと同色の白い靴紐を外し、新しいシュー‐キーパーを差し込み、馬毛のブラシでほこりを払う。軽快な音が雑音をかき消していく。ブラシを豚毛に変えた頃には、もう友人の声は再び聞こえなくなっていた。でも、その代わり、また別の記憶が浮かんできた。

「君ってさ、いっつも惜しいんだよね」

 バイトの業務に関する内容以外で初めて交わした会話の一発目は、何とも手厳しい評価だった。地方都市の外れにあるファスト‐フード店の控え室で、たまたま二人きり。彼女に加勢する人間も、俺のフォローをしてくれる人間も、一向に現れる気配はなかった。

「髪型とか服装とか考えてるのは分かるんだけど、だったら靴ももうちょっと気を遣おうよ。何度かお客の側で店に来てるけど、仕事の時と同じ靴ばっかじゃん」

 正直な所、ショックを受けると言うよりも純粋に驚いた。まさか、そんな所まで見られているなんて、ましてやバイト先の同僚とは言え週に一、二度くらいしか顔を合わせない程度の相手に指摘されるなんて、欠片も思っていなかった。

「せっかく可愛い顔をしてるんだから、勿体ないよ」

 当時、五歳年上の地元の大学院生だった彼女は面白がる風にそう言った。俺はと言えば、いくら年長者でも十八歳の男に「可愛い」は失礼だろ、なんて憤ることも忘れて、その表情に見入ってしまっていた。本当に、その瞬間まで何とも想っていなかったどころかむしろ仕事の開始時間まで控え室を出ていようかとさえ思っていたはずの相手だったのに、どうしてか、そろそろ夏休みも終わるし、いよいよ受験も近づいてきたからバイトも辞めようかと考えていた俺はまさしくその瞬間に恋に落ちていた。理由なんてこっちが聞きたいくらいだ。ただ、その正解がいずれにせよ、おかげで俺が受験生にも関わらず高校を卒業するまでずっとバイトを続ける羽目になることだけは間違いなかった。

「……靴、好きなんですか」

 我ながら間の抜けた質問だったろうが、満里奈は、学生っぽい子供らしさを残しつつも、けれど決してクラスの女生徒とは重ならない笑みをさらに明るくして、「大好き」と言った。「ちなみに、気付いてないと思うけど。今日のスニーカーの靴紐は髪ゴムに合わせてみました」

 言われてやっと気付く―以前に、初めて意識した。そうして改めて彼女の全身を眺めた。

 バイト先の規則により、髪の長い女性は全員、後ろで一束にしている。でも、それは自分自身の中でも一括りにされていて、それぞれの個性なんてまるで考えていなかった。満里奈の黒髪はシャンプーのCMにでも出られそうなくらい艶やかで、その中で白いスニーカーの靴紐と同じくやや太めの薄桃色はとても綺麗に映えていた。

 と、そこでさらにもう一つ、ふと視線が捉えたものがあった。

「……あ、その色って、もしかしてスカーフ?」

 ほとんど反射的に口から紡ぎ出した言葉だった。喜ばせようとか、口説こうとか、そんな気なんてさらさら無かった。

 あの時に彼女が自然と浮かべた笑みの無邪気さは、それを除けば後にも先にもたった数度しか出会えることのないものだった。余談だが、それを前にしてようやく実は口紅の色も同じだったと気付いたのだけれど、さすがにそれを指摘する勇気はなかった。俺は昔から、肝心な時に何も言えないのだ。

 これ以降、俺たちは控え室で一緒になるたびに会話をするようになった。話題の初めはいつも満里奈の服飾に関してで、靴とか髪ゴムとかだけじゃなくてごく稀に時計のベルトまで色や材質を合わせられているから油断出来なくて、俺はと言えば、健気というか姑息というか、そういうさり気ないこだわりを確かめるという名目で彼女の姿をまじまじと眺めていた。まぁ、実際には必ずしも毎回それらの色が変わっていると限らなかったのだけれど、とにかく俺は決まって最初に「あ、今日は……」なんてことを挨拶代わりに言っていた。それに対する彼女もまた、嬉しそうに、誇らしそうに、そしていつしか照れ臭そうに笑ってくれていた。おそらく、そんなやりとりが俺にとって単なる言い訳でしかないことに、彼女の方も早々に気付いていたのだろう。だとすれば、間違いなくそれはとても情けなくて、それ以上に幸福な話だったのだと思う。

 一度目のデートは、ちゃんと付き合う前だった。

 ある休日、本屋で参考書を買った帰りに客として店に寄ると、たまたま静かな午後のカウンターの向こうには満里奈が立っていて、仕事用とは思えない笑みを浮かべてくれた。

「あれ、受験生。勉強してなくて良いの?」

 からかい口調で問うてくる彼女に、小脇に抱えた紙袋を見せながらしれっと「息抜きついでに、たまたま近くを通ったんで」

 言いながら、自然な言葉遣いになっているかどうかとひやひやしていた。本当は、店に来ることの方が重要で、服装や靴だってその為にわざわざ朝から考え抜いて選んだものだったからだ。でも、一番の目的はまだ別にあった。

「そのスニーカー、もしかして新しいのじゃない。ちょっと格好良いじゃん」

 ナゲットが揚がるまでの間、満里奈がお姉さん風を吹かすように言ってきた。「私もこないだ新しい靴を買ったんだけど、やっぱり気分が変わると出掛けたくなるなぁ」

 ずばり、ここしかないと思った。だから勢いに任せて言った。本当ならもう少し余裕を持って誘うつもりだったのだけれど、現実はなかなか想像通りにはいかないものだ。

 今度、一緒に出掛けませんか。

 少しばかりどもりながらも告げた提案に、返ってきたのは即答の「何処へ」

 警戒するでも面白がるでもなく、ただただ自然な反応に、戸惑ったのは誘ったはずのこちらだった。

「いや、何処って……」

 思わず赤くなる顔を誤魔化すように視線を逸らした。

 と、そこでようやく彼女にも伝わったらしく、直後に耳へ飛び込んできた「あ……」は、無性に可愛らしく聞こえた。心の底から、どうしてその瞬間にちゃんと視線を向けていなかったのかと、帰宅してから何度も何度も己の不甲斐なさを後悔した。恥ずかしすぎて、出来上がった注文を店内で食べる余力はなかった。

 結局、行き先は無難に映画館になった。ただ、何を観たのか、内容はおろか題名さえ覚えていない。と言うよりも、そもそも本当にきちんとスクリーンを見られていたかどうかすら疑わしい。強がって隠していたが、異性と二人きりで出掛けるなんて初めての経験だったのだ。唯一、あの日のことではっきりと覚えているのは、右隣に座った彼女の足先で可愛らしく結ばれていたスニーカーの紐の黄色さと、その先に留められた小さいクリスタルの飾りだけだ。靴紐の色や結び方を変えている人間ならまだしも、それを自分で作り替えていた人間は俺の人生で彼女一人しか知らない。

 ふと我に返ると、いつしかワークブーツも磨き終えていた。一連の作業をほとんど意識せずこなせるようになったのは、一体どれだけこれを繰り返した頃だっただろう。アメリカの軍用ブーツを参考にしたオリジナルの結び方で紐を穴に通しつつぼんやりと考えてみたが、明確な答は浮かんでこなかった。そして俺はブラウンのプレーン‐トゥからシュー‐キーパーを抜くと、今度は爽やかな白一色のモカシンにそれをはめた。白い太めの丸紐は、先端が僅かに痛んでいた。交換するほどではないが、補修くらいはしてやった方が良さそうで、傍らに置いた袋からシリコン製の熱収縮チューブの束と鋏、それからライターを取り出した。本来は細い電線などの固定や絶縁に使われるものだが、解れた靴紐の補修やその自作をする際に存外これの具合が良いのだ。色は透明か白かどちらにしようか考えた末に白にした。

 改めて言うまでもないことだが、俺に靴の手入れ用品を、その方法と共に与えてくれたのは満里奈だった。

 高校卒業を目前に控えたある冬の日、それは大学に合格したことを報告する為に満里奈へ電話をした俺が、我がことさながらに喜んでくれた彼女の声に感動して思わず告白してしまってからおよそ一月、卒業祝い兼入学祝いだと言って彼女が贈ってくれたものは、真新しい黒の革靴と、その手入れ用品一式だった。ラバー‐ソールのそれは決して高価なものでなく、また学生が普段使いにするには少々お堅いデザインだったものの、入学式から卒業式、果ては就職活動まで、大切な局面で常に俺の足下を支えてくれたのは間違いなくそれだった。だけど、果たして俺は彼女の恋人としてその日々を支えられていたのだろうか。

「幸せな結婚生活はやがて退屈な夫婦生活へと変わり、そうしてある日突然に老人介護へと変わるのよ。要するに、そんなに焦ってするもんじゃないってこと」

 大学時代、いよいよ大学院を卒業して社会へ出て行こうとする満里奈の様子を目の当たりにし、早く早くと大人になることを焦っていた俺に向かってそんなことを言ったのは、他の誰でもない彼女自身だった。当時、彼女は二十四歳で、俺はまだ十九歳。どちらもまだまだ実家住まいのひよっ子で、でも、確かに彼女は数歩先にいた。

「私が働きだしたからって何が変わるわけじゃないでしょ。それとも、そんなに信用ないかな。って言うか、それならむしろこっちの方が心配なんですけど。言っておくけど、学生と社会人じゃ出会いの数が比べ物にならないんだから」

 シスコン気味の弟を諭すような口ぶりで、だけどその裏に本音じみた響きを潜ませて、彼女は笑っていた。「いつでもいつも通りいつまでも、私たちは私たちのままよ」

 勿論、俺は信じていた、彼女の言葉が真実であると。その一方で願ってもいた、彼女の言葉が事実でなければ良いのにと。俺は彼女と一緒に歩くだけじゃなくて、あたかも手を引かれるように付いていくんじゃなくて、ちゃんと並んで、いっそ車の助手席ですやすやと眠る彼女を起こすことなく目的地へ運んでやれるくらいの男になりたかった。本当に、もしもそうだったなら、俺は間違ってもあんな未来になんか彼女を連れて行かなかったはずなのに。

 デートは大抵、割り勘だった。本音を言えば、例えば外食をした時の会計は彼女に気付かれる前にさっと済まして、たまには洒落たプレゼントだって内緒で用意していて、そのまま夜景の映える高速道路の湾岸線を真っ赤なスポーツカーあたりを飛ばしながら気取ってみたりして。いやいや残念ながらそこまで叶わずともせめてホテル代くらいは男の俺が払いたかった。だからこそ、その為にアルバイトにも励んでいた。良いのか悪いのかそれに当てられる時間的余裕なら存分にあった。製薬会社のOLと文系の大学生じゃそもそも生活リズムが違うのだ。でも、それは言い換えるなら、所詮は学生の小遣い稼ぎの延長でしかなく。実際、外食と言ってもファミリーレストランで、贈れるものは雑誌が頼りの安物で、移動手段は決まって電車で、宿泊先もポイントカードの使える近所のホテルが定番で、詰まる所、気を遣って合わせていたのはいつも彼女の方だった。

 縮まらない距離を必死で追いかける者と、それをひたすら待つしか出来ない者。どちらがより辛くて、切ないのか、はっきりと答えることなんて出来ないけれど、少なくとも俺達が同い年……いや、せめて二歳差、三歳差くらいであったなら、或いは関係性も多少なりと違っていたのかも知れない。

 満里奈が二年もの間、浮気を続けていたと、それどころか後半の一年間に至ってはむしろ意識の上での話であったとしても俺の方こそが浮気相手めいていたと知った時、当然ながらショックを受けて傷つきもしたのだけれど、その一方で「やっぱりな」と諦めじみた感情を抱いたのも確かだった。

「……妊娠、したの」

 こちらは就職活動、向こうは仕事と、互いに忙しくてなかなか会う暇が無く、春を迎えてようやく久しぶりにゆっくりと二人で過ごせると喜んでいた内心へ容赦なく突き立てられたのは、玄関で靴を脱ごうともせず告げてきた満里奈の言葉だった。俺の背後、大学卒業を機に引っ越してきたばかりの新鮮なリビングのテーブルには気張って作った料理と冷やした白ワインが待っていて、冷蔵庫にはさらに雑誌で評判のケーキまで用意されていたのに、最早、それを仲良く囲めることはないのだろうと、その場の空気が物語っていた。

「俺の子供、だろ……?」

 そう言えば、それが現実になる奇蹟だって起きるんじゃないか、なんて子供じみた考えを抱いていたわけじゃなかった。だが、もしもあの時、彼女が頷いてくれていたなら、俺はきっと嘘だと知りながらも全てを受け入れていただろう。俺と会えない間に誰に抱かれていたのかなんて、それまで隠していたのならいっそ死ぬまで隠し通してもらいたかった。静かに首を横に振り、俯いたままでごめんなさいを繰り返す彼女に、俺は文句も慰めも懇願も何一つ言えなかった。無意識に視線を向けた彼女の靴はいかにも仕事用という風な踵の低いパンプスで、履き古されてくたびれた感のあるそれは何だか別人の持ち物みたいだった。

 あの時、彼女は一体どんな本心を胸に秘めていたのだろう。結局、最後まで「上がりなよ」とも「出て行け」とも言えずに固まっていた俺の前で、終いには謝罪の言葉さえ尽きたのかしばらくじっとしていた満里奈の姿は、あたかもテレビ画面に映る静止された役者のようで。それはやがてスローで部屋を出て行く場面になっても変わることなく、要するに全くもって非現実的な光景だった。本当に、もしもあの後、ようやく我に返った俺がスニーカーの踵を潰して部屋を飛び出し、だけどすでに彼女の姿は何処にもなく――はたまたそれはもしかすると相手の男が最初から外で待っていたのかも知れないけれど――とにかく呆然と部屋に戻った俺の目に飛び込んできたものが無かったとしたら、根性なしの精神はその夜の出来事の一切を悪夢の一言で片付けていたかも知れない。ふらつく頭と体を辛うじて操りながら、玄関で散らばった靴を整えようと身をかがめた時、そこにあったものは見慣れた革靴の甲にぽつぽつと浮かぶ小さな染みだった。その時になってようやく、そう言えば自分はまだ泣いていなかったと思い出した俺は、同時にだとすればそれが誰の涙によるものかを理解した。

 あぁ、やっぱり、彼女はついさっきまで確かに此処にいたんだ。

 淡々と事実を反芻した直後、膨大な涙と共に後悔が溢れ出してきて、俺はそのまま靴を握りしめて泣き崩れた。追いかけることに疲れた足はもう動かなくなっていた。手の中で、膝の下で、ついには額にまで、歪んで皺になる革と布の感触が伝わっていた。およそ五年になる関係は、こうして呆気なく幕を閉じた。

 白いモカシンの手入れを済ました俺は、一度だけ大きく背中を反らした。途端に骨の鳴る音がして、意識せず溜息が漏れた。靴はまだ何足か残っている。その内の一組はシンプルな黒の革靴だった。染みは消え、靴底の減ったビジネス‐シューズは、履かれることも捨てられることもないまま靴箱の最上段を定位置にしていた。俺はワークブーツから抜いたシュー‐キーパーを赤い靴紐が映える黒いスクウェア‐トゥに差し込んだ。人によっては薄い色から濃い色の順に、或いは同系統の色の靴をまとめて仕上げる方が楽だと言うだろうが、手持ちのシュー‐キーパーは二つなので、昔からこんな順番を守っている。黒専用とその他用。どちらもレッド‐シダーの香りを保つ為たまに紙ヤスリで磨いているのだが、クリームによって上部の縁が黒く染まった前者は後者よりもさらに一回りほど小さくなっている。詰まる所、そちらの方がより長く使われているのだ。

〈お元気ですか? ごめんなさい、急に。ただ、少し懐かしくなって……。〉

 携帯電話に突然のメールが届いたのは、何の変哲もない平日の夜だった。画面に表示された送り主のアドレスは見知らぬものだったが、改行の仕方や文章の作り方からその正体を直感した。あの日の別れから気付けば三年が経っていた。

 俺は短い文面を複数回にわたって読み返した後、携帯電話の画面を消した。今さらどういうつもりだと憤ったわけじゃない。ただ、戸惑ったのだ。何と返すことが正解なのか分からなかった。かといって当たり障りのない社交辞令を並べるのも違う気がした。学生時代から一度も番号などを変えていない携帯電話のメモリーには今でも〈満里奈〉の名前で当時のアドレスが登録されていたけれど、かつてそこにいた彼女と、とっくに住処を変えた現在の彼女が果たして同じ相手であるのかどうか、自分の中で結論が出なかった。

 二度目のメールが届くことはなかった。それはこちらが何も返さなかったからか、それとも最初から向こうにそのつもりがなかっただけなのか。どういう意図であれ、投げかけられたボールを、しかし握りしめたまま動けなかった俺に知る由もなかった。俺と満里奈の関係を知る友人から彼女が離婚したらしいと聞かされたのは、それから三週間ほどが経過した後だった。

 正直に白状すると、彼女を忘れたことは無かった。でもそれは、日々をひたすら彼女を想いながら過ごしていた、なんて純愛物語めいた話でなく。何と説明すればいいのだろうか、強いて喩えるなら輝かしくも過ぎ去った青春の思い出、とでも言えば最もそれらしいかも知れなかった。懐かしさこそあれど、悪感情なんてまるで無く、そしてそれは同時に未練だなどと呼べそうなものも一緒のはずだった。

 実際、あれ以降、別の女性と交際したこともあったし、それぞれの終わりにはまたそれなりの理由があった。レストランでさり気なく会計を済ませる術も学んだし、やや古いもののマニュアル式のスポーツカーは燃費の悪さと後部座席の狭さに目をつぶれば夕暮れ時の湾岸線も滑らかに駆けてくれる。そんな大それたものでなければサプライズだって経験済だ。だから、或いは今の俺に恋人がいた可能性だって十分にあっただろうし、いっそとっくに結婚して子供が出来ていたっておかしくなかった。

 ……そう、全ては過去の話なのだ。なのに、それなのにどうして、現在進行形で頭は彼女のことばかり考えているのか。答えは、すでに出かかっているのかも知れないが、同時にせめてもうしばらくは結論を出してしまいたくないような気もしていた。

 深呼吸とも溜息ともつかない息を吐きだして、手入れを終えて紐を戻したスクウェア‐トゥを傍らに置いた。そうして改めて、残りの靴を数えた。

 自問自答の時間はやがて終わる。言い換えれば、後もう少しの間は過去と現在の境界線を漂っていられる。だから俺は白いモカシンからシュー‐キーパーを抜いた。まだまだ硬いスニーカーは、濃色のデニム地がいかにも新品という感じだった。

「私のこと、どれくらい好き?」

 ほこりを掻き出すブラシの音を背景に、いつかの彼女の声が聞こえてきた。それに対して返した言葉もまた、とても自然に浮かんできた。昨日までよりももっと好き、と。

「それって、どれくらい?」

 昨日は一昨日までよりももっと好きだった。一昨日はその前よりも、その前はさらにその前の日よりももっと。出会ってから今まで、笑い合った日も、喧嘩した日も、会えなかった日も、毎日、満里奈のことを想うたびにもっともっと好きになっていった。

「だからとりあえず、俺にとっては今のお前が一番好き」

 我知らず声に出していた自分に気付いて、ましてやその内容のキザっぽさに苦笑した。

 そう言えば、満里奈も笑っていた、呆れた風に、嬉しそうに。多分、あの時の俺もまた似たような様子だったのだろう。それはつまり、俺が二十歳になってから初めて浮かべた表情だ。

 デニムのスニーカーを置き、そのままサンダル代わりにしているよれよれのスニーカーにブラシを掛ける。そしてくすんだベージュのそれが終われば、残りはいよいよ黒革のビジネス‐シューズだけとなる。ずっと無言の携帯電話は手を伸ばせばいつでも届く距離にある。

「いつでもいつも通りいつまでも、私たちは私たちのままよ」

 再び蘇ってくる声と、豚毛の流れる音。

 やがて最後の仕上げを終えた時、もしもまだ彼女の声が耳に残っていたのなら、それなら目の前の中から一足を選んで愛車のエンジンを掛けるのも良いだろう。左足のクラッチ操作が必須のマニュアル車じゃ、アクセルやブレーキを踏む右足以上に甲の皺が増えていくけれど、やっぱり颯爽と乗り降りしたいから運転用のぼろ靴なんて履いたりしない。それに、柔らかく足に馴染んだ革靴はまっさらのスニーカーよりも遙かに素足に近いから、となるとやっぱり選ぶとしたら――

 何が出来るってわけじゃない。何をすべきかも分からない。そもそも何かしたいのかさえ未だ曖昧だ。ただ、そうであったとしても、もしも暇ならちょっと出掛けてみないかって、例えば懐かしさを理由にそんな提案をするくらいなら、もしかしたら許されるのかも知れないから。

 何処へかなんて決めてない。でも、だからこそ何処だって構わない。重要なのはきっと行き先じゃなくて、そこへ着くまでの道中そのものに違いない。

 紐を外したビジネス‐シューズにブラシを掛け、クリーナーで汚れを取り、クリームを塗り込んで潤いを与え、ワックスと微量の水で磨いていく。細かな傷さえ消えていけば、色気を与えるのはつま先とかかとのみで十分で。

 艶っぽい女の唇からは、しっとりと漂うクリームとつんと鼻を突くワックスの匂いが、絡み合うように香っている。


〈了〉

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