イクエータ

河嶌レイ

イクエータ

「誤解……誤解だって」

「こーちゃんね、いくらこーちゃんでも学生はダメよ!」

「声が大きいよ、さっちゃん……」

「さよなら、こーちゃん。わたし、やっぱりもう続けられない」

「あの……」


 思わず声をかけると、「さっちゃん」があたしに顔を向ける。さっちゃんからは、デキる女の香りがした。といっても、仕立てのよさそうなビジネススーツにパールのネックレスといった装いから察するに、というわけなんだけど。

「あなたね。こーちゃんだけはダメよ。もっといろんなひと……男のひとも女のひとも見なきゃね。まだ若いんだから。それにあなた、学校にはちゃんと行っとくものよ?朝帰りでしかも学校さぼってこーちゃんとカフェで朝ご飯なんて」

「さっちゃん、そんな人聞きの悪い」

 さっちゃんに迫られて、「こーちゃん」はたじたじだ。白シャツにジーンズ姿のこのひとは、どう考えてもビジネススーツ姿のさっちゃんには太刀打ちできないと思う。髪の毛だってちょっとわさわさしているし。

「ということで、こーちゃん。こーちゃんはもっとこーちゃんらしく、大人の女を相手なさい。こんな子供、相手になんかしちゃダメよ!」

 こんな子供って……そんな言い方しなくても。

「マスター、お勘定ください。こーちゃんとこの子の分はわたしが払います」

 はいはい、と言いながら奥からマスターらしき男性がお勘定を持ってきて、さっちゃんに手渡している。「こーちゃん」と呼ばれていた女のひとは、頭をぽりぽり掻きながら視線でマスターになにかを懇願しているけれど、マスターの方はまるで子供を叱るように「メッ!」っていう顔で彼女を睨み付けたかと思うと、やれやれといった表情で眉を八の字にしている。

「じゃあマスター、わたしもうここには来ません。好きだったんだけど、このカフェ。こーちゃんとの思い出が詰まり過ぎててつらいから」

「ほんとに残念だわ。もし心の傷が癒えたらまた来てね」

 マスターのお詫びにも似た声掛けに返事もせず、そのひとはさっさと出て行ってしまった。


「こーちゃん、お願いだからこのカフェで振られるのだけはやめてちょうだい。もう何人目?ただでさえ少ないお客さんがまた減っちゃうじゃないの」

 マスターはそう言うや否や吹き出して笑い始めてしまった。

「選んで振られてるんじゃないよう、ヨシノさん」

 やれやれと首を振りながらマスターはカウンターの奥に戻ってしまう。そしてあたしの目の前で振られたばかりのこーちゃんは、テーブルに顔を突っ伏してため息をついていた。初夏の朝の太陽が、ためらいがちにそのひとのやわらかそうな白いうなじを照らしていた。

「ひょっとして、あたしのせいですか?」

 さすがに罪の意識を感じずにはいられなかった。


 その朝は、一週間ほど自宅に引きこもった後の通学途中で、もう遅刻などという慎み深いことばでは表現できないほど遅れていた。だからもう学校へ行く気はとうに失せていて、乗り換えるはずの駅では降りずに、二駅先の繁華街で降りた。あたしは私服なのをいいことに駅前をぶらぶらするつもりだった。けれど、急に具合が悪くなって道にへたり込んでしまったのだ。そしてばつが悪くて顔を上げたら、このカフェのテラス席にこーちゃんが座っていて、ばっちり目と目が合ったというわけだ。こーちゃんに促されるまま店内のベンチ席まで連れられると、顔色が悪いよ、しばらく横になりなよなんて情けをかけられて。なんてことはない、朝ご飯を抜いて家から出てきたのだから自業自得だった。

「あら、どうしたのこの子?」

「なんかね、顔色が悪くて」

 素晴らしいタイミングであたしのお腹は鳴った。

「最近の子は朝ご飯食べないからね。こーちゃん、ちょっとホットミルク淹れてやって。わたしはなんか見繕うから」

「相変わらずひと使い荒いなあヨシノさん。キッチン入るよー」

「ちょっと前まで手伝ってたんだから覚えてるでしょ?」

「もう一年前だよ、辞めたのは」

「はいはい、働く働く」

 ふたりの会話を聞きながら起き上がるタイミングを逃してしまったあたしは、少しだけ目を閉じた。そしてほどなく、ホットミルクと表面がカリッと焼かれたサンドイッチがテーブルに運ばれてきた。


 事件はその後に起こった。とろっと香ばしい中身のチーズに感動しながら、ぱくぱくとサンドイッチを頬張っているあたしを心配そうに覗いていたこーちゃんの目の前に、いつの間にかさっちゃんが仁王立ちしていたのだ。ちょっと前まで横になっていたあたしの髪やブラウスは、ほんの少しだけ乱れていたのかもしれない。それにしても妙な誤解の仕方をされたものだと思う。ただあたしにしても、それがどんな誤解なのかわかってしまうあたりに、もう自分は可憐な女子高生像からほど遠い存在になったんだなと思ってしまう。あたしはこのさっちゃんが自分勝手なひとだとも、こーちゃんが悪いひとだとも思わなかった。きっとふたりの中でしかわからないことがあったのだろう。それよりもなにより羨ましかったのだ。あのふたりの親密さが。それはその場で失われてしまったにしろ、少なくともその前まではあったであろう、その濃密な関係性が。



 ランチの時間も終わり、店内にお客さんがいなくなった二時半過ぎ、カフェ・イクエータのマスターであるヨシノさんが、「こーちゃんスペシャル」と呼ばれているマグを棚から取り出した。さっきまでスマホで誰かと話していたから、きっともうすぐ中山さんが来るのだろう。

「また振られるんでしょうよ、彼女に」

「え?」

 ヨシノさんがにこにこしながら、クロスでゆっくりとフォークを磨いている。あたしはヨシノさんの声が好きだった。それは間接照明のような、温かみのある声だった。それと、よく手入れされている鼻髭も。

「こーちゃん、彼女に振られそうな時に限ってうちにくるのよ」

「そうなんですか?」

「マキちゃんだって見たでしょう?初めてこーちゃんに会った時」

「確か一年前でしたよね……で結局、あの時の中山さんは、その女性にフラれたんですよね?」

「そうねえ。そういうことになるわねえ」

「そんなことを知っているマスターは、中山さんとは『腐れ縁』なんですか」

「こーちゃんとは……そうね。長い付き合いね。でも『腐の付き合い』じゃないのよ?ふふふー」

 そりゃそうですよ、ヨシノさんは男だけど、中山さんは女ですもの、と言いかけてやめておいた。ここでのバイトにも慣れたせいか、ヨシノさんとのおしゃべりのタイミングもわかってきたので、どの話題なら引っ張っていいのか、それとも打ち切った方がいいのかがわかるから。

「でもマキちゃんは驚いたわよね。さっちゃんには変に誤解されちゃって、しかもあんな風に言われて。でもその縁でマキちゃんにバイトを始めてもらったわけだから、わたしはよかったわ。とっても助かってる」

 ヨシノさんはそう言うと、自慢の腕時計をあたしに見せ、「きゅうけい」というくちびるの形を作った。そのあとに続くウインクは相変わらずキュートで、あたしは親指を立てて「ラジャー」と応えた。


 ヨシノさんのカフェには、店の外に小さなふたり掛けテーブルがふたつ、店内にはみっつ、そして長いテーブルのベンチ席がひとつしかなかった。店内は十人入れば手狭に感じるほどの広さ。テイクアウトもやっているので、時間のないお客さんは、専用の窓から飲み物をテイクアウトで受け取るシステムだった。バイトなんて本当なら要らないのだろうけれど(しかもお客さんでごった返すなんてことも滅多になかった)、丁寧な接客を好むヨシノさんは、あたしがバイトをしたい時間帯だけでいいからと雇ってくれたのだった。

 休憩時間になるとヨシノさんに淹れてもらったラテを手に、裏のドアから路地裏に出て飲み物ケースに腰掛けながらぼうっとするのがルーティンになっている。空を見上げれば、路地裏には長方形に切り取られた青空が見えた。あたしの青春ってやつだって、ある部分だけを切り取ったらあんなふうに青く見えるんだ。欲をかいちゃいけない。おばあちゃんがよく言ってたっけ。好きなものを好きなだけ食べるなんてこと、しちゃいけないんだって。


「お疲れー」

 裏のドアを開けて中山さんが外に出てきた。右手には「こーちゃんスペシャル」。いつも通り眠そうな顔をしている。

「若者よ。浮かない顔をしているじゃないの」

「浮かない顔をしているのは中山さんの方ですよ。またフラれるんですか?」

 つい口が滑ってしまった。

「うっ……最近話し方がヨシノさんに似てきたんじゃない?」

「どうも失礼しました」

「名誉の負傷が増えるだけだよ」

「へー」

「恋をせよ乙女」

「またそんな無責任な」

「青空が欲しけりゃ、手を伸ばさなきゃ」

 中山さんが左腕を上に伸ばし、手を空にかざすと、シャツの袖からハーブ系の香りがふわりとした。

「で、雨に祟られるってわけですね」

「まあねー」

 ヨシノさんのラテはおいしいなあとつぶやきながら中山さんはマグにくちびるをつけた。さっちゃんは中山さんより年上だったのかもしれない。今回フラれる予定のひとはどうなんだろう。なんとなく疑問に思った。

「で、大学の方はどうなの?行ってる?」

「今はもうちゃんと行ってますよー。体だけは」

「そう。まあよかった」

「女子大ってとこは、あたしには眩しくてですねー」

 そうなのだ。たくさんのきらきら女子がいる世界なのだ。色気付いた女子がたくさん。

「そりゃ大変だわ」

「でしょう?」

「うん」

 中山さんは立ち上がって、なにやら準備体操のようなストレッチを始めた。といっても右手に「こーちゃんスペシャル」を持っているから、あまりやる気を感じさせないストレッチだったけれど。

「中でゆっくり飲まないんですか?」

「学生さんっぽいお客さんたちが来ててね。苦手なんだ、やけに健康そうで」

 なんだかわかるような気がした。

「じゃあ、あたしが行きますよ。健康そうな若人らを蹴散らしてきましょう」

「若人って死語だよ、マキちゃん。それとお客さんは大事にしようねー」

「大丈夫ですよ。あたし外面いいですもん」

「へいへい」


 店内にいる学生はどうやら男子二名、女子一名。いつもとは違う年齢層のお客さんだからなんとなく気になって、顔が見えるカウンターに入ってきてしまった。ヨシノさんのカフェには落ち着いたアート作品やレトロな小道具がセンス良く置かれているから、それを気に入って来店するお客さんは自然と社会人、三十代以上が多かった。あか抜けていてクールな感じの男子二名は同い年くらいに見えた。そして背を向けていた女子一名が振り返った。

「マキ?」

「サトコ、なんでここに?」

「サトコ、オマエの友達?」

 それに誰、こいつら。

 あたしがそう思ったのと同じく、その男子たちもあたしのことを吟味した。ううん、知ってたよ。アンタたちのこと、あたしはたぶんずっと前から知ってた。

「マキ、ここで働いているの?」

「うん」

「素敵なお店だね。かっこいい」

「ありがとう」

 サトコが話している間、男子たちはヨシノさんをじろじろ見つめてはひそひそ話をしている。サトコはセンスがいいし、もう立派な美大生だから、こういう店も好きなんだろう。

「もう飲み終えて今出ていくところだったんだけどね」

 女子にしてはシンプルな財布を取り出すと、サトコは自分の分のお金を出した。男子二名にテーブルの上に出した代金を数え直させると、支払いを済ませた。

「男子ふたりに女子ひとり。なんだか青春の香りがするわねー」

 カウンターの中でヨシノさんが軽口を叩く。

「じゃあマキ、またね」

 そうだね、とあたしは言いそびれた。そしてドアが閉まって、背中に冷や汗が流れた。

「うそつき……」

 あたしの口から錆びついた鉄の塊がこぼれた。



「マキとサトコのカップルももう見れなくなるんだね」

「さみしくなるよー」

「最高の百合カップルだったよね。すごくお似合いだった」

 高校の卒業式当日、クラスのみんなは残念そうに声をかけてきた。舞台よ、さらば。こうしてショーは幕を閉じ、観客はまた自らの欲望を満たすべく、新たなるシアターを探しに旅に出る。そして女子高内におけるエンターテイメント「百合劇場」と共に、あたしというキャラクターはお払い箱になった。


 違う大学に行くことになっちゃったけど、夏休みには同級会で会えるね。元気でね。


 サトコからそんなメッセージをもらったのは卒業式も終わり、もう帰宅したころだった。夏休みには会えるとは、それまでは会えないということだ。それにだいたい同級会なんてあるのか。そしてたとえあるとしても、サトコが出席するのかどうかさえも疑問だった。だけどそれを削除したらもう二度とサトコには会えないような気がしたから、メッセージは削除せずそのままにしてあった。

 あたしは知っていた。不本意にも親の都合で女子高に通うことになったサトコが、高二の頃に一念発起して、美大の準備コースに通っていたことを。だけどそれでもその件についてはしばらく教えてくれなくて、ついにイラついたあたしは彼女に問いただしたことがあった。どうして週末に遊べないのか、どうして休み中も会えないのか。でもある日、ややうんざりした顔で、サトコは教えてくれた。自分は高校を卒業したら美大に行きたい。そのためにデッサンを練習している。そこには特に気の合う男子がふたりいて、やる気のある子達だし、話していても楽しいと。

 サトコは女子とのべたべたした付き合いが苦手なタイプで、学校では常に女子の集団からは距離を保っていた。なぜかあたしだけが例外で、そのうちサトコとあたしはクラス公認の「カップル」になった。だけどそれは、サトコがあたしを好きだったからじゃない。ただあの学校の中では、あたし以外とは誰とも付き合えなかっただけなのだ。

 高校の卒業式は葬式であり、今の今まで、あたしは自分自身の喪に服していたんだと思う。新しく通いだした女子大では友達なんか要らなかった。あたしが欲しかったのは救いで、友情なんていうラッピングペーパーは空しいだけの「ぺら紙」でしかなかった。

 サトコは、あいつらとの絆の方を大事に大事に守り続けたんだ。あたしは卒業後、サトコと会うことは二度となかった。さっきまでただの一度も。あたしはサトコの親友にさえなれなかったのだ。



「マキちゃん、さっきのお客さんとはお友達だったのね?休憩時間、ずらせばよかったわ。残念」

 ヨシノさんはそう言ってくれたけれど、あたしは顔なんて合わせなければよかったと思ったくらいだ。

「高校時代の同級生なんです。でも違う大学に通うようになって。せいせいしてます」

 鼻がつんとするのを我慢したせいか、胸が苦しくなった。サトコ達がいたテーブルの上は、拭いても拭いても拭きとれない。涙の粒が、ひとつまたひとつ、こぼれ落ちたからだ。

「マキちゃん、はいこれ。テーブルはいいから、まずはあなたの目の下を拭きなさい」

 気が付けばヨシノさんからハンカチを握らされ、肩を軽くぽんっと叩かれた。

「牛乳が切れちゃったの。ちょっと買い出しに行ってくれる?こーちゃん付けとくから。ちゃんと帰ってくるのよ?」

「え?マスター、あたしひとりで行けます」

 ヨシノさんが裏ドアを開けて、なにか話をしている。そしてほどなく呼ばれた中山さんが入ってきた。

「よし、行こう。牛乳だ、ぎゅうにゅう」

 そう言うと、中山さんはわたしの手を取り、もう一度「ぎゅうにゅう」と言った。

「まだこーちゃんスペシャルにラテが残ってますよ」

「デートだよ、でえと」

「あの……なんというかその……待ち合わせているんじゃないんですか、彼女さんと」

「どうせまた振られるんだからいいよ。これ以上お客さんを減らしたらまたヨシノさんに叱られるしね」


 今ばっくれたら、フラれる前にまずは彼女さんに叱られるのではないだろうかと心配したけれど、どうせフラれるなら叱られても構わないのか、などと考えながら、あたしは中山さんと店を出た。いつもの買い出し用のお店よりもずいぶんと遠回りするんだなと思いながらも、中山さんとのデートならそういうこともあるのかと思った自分に驚いた。

「ところで中山さんって、お仕事なにしてるんですか?いつも眠そうな顔してるけど」

「失敬な。フリーライターをしています。たまに写真も撮るけどね」

 怒ったそぶりも見せずに、中山さんはわき見をしながらにこにこしている。

「今のお仕事好きですか?どうやってそのお仕事に就いたんだろう」

「好きっていうか、書くことは好きだよね。知り合いに偶然仕事を紹介されて、あっという間にって感じかな」

「ふーん……」

「おや、不服かな?」

 中山さんのこの適当さにイラつかない自分が不思議だった。あたしにとってたぶんそれは、救いに近かったんだと思う。このひとなら、あたしを質問責めにはしないだろう。

「中山さん。あたしね、あたし……たぶん女の子が好きなんですよ」

「ふんふん」

「今行ってる女子大なんですけど……これは女の子がいっぱいいるから行きたかったわけじゃなくて」

「ふんふん」

「聞いてます?」

「聞いてるよ」

「ならいいんですけど」


 商店街の脇道を通って住宅街の道を歩く。誰かの家の軒先に紫陽花が咲いていて、そのあわい紫のグラデーションがきれいだった。

「中山さんとマスターっていつ出会ったんですか?」

 中山さんはお尻のポケットからスマホを取り出すと紫陽花の花の写真を撮り始めた。

「えーとね、十年くらい前かな」

「十年?すごいですね。腐れ縁!」

 でしょう?って顔をして中山さんが笑う。このひとの笑顔は反則で、たぶんこういう笑顔に彼女さんたちは惹かれるんだろうな。いや、わからないけど。

「ヨシノさんはさ、わたしの兄貴であり姉貴であり、ひと使いの荒いボスであり……なんだろうね、家族」

 家族か……。

 写真を撮り終わると、中山さんは両手を頭の後ろに組んでまた歩き出した。前からチャイルドシートを荷台に乗せた自転車がやってきて、それに跨っていた幼児がすれ違いざまに、中山さんに向かってあかんべーをする。中山さんは、それにあっけにとられると、大きな声で笑った。

「ヨシノさんのお店、いいでしょう?」

「え、はい……」

「ヨシノさんのグリルドチーズサンドイッチ、あれが好きでね」

「はい、あたしも。初めて食べたとき、感激しました」

「表面がカリッとしてて、バターの匂いがふわってして。中はとろとろのチーズ」

「シンプルなのに、すごくおいしい」

「あれはさあ、作るところを眺めてるのもいいの。目でしあわせを感じる食べ物だよ、あれは」

 中山さんのしあわせそうな顔をまじまじと見つめてみれば、やはりこれは女たらしの顔というものだ。サトコも中山さんに出会っていたら、あんなヤツらとは付き合うこともなかったんだろうか。

「中山さん。どうしたら好きな女の子と付き合えると思いますか?」

「なにをいきなり」

「ここはひとつ、秘伝を教えていただきたく」

「振られてばかりのわたしに訊いてもあんまり意味がないと思うんだけどな」

「うーん、違うの。中山さんは女のひとを惹きつけるタイプだと思うの」

「なに、マキちゃんはモテたいとかそういう願望があるの?」

「うーん……モテたいんじゃなくて、好きな子と両想いになりたい」

「それね、すっごく難関」

「えー!」

「両想いになって、それが続かなかったらどうなの?」

「えー……まずは両想いっていうのを体験したいですよ」

「別れはつらいよ?」

「中山さんの言うことはちっとも信用できない……」

「運命の相手に出会うまでは振られ続けるんだよ。その覚悟はあるの?」

「えー」

「そしてその運命の相手に出会っても、見事撃沈することだってある覚悟だよ」

「なにそれつらい」

「あれ?信じた?」

「え?」

「これはヨシノさんの受け売りだよ。まったく同じアドバイスをもらった」

「もーなんですかそれ」

「わたしにもあったのさー、そんな青春時代ってやつが」

「ヨシノさんもそんな恋をしたのかな……」

「さあね」

 中山さんは、そう言うと商店街の八百屋さんの目の前で足を止めた。アボカドをひとつ吟味すると、バイトらしき女性が、今が食べ頃だとか三個で六百円だとか説明しだした。中山さんは初々しい笑顔でおいしそうだなあ、今日はアボカドとチキンでサラダにしようかなあなどと言いつつ、アボカドを売り込むバイトさんのくちびるの動きを堪能していた。

「中山さーん。ぎゅうにゅう、買わなきゃですよー」

「あ、忘れてた」

「だめじゃん中山さん」

 ごめんね、と意味ありげな眼差しでバイトさんに詫びると、中山さんはため息をひとつついて、また歩き始めた。


「イクエータで、ヨシノさんからグリルドチーズサンドイッチの作り方を教えてもらったらいいよ。そして、いつかあの子に食べてもらったらいい。でもマキちゃんに今できることは、あの子から一番遠いところにいることだ」

「え?あの子って……サトコのこと?」

「終わってしまった関係からは、一番遠いところに行くべきだ。泣き止んだらね」

 中山さんは、またお尻のポケットからスマホを取り出して、紫陽花の画像を見せてくれた。

「これ、さっきの?」

「これね、一年前に撮ったやつ。さっき撮ったのと同じところのだけどね。きれいだけど、やっぱり生で見るのが一番いいねえ」

「それはそうだけれど。写真だってきれいでしょう?」

「でももう触れないじゃない。終わってしまった花は、もう二度と触れないんだよ」

「じゃあなんで写真なんかに撮るの?」

「思い出にするためだよ」

「思い出にしたくない場合は?」

「あの子のこと、まだ思い出にはしたくないって口ぶりだね」

 中山さんの憎まれ口は並々ならぬものがある。

「花より団子。グリルドチーズサンドイッチ」

「中山さんのばか」

「お花もいい匂いがするけど、チーズの匂いもたまんないよお?」

 ああそうだ、確かサトコもチーズが好きだったな。

「じゃあ、作り方をマスターしたら、中山さんが最初のお客さんになってくれる?」

「おっけい。その代わり、味にはうるさいよ?」

 きっとそうなんだろう。中山さんはすぐにはOKを出さないつもりなんだろう。

「あと、おしゃれの仕方も教えて。かっこいい大人になりたいの」

 あたしの推測によれば、このひとはおしゃれの上級者だ。

「甘いよ、マキちゃん。おしゃれはそのひとの生き方が出るんだよ。このひとかっこいいなってひとがいたら、いいとこだけ盗むこと。ファッション雑誌なんか信じちゃダメ」

「えー……」

「トライアンドエラー。恋に落ちて振られる。同じことでしょ?」

「違うでしょ、フラれ過ぎ……」

「言うねえ」

「あ、ぎゅうにゅう……」

「じゃあ帰ろっか」

「え?」

「イクエータの斜め前のコンビニでいっかな?」

「まじで?」

「グリコのカフェオーレってあるでしょ?あれが飲みたい」

「ちょ……中山さんそれ反則。ヨシノさんとこ帰ってから飲もうよ」

「たまーに飲みたくなるんだよねー」

「えええええええー?」


 結局あたしたちは牛乳を買うこともなく、コンビニでグリコのカフェオーレをひとつ買って、ヨシノさんの待つイクエータに帰った。もちろんその前に中山さんは、ヨシノさんへのリスペクトを怠らず、グリコのカフェオーレを一気に飲み干したので、お腹がたぷたぷすると文句を言う羽目になった。

「お帰りー。ねえ、お腹減ってない?グリルドチーズサンドイッチ作ったげようか?お客さん来ないのよお……」

「あ、今中山さんは、お腹いっぱいみたいです。マスター、わたし、作りたい。教えてください、作り方」

「いいわよ。フライパンにバターをたっぷり入れてね。それから……」


 恋と食べ物の間には、解けそうで解けない数式があるような気がする。あたしはここで、究極のグリルドチーズサンドイッチの作り方を修行することに決めた。あたしはこれから何度もグリルドチーズサンドイッチを作るだろう。そして何度も身を焦がす恋をするだろう。その度に失敗して傷ついて、その傷の深さに泣くだろう。


 カフェ・イクエータへようこそ。

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イクエータ 河嶌レイ @ray_kwsm

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