薔薇と靄
しゃくさんしん
一
一
陽の淡い早朝に私は毎日登校する。校舎は凍り付いたように静かで、がらんとした清潔な廊下に私の足音だけが漂う。激しく弾む鼓動に早足になりそうになるけれど、胸の奥のこそばゆいような甘い焦りを深く味わうために、できるだけゆっくり歩みを進める。
モダン風の優雅なつくりの西校舎を抜けて、純白のベンチと噴水とが並んでいる古いヨーロッパ映画でしか見られないような広場を過ぎていく。それからようやく、学校の隅にぽつんと佇む、この学校でただ一つ木造の、厳かな南校舎にたどり着く。そして、そのくすんだ廊下の最果てに、息を殺してじっと座り込む。
首を伸ばしてこっそり窓の向こうを見つめる。薄暗い校舎裏には、窓から見てすぐ目の前のところに、こじんまりしたビニールハウスがある。まるで忘れ去られたかのようにこの辺りには誰も近寄らないせいか、数羽の小鳥が気楽な声で囀りながら土の上を跳ねている。
毎日のことでも慣れない早起きに、思わずあくびがもれる。春の朝らしい、のどかなあたたかさのせいでもあるんだろう。春眠暁を覚えずというのは誰の言葉だったっけ。
しかしいくら眠くても、ビニールハウスから目を離してはいけないのだ。そのなかでは薔薇が栽培されていて、たくさんの色彩が薄らと見える。ビニールを透すことで微かに曖昧になっている。赤ちゃんの頬のようなやわらかい桃色や、葡萄酒のような妖しい紫色があり、中には目の覚めるように無垢な白薔薇も咲いている。それらが半透明のビニールの向こうで所狭しと寄り添い合っている光景は、ここにまで重く甘美な匂いが流れてきそうなほど麗しい。
そうして薔薇と小鳥とを眺めながら眠気を押しのけていると、ようやく、ビニールハウスに二つの人影があらわれた。
あっと声を上げそうになるのを堪えて、私は慌てて窓に顔を寄せる。薔薇の咲き乱れるビニールハウスの中で、二人の少女の黒髪が艶めかしい。
〇
渡辺姉妹の朝の戯れを初めて私が目にしたのは、ちょうど一年前のことだった。
この中学校に入学したばかりで、学校の風景がいちいちときめきの種だったその頃の私は、誰もいない校内に朝早く登校してそこかしこを散策するのを日々の楽しみにしていた。
それは、偶然で、突然だった。
廊下から、透明な膜の向こうに二人の姿を見つけた。その瞬間、私は思わず人形のように立ち止まった。
それは彼女たちの美しさのためだった。
一人の少女が鏡に向かっているように、全く同じ姿かたちの少女が二人で見つめ合っていた。スカートから伸びる白い脚の周りに、唇のような色の薔薇が絡みつくようにして咲き乱れているせいもあってか、不思議な美しさだった。どこか幻めいてもいた。
薔薇と、眩いほどに白い彼女たちの脚とが、そろって眩いので、まるで土の底深くに根を張り巡らせて繋がっているかのようだった。薔薇は彼女たちの血で赤々と染まり、花の蜜によって彼女たちの肌はみずみずしいというふうだった。
二人は同じ長さで同じように黒々とした髪を、同じ手つきで互いに撫でていた。一方が抱くようにして相手の首に手をかけると、もう一方もそうした。
そして彼女たちは接吻した。制服の擦れ合う音と舌の絡み合う音が聞こえてきそうなほど、深い接吻だった。二つの可憐な唇が離れると一本の糸が引いた。二人の頭上から差し込む仄かな陽の光が、薔薇の花弁を鮮やかにし、唾液の糸をもきらめかせる。
二人は互いに恍惚の面持ちを見合わせて、くすくすと笑みをこぼした。さっきまでの接吻と、まるで違う、軽やかで少女らしい笑顔だった。どこか天の上の人のように優雅な、それでいて、いつもお転婆な彼女たちが教室でもよく見せる、澄み切った明るい笑顔だった。一人の少女が分裂したかのように全く同じように美しい二つの顔が、熱情の余韻に薄く火照る頬を幼く綻ばせていた。
私はようやく、永い夢から醒めたようにはっとして、窓の下にしゃがみ込んだ。
あの時から私は、毎朝欠かさず、この姉妹の戯れを覗き見るようになった。
〇
渡辺姉妹のじゃれ合いがはじまる。
片方の手が片方の身体にそっと触れるだけで、まるで私の心臓が撫でられたかのように、息苦しいほど胸が膨らむ。
二人は互いに髪を撫で、頬や唇に、ほっそりした指を這わせる。ああ、と叫びを上げそうにあるほど私は背中に狂わしい戦慄をおぼえる。やさしく撫でられた豊麗な髪は、清らかな小川のような細やかな輝きを放ちながら、繊細に揺らめく。お嬢様ばかりのこの学校でも、ひときわ華々しい家柄と囁かれている彼女たちらしい、とても雅びた黒髪だ。
ぷっくりと初々しい唇を弄んでいた指は、子どもが純潔の残酷さで花弁をむしり取るような無邪気な手つきで、唇をこじ開ける。指が口の中へと滑りこんでいく。舌がそれを向かい入れるように纏わりつく。舌と戯れる指が唾液にてらてらと濡れそぼめきながら艶めかしく蠢き、まるで真っ白な蛞蝓のようだ。
私は二人を見つめながら自らの指をしゃぶり、口からは荒い息がもれ、全身が悶えるように微かに震え、どうかしてしまいそうな興奮に突き動かされてもう片方の手でスカートを破れそうなほど強く掴み、それでもどうしても物狂わしく口に含んだ指を噛みじんわり滲む血を舌でねっとりと舐めとる。
二人が、互いの髪を唾液に濡れた指に絡めながら、激しく貪り合うかのように唇を重ねる。そうすると次第に彼女たちの肉体から立ちのぼる熱気で、ビニールがぼんやりと曇ってくる。半透明の膜の向こうに充満する香り……薔薇の重厚な芳香と彼女たちの淫靡な匂いの溶け合い……それはどんなに艶麗なのだろう。
流れてくるはずのないその香りを嗅ぎたくて、私は犬のように鼻いっぱいに空気を吸いこむ。校舎の古い木の湿った匂いと、口の中に広がる血の匂いが液体のようにどろりと鼻腔に膨らむ。
ぼんやりと霞む彼女たちは、まるで雲の向こうで戯れる天女のようだ。あの場所はこの世ならざるところのようだ。そんな風に感じながら私は、赤ちゃんのように指をくわえて二人を見つめ、自分の掌で制服の中の自分の素肌を愛撫する。
二人のスカートが捲られて、制服がはだけて、白い身体が露わになる。大輪の白薔薇が咲いたように膜の向こうがぱっと明るむ。心臓が火の玉になったように、私の全身はたちまち熱くなってくる。二人が妖艶に乱れていくにつれて、いよいよ私はなにもかもが頭から消えて一個の欲情する肉体になっていく。
ほどなくして、二人の抱擁は解ける。
膜の向こうから姿が消える。薔薇の花だけが静かに並んでいる。
私はぐったりとして廊下に倒れ込むように寝転ぶ。鈍く痛みはじめた指が不意に目に入る。指は血と唾液とを纏って輝いている。
魔の時間の過ぎ去った後は、いつも気だるい嫌悪感が打ち寄せてくる。もう二度と清潔な生き方は出来ないと思われるような、果てしない怖ろしい憂鬱が、沼のように胸に広がっていく……。
〇
始業前のホームルームの頃には、渡辺姉妹はもう普段の彼女たちだった。
だから、南校舎の廊下に寝転んでいて、みんなが登校しはじめるくらいに何とか身体を起こし教室に来ると、私はいつも、気持ちが宙ぶらりんになる。さっきまで、恍惚と罪悪感の渦に私を誘い込んだ渡辺さんたちは、もう別人のようになっているのだ。あの退廃した光景が白昼夢のように思われてきて、まだ私の中に残響のように滲んでいる熱は行き場を失う。
そんなわけで今朝も、渡辺さんたちの熱気で曇ったあの膜のように、もやもやとした気分でいた私だったのだけれど、その物思いが風船が割れるみたいに不意に破れたのは、教室中にクラスメイトたちの笑い声が朗々と響いたからだった。
何事かと辺りを見渡すと、みんなの眼差しが向いているのは、窓際の最後列とその前の席の、渡辺姉妹だった。眞理子先生も呆れたような微笑みで、くすくす笑い合っているその姉妹を見ていた。またいつものように二人が、眞理子先生の話に茶々を入れたんだろう。
「あなたたちは今日も元気すぎるわね」
眞理子先生が穏やかに言った。すると二人は口々に、
「先生は今日も元気がないですね」
「またふられちゃったんですか?」
その口ぶりや言葉の調子が、不思議と全然鋭く響かず、むしろ傍から聞いていても微笑ましいほどの人懐っこさなのだった。だから眞理子先生も、二人と友達同士のように親しげに笑って、怒りの気色なんて微塵もなかった。
「ませたことばっかり言って、あなたたちは」
「私たち先生より色んなこと知ってます」
「そうです。先生、私たちのこと先生って呼んでいいですよ?」
そうは言うけれど、言葉とは裏腹に、声色は媚を含んでいた。大人を気取る少女のいじらしさを自ら知っているように、私には聞こえる。
クラスのみんなからのどかな笑い声が起こった。
眞理子先生もおどけるような素振りで、
「はい、ホームルームは終わります。渡辺さんたちにいじめられるので」
と、二人を愛おしむように目を細めた。
ホームルームが終わって休憩時間の賑やかさが広がりはじめる中、眞理子先生は教室を出ようとして、それからふと思い出したように扉の前で立ち止まり、渡辺さんたちの方を振り返った。
「そういえば今日の日直あなたたちだったわね。一限目までに黒板綺麗にしておいてね」
「はあい」
二人が口をそろえて返事をした。それに眞理子先生は満足げに頷いてから、教室を出て行った。
がやがやと教室が賑やかな中で、渡辺さんたちが、席から立ち上がって黒板の方へと軽快に駆けていった。仲睦まじく手を繋いで、二人はてこてこと、私の傍を通り過ぎていく。
その時、艶やかな黒髪が私の頬をかすめた。
仄かに薔薇の匂いがした。
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