「経済成長⇔心の豊かさ」というアレ

白蔵 盈太(Nirone)

「経済成長⇔心の豊かさ」というアレ

 以前、自分の会社の株主総会の手伝いに行ったことがある。


 もしあなたが今、不労所得だけで働かずに暮らしているという生活をしていなければ、たぶん株主総会を見ると「うげぇ…」って嫌悪感を感じるのではないかと思う。なぜなら株主総会って、ある程度の財産があるリタイア後の有閑爺さんたちの、自己実現の場と化してしまっているからだ。


 株主総会の流れは、まず社長が舞台の上で前の年の業績について説明した後、来場者からの質疑応答を受け付ける。そして最後に、役員人事などの議決事項について「賛成なら拍手して下さい」という非常に雑な方法で採決を取り、たとえ拍手がほとんど鳴らなくとも「賛成多数により可決されました」って事にして閉会するというのが定番である。


 この中で一番のヤマ場は何といっても質疑応答だ。参加者は誰でも質問の権利があるから、経営側がどんなに綿密にあらゆる想定問答集を用意していても、当日どんな変な質問が飛び出るかは全く予想ができないという、ぶっつけ本番のアドリブ勝負。そこにドラマがあり、横で無責任に見ているだけであれば結構面白い。


 ただ、この質疑応答。確かに、会社の将来を思って真剣に鋭い質問をしてくれる人もいるにはいるけど圧倒的に少数派だ。大部分は「たぶんこのお爺さん、会社にいた時は偉い人だったのが定年後は家にも社会にも居場所がなくて、こういう場で自分のご高説を経営者に対して高らかに提唱する事で、普段失っている自信を取り戻したいんだろうなぁ…」という感じの、こじらせ系意識高め爺さんなので、それに応対する社長も大変である。


 その年のトップバッターは、見たところ80歳は軽く回っておられるような元気なお爺さんだった。前置きだけで軽く1分以上は使ってなかなか質問が現れない上に、説明がくどくどと一向に要領を得ないので、一番手からもういきなりドッと疲れる。


 昔、ローマ帝国の英雄カエサルが、のちに彼を暗殺するブルータスの演説を聞いて「あの若者が何を伝えたいのかはさっぱり分からなかったが、とにかく何かを伝えたいのだという事だけはよく分かった」と言ったという話を私は思い出していた。


 ようやく終わったそのお爺さんの質問をまとめると、要するにこういう事を言いたいらしい。


「最近の企業は成長する事しか考えていない。成長、成長、成長…。でも、そうやって永遠に追いまくられて、ずっと成長し続けた先に一体何があるのか。世界には、それよりももっと大切な事があるのではないか?」


 …いや、じゃあ私たち、何すればいいんだよ?何すればあなた満足なの?と私は即座に脳内でツッコんだが、おそらくそれを聞いても、たぶんお爺さんは怒るだけで答えは教えてくれないような気がする。

「そんなものは人に教えてもらうのではない、自分で考えるべきものだろう」とか何とか言って、私たちに全部ボールを預けてくるはずだ。


 でもまあこの質問、確かに気持ちは分からなくもないなとも思う。予算は毎年前年より高い成果を無理矢理設定させられて、それをクリアして当たり前、クリアできなければ石にかじりついてでも達成しろ!と無茶を平気で言われる。


 そこまでして成長する事って本当に必要?なんで前年と同じじゃいけないの?苦しみながら成長するのと、現状のままでも別にいいや、って諦めて気楽な生活を謳歌するのと、実際どっちが幸せなの?と言いたくなる瞬間は私にも時々ある。


 じゃあ、企業は成長を求めなくていいのだろうか。

ほどほどの成長と、安定して売れ続ける定番商品があれば、後は何もせずそれを淡々と永遠に売り続ければいいのだろうか。

 私はその後、株主総会の間中、ずっとその事を考えながら仕事をしていた。


 それで私が最終的に思ったのは、この手の「成長はいらない、現状で満足しよう」という話、「成長」の捉え方が抽象的すぎるからそういうフワフワした事が平気で言えてしまうんだよ、という事だ。


 例えば医薬品メーカーの研究者が、病気の患者が苦しんでいるのを見て、何とか助けてあげられないだろうか?と悩んで苦労して試行錯誤した結果、新しい薬の開発に成功する。会社にとってはその新薬を売って利益を増やすことは「成長」だ。


 それを「成長はいらない」と言ってしまうという事は、つまり病気の人が苦しんでいるのを助けたいという想いもいらないという事ですか?という話なわけだ。


 医薬品みたいな情に訴える例だけでなく、世の中の経済活動なんて本来どれも「お客さんに喜んでもらいたい」「無駄な労働から解放してあげたい」「苦しんでいる人を助けたい」といったような「役に立ちたい」という気持ちから出発していて、そうやってお客さんの役に立ったから、その対価としてお金をもらっているわけだ。


 より役に立てば、よりたくさんの対価がもらえる。

 それ自体は決して醜いものでもなく、別に悪いものでもないのに、それを「成長」という雑な一言で表現すると、途端にガツガツした金の亡者のようなイメージになってしまうのが本当に不思議だ。ただ私は、より世の中の役に立って、より世の中から評価してもらいたいだけなのに。


 バブルの頃、「モノの豊かさより心の豊かさ」なんて事がしきりに言われていた。でも今になって考えてみると、そもそも「モノの豊かさ」と「心の豊かさ」が対立した正反対のものという理解がちょっと変じゃないのか。

 モノが豊かになれば心が貧しくなるというのなら、逆に、心が豊かになればモノが貧しくなるとでもいうのか。いやその二つに因果関係は無いでしょ。


 モノが豊かになるのと同時に心が豊かになるという事だって十分ありうると思うし、だったら両方求めようよ。


 っつーか、モノが豊かになるってのは結果論であって、そもそもは「こんなの作ってみたけど便利でしょ」「ここ不便だったから改良しといたぜ」「なんだよ全然足りてないじゃん。一気にまとめて持ってくるから、これだけありゃ十分だよね」「こっちは余ってるな。無駄だから足りない所に回そう」みたいな各人の「役に立ちたい」という行為が自然と積み重なるうちに、気が付くとモノが豊かになってた、ってだけだよね。

 そういう現象を世間では「成長」という名前で呼んでるんだよ。


 なんかフワフワと論理で遊んで「成長」を否定するんじゃなくて、もう少し具体的に「大して役に立ってないくせに、対価だけ多くもらおうとするのはよくない」って言った方がいいんじゃないかな。


…なんて自分なりの結論に達したところで、株主総会が終わった。

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