二
二
とある、よく晴れた朝、私はやはり、南校舎の廊下に潜んでいた。空には雲がなく、しかし太陽もはっきりとは見えず、ただただ春めいたやさしい青空がどこまでも広がっていた。生ぬるい風が時折弱々しく吹くだけの静謐な朝だった。
空と風の具合でなんとなく気だるかった。家で朝ごはんを食べていても、電車に乗っていても、ぼんやりしてしまう。
曖昧な気分はなぜか、渡辺さんたちの姿や匂いへ、私を流していった。そんなわけで私は、ダイニングでお母さんとお父さんの前で、あるいは電車の中で見知らぬ人たちに囲まれながら、頬を赤らめないといけなかった。
その日はいつもと少し状況が違った。
私は窓の下にしゃがんですぐに、ある異変に気付いた。いつもとは違う匂いがするのである。それは明らかに腐敗の匂いだった。しかもひどく濃密で、嗅いでいると身体の内側にへばりつくような重さがあった。
窓の向こうに視線を巡らせてみると、やわらかな陽ざしを浴びてのどかな地面に、小鳥がほとんど体のもげたようなかたちで打ち捨てられていた。そこの土だけ、血が滲みて微かに赤黒くなっている。蛆が這っているのも見えた。血に濡れた小鳥の羽は、微かな春風にそよそよとなびいていた。
鳥の死体を見るのははじめてのことだった。首から胸の辺りまでが無残に捻じれていて、剥き出しになった肉と骨の色彩が毒々しいほどに鮮やかだった。生きている姿よりもかえって、露わになった生命という感じがした。
今にも動き出しそうな生々しさをおずおずと見つめながら、怯えとも悦びともつかぬ禍々しいものが胸の底に湧き出していた。家を出る前からずっと脳裏に滲んでいた、渡辺さんたちの薔薇に囲まれた接吻が、幻影になって鳥の死骸と二重写しになった。頭の中がふわふわと風船のように揺らめく感じがした。私はそのうっとりするような浮遊感を逃がさないように、身体をじっとさせて、目を瞑るほどに細めて視界をぼやけさせ、渡辺さんたちの接吻と鳥の死骸が曖昧に重なり合う光景を眺めた。
どれほどそうしていただろう。いつの間にか、二人は接吻から姿を変えて、鳥の死骸を弄んでいた。氷柱のように清純な指が、裂けた鳥の胸からこぼれ出ている内臓を、爪の先で刺す。そこに這っていた蛆が震えながら逃げ惑うと、その一匹を細い指が摘み上げて捻りつぶす。二人はあどけない笑みを湛えて顔を見合わせる。
眼前の美しい光景を網膜に焼きつけたいばかりに、知らず知らずのうち、細められていた目を私は力いっぱい見開く。すると二人の姿が明瞭にそこにあった。幻ではなかった。
驚き慌てて、思わず口から短い叫びがもれた。すぐに二人の眼差しがこちらに向く。窓を隔てて、私と二人の目があってしまった。
素早く窓の下に隠れたが、遅かった。
二人はすぐに廊下にやって来た。
「あなた、誰だっけ」
「同じクラスにいるよね」
私は尻餅をついて動けずにいながら、声をしぼりだすようにして何とか答えた。
「二年A組の、矢田優香、です」
「ああ、矢田さん」
「そうそう、そんな名前だったね」
二人はゆっくりと近づいてきて、そして、目の前でしゃがみ、こちらを見つめた。傍で見る二人の顔は、清らかな光を内から放つように思えるほど美しく、なおかつ不気味なまでに同じ形をしていた。
「ずっと見てたの?」
「私たちの秘密の遊び」
囁くような幽玄な声色で聞かれて、私は何も考えないで頷いた。
すると二人は目を見合わせて、それからまたこちらを見つめて、
「覗いたりして、はしたないのね」
「私たちみたいね」
「ご、ごめんなさい」
私は涙に潤む声で呟く。
二人がくすくすと笑った。
「なにを謝るの?」
「怒ってなんかないのに」
それから続けて、
「あなたが見たのは、小鳥さんをいじめてたのだけ?」
「ビニールハウスの中のことは?」
そう聞かれて、私はすぐに、あることを察した。きっと、二人は私が死骸と接吻の二重写しにうっとりしている間に、今朝も身体を絡ませあったのだろう。
そう思うと、にわかに身体が熱くなるのを感じながら、私は答えあぐねた。二人のことには今朝は気付かなかったけれど、それを見ようとしてここに来たのは事実なのだから。
真実を答えようとするがゆえに、私は言葉に詰まった。嘘をつくなんてことは、思いもよらなかった。二人の声音と香りの流麗な甘さは、私から考えることを奪った。
答えられないでいると、二人は小さな唇をゆるめた。
「ふふ、見たのね」
「正直にそう言えばいいのに」
それでも私が黙っていると、二人は、より一層顔をこちらに寄せてきた。甘い匂いが濃くなった。
「私たちね、この遊びのこと、世界中に秘密にしていてくれないと困るの」
「だって、みんなに知られると、どきどきしなくなっちゃうじゃない」
私は、二人の言葉に、胸の震えるような恍惚をおぼえた。二人が、私の夢みてきたように、危うくて、艶めかしくて、美しい二人だったから。
「はい、誰にも言いません」
祈りを捧げるような想いでそう言うと、二人は澄んだ笑い声を上げた。嘲笑の面持ちだった。
「信じられるわけないじゃない、そんなの」
「この遊びがなくなっちゃうなんて、つまんないわ」
「本当です。お二人には嘘なんてつきません」
私が首をぶんぶん横に振って、なぜか涙さえ目に浮かべながら切実に訴えても、二人は嘲笑ったまま、嗜虐的な眼でこちらを見つめた。
「もうなんにも言わなくていいよ。あなたの言葉なんて、何にもならないから」
「私たちは私たちの信じてるたった一つのやり方で、あなたを従わせるだけ」
ゆっくりと、二人の手が私の肩や首に絡みついてくる。
二人の顔が息の当るほど傍に迫って、そのまま私は接吻を受けた。あまりのことにぽっかりして人形のようになってしまう。二つの舌が口の中に入ってきて、歯や舌や、あますところなく舐められた。水滴の淫らな音が、頭の中に響くように、鮮やかに聞こえた。
まともに息も出来ないでぼうっとしてきた頃に、ようやく二人の唇が離れた。私の口からは私のものか二人のものか唾液がたらたらとこぼれてスカートを濡らしていた。
二人が私の濡れる唇をやわらかな掌でそっと拭って、その指を舐めながら言った。
「かわいいのね。されるがままで」
「馬鹿みたいに、とろんとしちゃって」
その声にまじって、遠くにチャイムの音が聞こえた。
「あら、いけない」
「夢中になっちゃった」
二人はすっと立ち上がった。
さっきまでのことが嘘のように、可憐に手を繋いでスキップをして去っていく二人の後ろ姿を、私はただ言葉もなく、名残惜しい思いで見つめていた。すると二人が、ふと立ち止まってこちらを振り返った。黒髪が全く同じように揺れた。
「明日の朝も来なさいね」
「これから毎日、私たちの遊び道具にしてあげる」
〇
一限目の授業が終わるのを苛立ちながら待ち構えていた。
チャイムが鳴るやいなや、私は小走りにトイレへと駆けこんだ。個室の鍵をかけ、便座に腰を下ろして、スカートに視線を落とす。唾液がシミになっている。
私はスカートを捲し上げてそのシミに鼻をつけた。よく染み込んでいて、むせ返りそうなほど生々しい匂いがのぼってくる。くらくらするような匂いだ。二人との接吻の感触までもが、まざまざと口の中に蘇ってくる。あの蠱惑的な音も聞こえてくる。ああ、どうして私はあの瞬間に目を瞑ってなどいたのだろう、ちゃんと目を開いていれば二人の接吻の顔つきを間近に見られたのに。
息が苦しく荒くなってくる。私は舌を伸ばそうとする。唾液のシミに舌を這わせようとするのだ。自らの行いの怖ろしさに全身が微かに震えるけれどそれでも舌が伸びていく。嫌だ、嫌だ、私はきたない。でも、どうにもならない。
唾液のシミに舌先が触れた、その時、頭に何か冷たいものが、ひたりと触れた。
跳び上がりそうなほど驚いて顔を上げる。すると、渡辺さんたちが隣の個室との壁から顔を出していて、二人の口から唾液の糸が垂れていた。唾液は見上げる私の額を伝い、そのまま眉間から唇の端に流れた。私は舌を出してそれを舐めとった。
二人が小さくて綺麗な歯をのぞかせて笑い、唾液の糸は切れた。私は何も考えられないで、荒い息のまま二人に向かって口を大きく開き、唾液をせがむ。
「あなたそんなに唾が好きなの」
「よごれたくて仕方ないのね」
私は激しく首を縦に振る。
二人がまた唾液を垂らすように唇をすぼめた。ああっと声を上げたいほど私は嬉しくてますます口を大きくする。
しかし、渡辺さんたちはぱっと唇を元に戻してしまい、悪戯っぽく笑った。
「駄目、続きは明日の朝ね。それまで焦れていなさい」
「頭がおかしくなるぐらい疼いていなさい」
二人の顔がさっとなくなる。
私も慌てて震える手で鍵を開き個室を出る。しかし二人の身のこなしは素早くて、もうトイレから出て行く背中しか見えない。
ふらつく足取りで、追いかけるように私も教室へ戻った。
穏やかな陽の差している窓際の二席の彼女たちを見るけれど、二人は顔を寄せてなにか話していてこちらを振り向いてもくれない。
自分から話しかける勇気はなくて、自分の席にとぼとぼと歩いて行く。
しかし、すぐに足が凍りつくように静止した。
私の机の上に、一輪の赤い薔薇が置いてあったのだ。
はっとして二人の方を振り返る。すると、鋭いような誘うような眼で、こちらを見つめている。その挑発的な眼差しに貫かれて、私は天に浮かぶように全身からゆるゆると力が抜けていくのを感じた。そのまま私は、倒れ込むようにして椅子に座り込んだ。
〇
夕食を残してお父さんとお母さんに心配されたけれど、言い訳も上手に出来なかった私は、しどろもどろになりながら自分の部屋に逃げ込んだ。
お風呂を済ませて、ベッドに入ってみても、やはり落ち着かない。
「明日の朝も来なさいね」
「これから毎日、私たちの遊び道具にしてあげる」
二人の声が脳裏に響く。
明日私は、どんなことをされるのだろう。ずっとそればかり考えていて、今日の学校の記憶もどこかぼやけている。渡辺さんたちが私を焦らそうとしたのは、まんまと成功したわけだ。熱でもあるのかと思うくらい、身体の火照りが冷めてくれない。今夜はきっと眠れないだろう。明日の夜だって、きっと。
自分の唇を舐めてみる。少しだけ、接吻の感触がする。この疑似の接吻は、今日ずっと、突然叫びたくなるようなもどかしさに苦しめられ続けて、何とか自分の情欲を宥めるために思いついたせめてもの方法だ。
目を瞑り、二人の姿を思い描いてみる。
私の全身に燻っている狂熱につられてか、二人は色とりどりの薔薇に囲まれて、制服を脱いでいく。扇情的な動作でゆっくりと肌が露わになっていく。
私は薔薇で手足を縛られて、華麗な磔にされる。手足の肌が薔薇の棘に裂かれて血が流れる。二人に見つめられていると、言葉なしに心が通じてくる。
「私たちどきどきしたいだけ」
「あなたを従わせるの」
「よごれたくて仕方ないのね」
「これからは人間じゃなくって私たちの遊び道具よ」
今日耳にしたような声が、泡沫のように聞こえては儚く消える。
二人はおもむろに、栽培されている薔薇をちぎる。
そしてその花弁をむしるとその辺にぽいと投げて、残った茎で、私の胸や腹を切り裂いていく。
私が短い悲鳴を上げるたびに二人の笑い声が響く。
やがて、私の全身がほとんど血に染まる。そして二人の舌がその肌を這う。傷に唾液が沁みて私はとうとう絶叫する。唾液と血とで濡れ輝く私の身体を、四つの同じ目が眺めて、うっとりと言う。
「綺麗な薔薇ね」
私は至福の中で、綺麗にそろったその言葉を聞いている……。
〇
朝食も食べないで家を出た。
一睡も出来なかったせいで、頭が靄のかかったように重く、着替えも準備も全然進まなくて朝食をとっている時間の余裕なんてなかった。もちろん時間の余裕があったとしても喉を通らなかっただろう。
急いで行くと、二人は既に南校舎の前で待っていた。
「いらっしゃい」
「来ると思ってた」
二人はそう言ってから私の顔をまじまじと見てふきだした。
「焦れったくてしょうがないのね」
「ほんの少し触っただけで死んじゃうんじゃないの?」
二人に片手ずつ引かれて私ははじめてビニールハウスの中に入った。
これまで一年間ずっと見つめ続けた膜の向こうに今、私は立っている。そう思うと現実と幻の倒錯した世界にいるようだった。
彼女たちは私の唇を味わうように丁寧に舐めながら、私の制服に手をかけた。いとも簡単に私は全身を露わにされた。隠そうとして手を添えても、すぐに彼女たちの手に絡めとられた。
俯く私の顔を二人は覗きこんで、
「私たちにも剥き出しになって欲しいのね」
「いいよ。肌と肌が吸いつき合うのは気持ちいいもの」
彼女たちは躊躇いなく、恥もなく、それでいて私を眩惑に誘うような思わせぶりな素振りで、はらりと制服を脱ぎ捨てた。
私は思いのままに見つめた。二人は身体まで同じものをもっていた。慎ましくもぴんと張った若々しい胸や、少年的なほど細くありながら女の円みのあるなんとも言えない全体の曲線など、どこからどこまで寸分たがわなかった。その不可思議な、この世ならざるもののような美しさが、思いのまま見つめるという恥知らずを私に犯させた。全く私は感情の流れに身を沿わせていた。
二人は私の身体の隅々にまで接吻を浴びせた。そして、唇を重ね合っている時には、指が身体のそこかしこを触れるとも触れないともつかない繊細微妙なやさしさで愛撫し、唇と舌を肌に這わせる時には、指で私の舌を弄んだ。唇が二つと手が四本、指がニ十本である。常に全身に官能の感触が閃いていた。
すぐに私は退廃の底へ沈み、自分でも自分のものと思えぬような声と言葉をこぼした。熱の雷が肌の下を駆けているようで、肉体も自分のものではないようだった。気の触れそうな悦楽に抵抗する術もなかった。彼女たちの唇と舌と指からは官能の蜜が溢れるのかと思うほど、触れられるだけで肌が火花を散らした。
気が付くと私は土の上に寝かされ、手足を幾本もの薔薇で縛られていた。肌が裂け血が滲んでいたが、痛みとも快楽ともつかない甘い痺れしかなかった。
彼女たちは私の胸と腹の上に座りながら、辺りの薔薇を引き抜いた。そして花弁を捨てるなり立ち上がり、茎で私の身体を切り裂いていく。私は声を上げた。泣くのか喘ぐのか叫ぶのか分からなかった。ただ、夢の現前だということは、はっきりと感じていた。私はそれを、想像力の確かさを知るというよりも、神々しい奇跡のように直感した。信仰の通じた宗教徒の悦びとはこんな風かと、短く高い声を上げながら思い巡るのだった。
汗と熱に彼女たちの肌が火照りはじめる頃、いよいよ私の身体は薔薇のような真紅だった。彼女たちは自分の育てた一輪の薔薇を前にしてうっとりとし、やはり、私の肌を舐めるのだった。
私は汗と血と唾液で身体が液体になったように感じながら、痺れに絶叫した。
すると、彼女たちは私から舌を離した。
「うるさいなあ、叫ぶ薔薇なんてきたない」
「叫ぶなんて、痛めつけ足りないのね。衰弱の果てにまだ落ちてないの」
二人の言葉に、私は身体だけでなく、内側までがどろりと溶けていくようだった。
私の想像力は、この先を知らない。
夢想も思考も感情も、溶けて崩れていく。
彼女たちはさっき捨てた色とりどりの花弁をふっさり拾い集め、掌に包んだ。そしてそれを、二人は自分の口に含み、それから、私に接吻した。
唾液と二枚の舌が口の中にぬめぬめと流れてくるとともに、花弁もさあっと入ってくる。唾液と花弁が口を満たし、空気が入らず、私は目と口を見開いて大きく息をした。すると花弁がまた流れてきて喉にまで充満する。慌ててまた息を吸うと濡れて重くなった花弁が口の中から喉にまで纏わりついてくる。薔薇の花弁の接吻はまさに悦楽の地獄だった。私はえずくこともままならず、花弁に窒息した。
視界が次第に薄らいでくる。どちらがどちらともつかない渡辺さんたちがぼやける視界の中で溶け合い、もはや二つの顔も肉体もなく、一つの白い光になる。助けてと叫ぶことも出来ずに、しかし薔薇に縛られた手では花弁を取り去ることも無理で、私はもうどうすることもできなかった。
絶叫も歓喜の声もなく静謐だった。
白い光から、穏やかな音色が奏でられた。
「ああ、静かね、一輪の薔薇ね」
「薔薇は綺麗ね」
私は、息の絶えゆく中、遠い憧れのようなものを抱いた。なぜなら、思うがままに夢幻を描いてさえ、彼女たちの現実の方が、はるかに美しかったのだから。
薔薇と靄 しゃくさんしん @tanibayashi
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