もしも今きみがここにいたら、ぼくはきっと何も言わずにただ抱き締める

淺羽一

〈掌編小説〉もしも今きみがここにいたら、ぼくはきっと何も言わずに抱きしめる

 僕は馬鹿だ。みんながみんな口を揃えて言うのだからきっとそれは間違いないんだろう。

 僕がそう言うと彼は「それだから君は馬鹿なんだよ」と少しだけ悲しそうに笑って言った。彼は僕の周りでも一番に賢い人だったからやっぱり僕は馬鹿なんだと少しだけ悲しくなったけれど笑ってしまった。すると彼は急に僕を抱きしめてぽつりと言った。


「だからこそ君は天才にだってなれるんだよ」


 僕は初めて彼の言うことがおかしいと思ったもののそれはつまり僕が馬鹿なせいだからだとすぐに思い直して結局は笑った。しばらくして僕から離れた彼の顔はやっぱり笑っていた。でも、それは何だかとても寂しそうだった。


 彼が自殺した日はみんなが等しく「一体どうして」と言って泣いた。どうして彼が死ななくちゃいけなかったんだと誰も理由が分からなくてただただ悲しんだ。僕はそんなみんなを眺めながら彼は本当に好かれていたんだなと悲しかったけれど同時に少しだけ嬉しくなった。でもじきに寂しくなった。彼がいなくなってしまったからじゃない。勿論それはものすごく悲しくて寂しくて嫌だったけれどそうじゃない。彼はみんなのことを何でも知っていてとても良く考えてくれた。それなのに誰一人として一体どうして彼が死んでしまったのか分からなかった。


 僕は馬鹿だ。自分でもきっとそうだと思うからそうなんだろう。だけどそんな馬鹿でも知らなくちゃいけないことはあるはずで。だから僕はどうしても彼が自殺なんて道を選んだのか知りたいと思った。いや知らなくちゃいけないと思った。だってそうでなきゃ僕はいつまでも彼を思い出して笑う事が出来なくなると思ったから。


 彼の家族はみんな泣いていた。「どうしてあの子が死ななくちゃならなかったのか」と突然の不幸にただただ驚き嘆き悲しんで泣いていた。「あの子が死なないといけない理由なんて一つもないはずなのに」と嗚咽の隙間を埋めるのはそんな叫びばかりだった。


 彼の友人はみんな泣いていた。男も女も年上も年下も関係なく口々に彼との思い出を語ってはその度に全員で新しい涙を溢れさせた。彼の悪口なんて誰の口からも出なかった。どれも彼がいかに賢くて優しくて真面目で素晴らしい人間だったかと称えて惜しむ声ばかりだった。だからこそ誰もが皆等しく最後には「一体どうして」とあたかも世界の在り方そのものを恨むかのように吐き出した。でもこんな事言ってはいけないのかも知れないけれど結論なんて一向に出ない問いかけを繰り返す面々はまるで真剣に答えを求めていない風にも見えた。


「彼ほどの人が自殺するなんてよっぽどの事があったに違いない」

 ある友人はそう言って泣いた。


「そんなに苦しんでいたならどうして俺に相談してくれなかったんだ」

 ある同僚はそう言って悔しがった。


「彼が死ぬなんて間違ってる」

 そして誰もが最後にそう言って怒った。


 僕は黙って聞いていた。

 馬鹿の意見なんて誰も欲しがらない。その証拠に誰も僕にどうしてだと思うなんて聞き返してこなかった。仮に聞かれた所で僕に分かるはずもなかった。それはやっぱり僕が馬鹿だという証拠だと思った。


 でもと考えた。だとしたら彼はどうしてあんな事を言ったのか。単に哀れな友人を慰めようとしてくれただけなのか。そうかも知れない。彼は嘘吐きじゃないけれどとても優しい人だったから。僕は馬鹿なりにこの世界に優しい嘘というものがある事を知っていた。


 でもと考えた。もしもあの言葉が彼にとって真実だったなら。だとしたら僕は見つけなければならない。彼をただの嘘吐きにしない為に。だから僕は一人になっても考えた。


 誰も知らない。誰も教えてくれない。答え合わせのしようの無い問題の解を確かめる術は無い。或いは正解があるとも限らない。だけどそれでもきっと彼なら見つけられると思った。だから僕は信じる事にした。自分を信じる事はとても難しかった。でも彼を信じる事は容易かった。すると僕はやけにあっさりと彼から言葉を与えられた自分を信じられた。


 誰もが泣いた。「素晴らしい人だった」と。

 誰もが怒った。「こんなの絶対におかしい」と。

 誰もが願った。「どうか彼を元に戻して」と。

 誰もが言った。「一体どうして」と。


 一体どうして。一体どうして。一体どうして。一体どうして。みんながみんな口を揃えて一体どうして。


 誰も知らない。誰にも分からない。誰だって受け入れられない。こんな悲劇が起きるまで誰も考えようとさえしなかった。


 あぁそうか。確信なんてあるわけない。だけど僕は不意にそれこそが彼の自殺した理由なんじゃないかと思った。


 それはつまり"一体どうして"。


 誰も知らない。誰にも分からない。誰だって受け入れられない。こんな悲劇が起きるまで誰も考えようとさえしなかった。

 だからこそ僕は恐ろしくて震えた。


 果たして誰か一人でも気付いてあげられる人間がいればどうなっていたのか。せめてたった一人でも生きている彼に一体どうしたと微笑んでやれる人間がいればどうなっていたのか。誰か一人でも君は一人じゃないから大丈夫なんだよと抱き締められる人間がいればどうなっていたのか。それはつまりあの日彼が僕にしてくれたみたいに。賢くなくたって馬鹿だって僕にだってそれはきっと出来たはずなのに。


 そして僕は泣いた。寂しかった。悔しかった。謝りたかった。君は天才にだってなれるんだよと言ってくれた時の寂しそうな笑みを思い出してまるで涙が止まらなかった。どうしてもっと早く僕は考えようとしなかったのか。どうしてもっと早く自分を信じなかったのか。どうしてもっと早く彼を信じなかったのか。


 どうしてどうしてどうしてどうしてと後悔が涙を追いかけるように溢れて流れた。抱き締められた温もりが背中に蘇りますます泣いた。振り回しても虚しく空を切る腕には今でも彼の感触が残っていたのに。


 意味の無いもしもを頭の中で数え切れないくらいに繰り返しながら心から泣いた。泣いて泣いて泣いて泣いて吐くまで泣いてもまだ泣いて。

 今さら確かめる必要なんて少しも無かった。


 僕は彼が大好きだった。


〈了〉

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