第6話

「千春は就活どうするの?!とっくに大手の説明会始まってるんだよ!」


 学食で私は同じ学部の友達の香里と話していた。この時期には授業を取ること自体少なくなるので連絡を取り合ってはこうして会っていた。


 香里も私の体たらくを見かねて言ってくれてるのが分かった。こういう優しい人の存在が素直に有難いと思う。


「…うーん、そうだね…香里は?どう?」


 聞くと香里も大きなため息をついた。


「私も全然最終面接までいかなくてさ…もういやんなってきた…バイト先にそのまま就職しちゃおうかな…」


「え、それいいなあ。私も…」


 そうしたい。そう言いかけてはたと止まった。


 『いそしぎ』で私がいつまでも働く。そんなことが出来るんだろうか?


 だって、『いそしぎ』は違うんだ。そのことを最近、はっきりと私は自覚してしまった。


 私にとって『いそしぎ』は優しい止まり木なようなもの。言ってしまえば現実から逃げるのための居場所だった。


 でもマスターにとって『いそしぎ』は逃げ場なんかじゃない。


 マスターはちゃんと選んであそこに立っている人なんだ。


 あの場所はマスターにとって奥さんを支えるために必死で戦っている戦場なんだ。


 そんな場所をぽっと出の私が現実から逃げるための場所にしていい訳がないのだ。


「え、個人経営の喫茶店に?いいと思うけどオーナーさん何歳だっけ?」


 いつまでもこのままじゃいられないのだ…でも。


「分かんないけど、やめた方がいいんじゃない?千春はさあ、その店に思い入れが強すぎるんじゃないの?そろそろ巣立ちの時っていうかさあ…そのうち千春からその店を引いたら何も残らなくなっちゃうよ?」


 このまま社会人になって働けるイメージが湧かない。


 香里の言葉が頭から離れず彷徨うようにたどり着いた新宿西口の本屋さんで就活本を開くと面接でのアピールの仕方とか履歴書の書き方が事細かに書かれていた。


 でもそこに書かれていたことは学生時代バイトリーダーになることで…、学園祭の実行委員として…、部活の部長として皆をまとめあげ…といった充実した学生生活を基にそれをどう伝えるかという内容ばかりでそのスタートラインにすら自分が立てていないということがよくわかった。


 その理不尽さに私は憤った。どうして大学は入学した時にこういうことを教えてくれなかったんだ。でも私が教えてもらったところでもっと違う未来を生きられたのかと問われると正直全く自信はなかった。  

 

 私が延々と同じところで足踏みをしている間に”普通の人たち”はこんなにも沢山のものを沢山の人たちの間で積み上げてきていたということに愕然とせざるを得なかった。


 私はフラフラとした足取りでその本をレジに持っていく。


 新宿駅から中央線に乗って最寄り駅に着いたらそのまま足は『いそしぎ』へ向かった。今日は『いそしぎ』でのお仕事の日だった。


 重たい就活本はカバンには入りきらなかったから片手の紙袋に提げていた。


 私は。


 私にとってのこの2年間はなんだったろう?


 私にはただ身勝手な憧れしかない。遠くからキラキラに憧れておそるおそる手を伸ばしてはその度に自分の拙さに何度も絶望してる。


 それでも…


 それでもこの2年間を後悔する気にはどうしてもなれなかった。


 私から『いそしぎ』を引いたら何も残らない?


 ちがう。ちがうよ。


 ”私には『いそしぎ』がある”んだ。


 ・ ・ ・


「千春さん、帰る前にコーヒー一杯どうですか?」


 その日、お店の閉店後にマスターはエプロンを脱いでテーブルに座るよう促してくれた。


 たぶんその日、私は気落ちしていただろうし、そんな私に気を遣ってくれたんだと思った。そのことが嬉しくて、同時にマスターに申し訳ない気持ちだった。


「…私は喫茶店を開く前はホテルマンとして働いていました」


 私が勧められたコーヒーを一口二口啜ると、マスターはぽつりぽつりと話し出した。マスターが自分の話をすることは珍しいと思った。


「ホテルというのは今は分かりませんが大変な業界でね。フロントの業務として客室の予約管理や電話受付なども接客と同時にこなさければならないから、混雑時のフロントは戦場の様でして。家族や友人と会えなくなる時間帯ばかりにシフトを組まれ、仕事だけの人生が続くのを辛く感じる時もありました。辞めてしまおうかと思ったことも何度もあります」


 マスターは浅い微笑で顔のシワを少し深くした。


「それでも一人でも多くのお客様にホテルのすばらしさを伝え、「また来たい」と思っていただく。そのために、いつもお客様の期待を超えるおもてなしができるよう努力を続けました。お客様が満足してご出発されるのを見送る時はこの上ない満足を感じることが出来るんです」


 マスターは一拍置いて今度は私に問いかけた。


「千春さんは…何かに憧れることはありますか?」


 私は。


 私にとっての憧れは。


 でも、それを口にするのはだめなんです。


 黙りこくる私を見て、マスターは微笑んだ。


「千春さん、あなたは自分で思うよりもずっとすごい人ですよ」


「……マスター??」


「私は嘘はつきません、本当にそう思っているんです」


 マスターは私の目を見て言った。


「確かに貴女は不器用な人だと思います。でも、とても素直で情熱を持っている。私は素直で元気なあなたにいつも励まされていました、そのことを伝えたかったんです」


 私は突然降りかかってきた嬉しさの余り、頭の中をぐるぐるとさせていた。

 

「……本当に美味しいコーヒーというのは砂糖もミルクも必要ないはずなんです」


 急に変わった話題に私がきょとんとしているとマスターは続けた。


「『いそしぎ』というのはジャズの曲のことでね。『SHADOW OF YOUR SMILE』っていう曲の邦題なんですよ」


 そういうとマスターはようやく私に目を合わせ、少し悪戯っぽく笑った。


「……若い頃は何も知らないし、何も出来ないし、誰からも必要とされない。でもそれでいいんです。それこそが若さの価値なんですから」


 私は、なんというか、今もらえた言葉がとても嬉しかった。


 どうしてこのお店がこんなに私を安心させてくれていたのか。わかった。


 マスターは知ってるんだ。


 私が何に悩んで、何に打ちのめされて、何に苦しんでいるのか。


 ずっと私を見守ってくれていたんだ。


 社会が怖い。他人が怖い。人とかかわるのが怖い。


 そんなありきたりな私を、ずっと見つめてくれていたんだ。


 重たいものを自分でも沢山背負ってなお、この人はこんな風に強く笑えるんだ。


「千春さんが迷うことがあったら、いつでもここでお待ちしています」


 私はマスターから差し出された箱ティッシュを数枚引き抜いて我ながらひどいことになっている顔を覆った。


「マスター……私と約束してください。ずっと元気でいてくれるって」


 マスターは少し困った顔をして笑った。


「はい。生い先短いですが……千春さんに美味しいコーヒーを淹れられるように頑張ります」


 きっと、私はこの日のことを何度でも思い出すだろう。


 私の好きな人が優しく背中を押してくれた日のこと。


 この人を好きになって本当によかったと心から思えた日のこと。



 ・ ・ ・


 その店は改札を出て右に曲がって歩いて少し行ったところにあります。


 古めかしくて、それでいてみんなに大事に大事にされて育ったお店です。


 そのお店には私の好きなものがたくさん詰まっています。


 私の好きな人がいます。


「いらっしゃいませ」


 喜ぶあなたの顔が見たくって。


 今日の私はわざわざスーツを着て来ました。


「ただいま、マスター」


 スーツ姿の私を見てマスターは微笑んで言ってくれました。


 おかえりなさい、と。


 ~完~

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恋するヘタレどもよ 藤原埼玉 @saitamafujiwara

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