第5話
マスターの家の住所は『いそしぎ』から何度か行き来したことがあるので既に知っていた。家に上げてもらったことは流石になかったけれど。
私はパーカーを羽織って財布を片手に暮れかかった道を歩いていた。
本当はどこかよこしまな気持ちがあるのかもしれなかった。
それでもお財布がないと困るであろうことは確かだという言い訳めいた理由が私の背中を後押ししていた。
一軒家の扉の前について、この先にマスターとマスターの奥さんがいるんだと思うと何だか胸の奥がドキドキした。『いそしぎ』のアルバイトの千春。その肩書を身分証明書として持参するような気持で私はベルを鳴らした。ほどなく玄関に静かな足音が響き扉が開かれた。
「千春さん…?」
「あ、マスター…あのこれ…」
マスターの顔に浮かんでいるのは驚きだったけれど、そこには何か重苦しい疲労の色があった。そのことに気が付いて間もなく、家の中から断続的に呻くような声が聞こえた。
「…あっあっあっあっあっ」
「楠木さん、気を確かにね…」
私は奥さん以外の人が家の中にいることに少し戸惑いを感じながらも、持ってきた財布をマスターに差し出した。
「ああ、財布…そうか忘れていたのか…これは本当にすみません…ありがとうございます」
いえ、そんな…と言いかけて私は玄関からリビングで奥さんが知らないおばさんに介抱されている様子が見えた。奥さんは身体をびくびくと震わせていた。何かの発作を起こしているのだろうか。
私の驚いた顔を見て、マスターは苦笑気味に言った。
「…これでも大分楽になったんです。ケアマネジャーさんに来ていただけるまではそれこそ毎日出口の見えないトンネルを歩いているようでしたから」
「旦那さん!ちょっとこっちへ来て手伝ってください!」
「はい、今行きます」
おばさんの元気な声が響いてマスターはリビングへ戻った。奥さんの介護、とは聞いていたけれど介護の現場がこんなに大変だなんて私は知らなかった。
私はいつ立ち去ればいいかもわからず、茫然とマスターとおばさんが奥さんを介抱する様子を見ていた。
奥さんと思しきほっそりとした女の人の発作はものの1.2分で収まった。その人は意識が戻ると穏やかな口調でマスターに向かっていった。
「あの…どなたです?」
その瞬間に空気が凍り付きびしと音を立ててヒビが入るのが分かった。
とても穏やかな声と言葉だった。それが実の夫に向けられたものだという以外は。
マスターの表情は玄関からでは読み取れなかったけれどその背中にはやはりどこか哀しみが漂っていた。
「楠木さん、その人はあなたの旦那様ですよ!」
「あら…そうなんですか?ごめんなさい…近頃私忘れっぽいみたいで…」
それでも奥さんを労わるマスターの手は優しくてそれだけに悲しかった。
しばらくして”作業”がひと段落したのかマスターはまた玄関にやってきた。
私は色々な情報が一遍に頭に入ってきたからか、とても混乱していた。
「お茶も出さずにお待たせして申し訳ありません。今日は雨宿りをさせて頂いた上に財布まで届けて頂いて…本当にわざわざありがとうございます」
「や…あの、全然…そんなことないです」
私は微笑を浮かべるマスターの少しやつれた頬を眺めた。
愛しい人が少しずつ記憶を失っていくこと。自分のことすら分からなくなってしまっていくこと。
それを傍から支え続けるということには、一体どれほどの力が要るんだろう?
何も知らない私に一体何が言えるのだろう。
苦しいですね、も頑張ってください、も何もかも薄っぺらで白々しくなってしまうことは分かり切っていた。
私は結局なにもわかっちゃいなかったのだ。
ただキラキラしたところだけ、自分が見たいところだけを見て自分勝手に一人で浮かれていただけだった。
愛することの責任や重たさなんてこれっぽちも分かってはいなかった。
マスターに別れを言ってからどうやって家に帰ったのか。
帰り道の風景はなんだかひどく虚ろで、ただただ自分の愚かさが恥ずかしくて悲しくて、もんやりとした薄もやにかかったような気持ちのまま家のドアノブをひねった。
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