散歩味

淺羽一

〈掌編小説〉散歩味

 部屋の窓から外を見ていたら歩きたくなった。

 去年の秋にバーゲンで買ったレザーサンダルの底を鳴らしつつ空を見上げていたらアイスを食べたくなった。高級スイーツみたいな感じじゃなくて平べったい木の棒が刺さったやつだ。

 家を出てから初めてつま先に行くべき方向を伝えてみた。一番近くのコンビニまで大人の足で徒歩十分。田んぼの上を風が泳いでくる町にしては上出来な距離だ。

 いつしか外は涼しく、さりとて空はまだ青く、アクセルとクラッチの感触に慣れた足で硬い革越しに地面を踏めば、普段なら重いだけのはずの体が何故だか今だけは少し心地よかった。

 わざわざ人の手で手入れされることなんて滅多にない歩道の雑草はまさしく自由気ままという風情で、所々が凸凹になったアスファルトの欠片が時折、サンダルの隙間から入り込んできて、その度に立ち止まって足を振る。目的のコンビニはもうすぐそこにあった。

 店に入ってもいない内から財布の百円玉を一枚、取り出していた。頭の中ではすでに買うものは決まっていた。

 アイスのケースはひんやりとしていて、思わずガラスの蓋に触れたら見事な手形が出来上がった。当たり前の話なのだけれど、それほど大きくないそこにはぐるぐるの指紋が描かれていて、何故だろうそれはちょっとばかり不思議な感じがした。

 目的のアイスは左の隅に山ほど積まれていて、どれも同じと分かっていながらついつい腕を突っ込んで底の方から引っ張り出した。はずみで山が崩れて一番上の幾つかが隣の箱入りアイスの上に落ちた。元通りにしようと袋の端をつまんでそれらを戻したら、積み木崩しのおもちゃみたいになっていた。

 レジで冷たいアイスとずっと握っていた百円玉を差し出した。袋は要りますかと聞かれて、「あ、いいです」と応えると、満面の笑みでありがとうございますと返された。それが何だか無性に気恥ずかしくて、おつりの十二円はそのまま募金箱に入れた。もう一度、明るいありがとうが届いてきた。店を出る時も合わせれば都合三度、百円にも満たない買い物で元気なお礼を言ってもらった。

 包装の袋はコンビニの外で破ってゴミ箱に捨てた。だけど最初の一口は広めの駐車場を出るまで我慢した。

 長方形の表面にはその半分ほどにうっすらと白い膜が張っていて、それはあたかも雲めいていた。右手と顎を上げて、空をバックに角をかじった。小気味いい音が歯から鼓膜へ響いてきた。それは真冬に霜柱を踏みつけて歩いた時に聞いたものととてもよく似ていた。舌の上で甘く溶けていくアイスが消えるまでぼんやりと足を止めていた。動いている時よりもむしろ止まっている時の方が風をよく感じた。

 一口、一口と空を前歯でかじっている気分で来た道を辿っていく。不思議なことにいかにもな香料と口内に残る甘さは凍っているだけで本当に色そのものの味を錯覚させてくれる。気の抜けた炭酸飲料なんて決して美味しくないはずなのに、つくづく最初にアイスを考案した人間は偉大だと思った。

 徐々に薄い木の棒が顔を出してくる。だからそれを頭上に掲げた。軽く目を細めて眺めたら、いっそ視界全部がアイスみたいに見えて笑った。ひんやりとした滴が指に伝ってきて、また一欠片の空をかじった。

 家に着くよりもアイスの無くなる方が先だと分かっていた。実際、ようやく半分ほどの距離を歩いた頃にはもう小さな氷塊は最後の力を振り絞って木の板にしがみついている風だった。ここでそれを落としてしまったら何もかもが台無しになる気がして、最後の一口は大きく大きく口を開けた。溶けかけた欠片はあっという間に舌に染みこんで、やがて一緒に飲み込んでいた風は鼻から抜けていく時に甘い余韻を置いていった。

 前歯で板をぷらぷらと挟んで散歩がてらにぶらぶらと歩いた。視界の端に田んぼを映して川沿いの自転車道を進んでいると、時折、犬のリードをハンドルに結んだおじさんやウォーキング趣味のおばさん達が気の抜けた格好で傍らを過ぎていった。中には「こんにちは」とすれ違いざまに会釈してくる人もいた。普段であればまるで面識のない相手に挨拶をするなんてまず無いのに、そんな時はどうしてか自然と「こんにちは」と返す自分が何だか新鮮でおかしかった。

 そろそろ帰ろうかと考える一方で、もう少し違う道を行ってみようかとも思った。見知らぬ土地でドライブをしている時にも同じような状態になるけれど、景色の流れる速度に比例しているのかそれよりも遙かにゆったりとした気分だった。いつしか棒に残っていたアイスの味も感じられなくなっていた。

 視線の先に自転車道の切れ目が見えてくる。道幅の狭い二車線道路をまたげばそれはまだまだ続いていく。左へ曲がれば家から離れ、右へ曲がって緩やかなカーブを描く道を進めばやがて帰路へと重なっていく。

 信号はない。余計な看板もない。交差点と呼ぶには何とも地味な代物だけど、それは確かに分岐点に違いない。

 所々に歯形の付いた木の板を頭上に掲げて天を仰いだ。

 空はまだまだ底の見えないガラス瓶めいていたものの、それでも家を出る前とはやはり異なる雰囲気で、もう目を細めても甘い香りを感じることはなくなっていた。進むべき方向は自然と決まった。

 交差点には誰もいない。だけどふと振り返れば遠目にジョギングをしている人影が見えた。

 果たしてその人が自分に気付いているのかどうなのか。ほんの一瞬かすかな好奇心が脳裏をかすめたけれど、それを確かめるのは何となく無粋に感じられたから、大きく一度の深呼吸をして、次の人へ順番を譲ることにした。

〈了〉


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