そうして俺も生き続ける
淺羽一
〈短編小説〉そうして俺も生き続ける
そもそも戦争と言うものがどうして起こり、一体いつまで人間同士の争いは続いていくのか。そんな事は頭のお偉い学者先生などが考えればいい事であって、自分みたいに学のない人間は、変に小難しい考えなんか放っておいてただ毎日を何とか生き抜いていくしかないのだと、
頭が弱く、要領も悪く、さらには運動神経も鈍い一太だったが、唯一彼にも人並み程度に出来た事は、料理だった。と言っても、作れる献立は派手さや洒落っ気とは無縁の、あり合わせのものを適当に使ってこしらえる様なものばかりだったが、却ってそれが皆にとって重宝がられる理由でもあった。豪勢なご馳走や洒落た晩餐などは、物資に余裕なんてろくにない戦場に於いて、期待するだけでさえ気力を浪費する代物でしかなかったからだ。
風が吹く度に薄い木壁がギシギシと鳴るおんぼろの基地には、一太を合わせて十人程度の兵士がいた。何せ、山林の片隅にある小さな建物だ。部屋数は少なく、一太みたいな下っ端はタコ部屋さながらに窮屈な場所で、とっくの昔に綿の潰れた硬い寝台を上下左右に重ねて並べ、同室の人間のいびきや歯ぎしりを、自身が発するそれ以上の音で掻き消しながら眠ると言う日々を送っていた。
そんなある日、いつも通りの夕食を用意しながら一太が他の仲間の帰りを待っていると、突然、食堂の裏口の扉が乱暴に叩かれた。
一太は思わず火から下ろそうとしていた大鍋の中身を床にぶちまけそうになった。しかし、寸前でそれを何とか堪えられた彼は、すぐさま近くにあった包丁と、さらには本当に間抜けな事に長ネギを一束、両手に掴んで、恐る恐る裏口の方へと近付いていった。
共に暮らしている兵士でないのは明らかだった。いや、仮にそうであったとしても、少なくとも何らかの異常事態が起こっている事だけは確かだった。なぜなら、彼らは絶対に裏からこそこそと入ってくるような真似をしないからだ。勇ましくも愚かしくも、それが彼ら軍人の矜持だった。
足音を忍ばせた一太はやがて裏口の扉の前に立つと、息を殺してそこに耳を近付けた。
聞こえてきたのは、何やら奇妙な声だ。大きくはないが、かといって空耳でも決してない、ましてやちゃんと意味を成している言葉でもない、強いて喩えるのなら猿ぐつわを噛まされた獣の唸り声だった。
一太は一瞬、森の動物が飯の匂いに誘われてやって来たのかと考えた。だが、すぐにそれは違うだろうと気を引き締める。なぜなら、森を生涯の定住地としている彼らは、ある意味、人間よりも遙かに賢いからだ。腹が減っているからと言って、わざわざ自らが食われるかも知れない場所にのこのこと近付いてくるはずがない。実際、そうであるからこそ、毎日の食材の調達も一苦労なのだから。
扉が再び叩かれた。一太は、どうしようかと悩んだ。
残念ながら、催促するみたいに鳴り続ける扉の音を背景に、有効と思える妙案など浮かんでこなかった。元来、頭を使う仕事に向いていないのだ。しかし、だとすれば一体どうすればいいのか。一太は今にも壊れそうに揺れる貧弱な鍵を見ながら、さらに脳みそを働かせた。
もしも敵兵だったらどうしよう。飢餓で狂った獣でも危ない。皆が帰ってくるまでこのままで待っていようか。いやいや、万が一、傷ついて喋る事も出来なくなった味方の兵士がなりふり構わず助けを求めているのだとしたら――
相変わらず、扉は叩かれ、外からは奇妙な唸り声。そうして遂に、一太は覚悟を決めた。彼のそれを助けたのは、結局、ふと湧いてきた好奇心だった。一体、何がいるんだろう。
果たして彼は包丁とネギを握り直し、足を広げて体を支え、ゆっくりと、慎重に、扉の鍵を……外した。
次の瞬間だった、いきなり扉が彼に向かって凄い勢いで迫ってきた。彼は思わず間抜けな悲鳴を上げて尻餅をついた。直後、そんな彼の上を何かが素早く飛び越えていった。
一太は、床に転がった姿勢のまま、臀部の痛みも、それまでの恐怖も忘れ、呆然とそれを見ていた。多人数用の食卓の上に並べていた
ただ、同時にその少女は確かにおかしかった。おそらく淡紅色の薄い着物は、泥に汚れて濁った茶色をしていて、さらに所々が破れてぼろぼろだった。はだけた隙間から覗く肌は病的なほどに白く、そのくせ乱雑に伸びた髪は闇のように黒く、山歩き用の長靴どころか女物の浅靴さえ履いていない素足には、土に混じって血が付いていた。
と、そこで急に女がむせた。両手に乾麺麭を握ったまま胸を叩くせいで、床にぼろぼろと砕けた粉が落ちる。
驚いた一太は、真っ先に視界に捉えた大鍋から出来上がったばかりの
――悲鳴を上げて飛び跳ねた。どうやら熱かったらしい。器を床に落とした女が、細い肩を震わしながらも、目やにの浮いた漆黒の瞳でキッと睨んでくる。
一太は慌てて、すまんと叫ぶと、今度はすぐさま
女と並んで床に座った一太は、改めて尋ねた。お前は一体、何処の誰なんだと。
女はそれに答えず、またしても落とした乾麺麭を拾い、さらには床に転がる器に顔を近付けて残った芋汁を舐め取ろうとした。
一太はまさしく動物みたいだなと感じながらも、うら若き乙女が床に這いつくばって舌を伸ばす様はいかがかと思い、とりあえず改めて程よく冷ました芋汁を器によそってやった。
途端、女は満面の笑みを浮かべると、いそいそと姿勢を正し、それから左手で器を掴んで右手で芋汁をすくって食べ始めた。心底から美味そうな顔で、女はあっという間に芋汁を平らげた。よっぽど腹を空かしていたのか、器は新品のごとく綺麗になっている。そこで一太は、またそれを満たしてやった。ほんの少しだけ皆の分が足りるかどうか心配になったけれど、己の取り分を減らせばいいと納得した。名残惜しそうに指をしゃぶっていた女は、嬉しそうな声を上げてすぐに食事を再開した。
一太はずっと女の様子を眺めていた。途中、何度か話し掛けてみたり、名前を尋ねてみたりしたものの、女は食事に夢中でほとんど聞いておらず、ようやく顔を向けたとしても何も理解していないのか不思議そうな眼差しを浮かべるだけだった。結局、彼は質問を諦めてただ彼女を眺めていた。
落ち着いて見れば、整った顔立ちをしている女だった。長いまつげに縁取られた瞳は一太のそれよりも遙かに大きく、今はカサカサにひび割れている唇も、ちょっと紅でも引いてやるだけですぐに年頃の娘に相応しい生気を取り戻しそうだ。そして何より、崩れた着物の襟元から覗く肌や、大胆にむき出しになった太股が、紛れもなく女性であると言わんばかりの妖しさを放っていた。
一太は奇妙な熱さを胸の内に感じながら、ぼんやりと思い出していた。そう言えば、こんな風に女と並んで、しかも二人きりでいる状態なんて、まだ性というものをちゃんと理解していなかった幼子の頃以来ではないだろうかと。……一太は、胸の熱さが頬にまで伝わっているのを自覚した。だからこそ、下らない情想を振り払う風に頭を左右に勢いよく回したら、何を勘違いしたのか女が真似をして長い髪がばさばさと広がった。楽しそうに黄色い声を発して頭を振る様は、純粋無垢な赤子めいていて、一太はもう呆れるのを通り越して笑ってしまっていた。
と、そこでいきなり基地の入り口の方から声がした。隊長の声だ。
一太は床が焼け石になったみたいに立ち上がると、すぐさまそちらへ向かおうとして、足を止めた。女はまだ、空になった器を両手に持って頭を振っている。
数瞬間だけ迷った一太だったが、そのすぐ後には女に手を伸ばしていた。女は目の前に差し出された男の手に、少しだけ小首を傾げたものの、やがて床に器を置いてそれを握ってきた。一太は女の手を引いて廊下へと出た。
出迎えが遅れた事に対して隊長は一太に何言か怒鳴ろうとしたらしかったが、その寸前、口を大きく開けたままの状態で動きを止めた。後ろに並ぶ他の面々も皆、似たり寄ったりの顔をさらしていた。
一太は隊長が動きを取り戻す前に、さっさと女から手を離し、急いで事情を説明した。と言っても、彼にだって何が何やら良く分かっていないのだから、ありのままを報告した。当の女は突然に沢山の視線を浴びる事になって警戒でもしたのか、一太の背中にしがみついたまま、彼の脇の下から様子を窺っていた。
ややあって事態を把握したらしい隊長が、再び口を開いた。一太はそれに、反射的に身を固くした。緊張が伝播したのか、背後で女が彼の服を掴む力を強くした。
予想に反して隊長は怒鳴らなかった。隊長と言われれば真っ先に思い浮かぶのが怒鳴り声であるほどなのに、彼は納得顔で静かに頷くと、一太にひとまず飯の支度をするように告げただけだった。
一太は少なからず肩すかしを食らったみたいな気分になったものの、すぐさま了解の意思を示し、食堂に戻って夕食の用意をする事にした。勿論、簡単にだが床の掃除もした。女は、食卓の片隅に座らされるまで、ずっと一太の服の端を掴んでいた。
夕食が始まってすぐに、隊長は数日前に近隣の村々が敵兵によって占領……いや、殲滅された事実を告げた。すでに一太以外の兵士は承知の話だったのか、驚いたのは彼一人だけだった。女は隊長の話も聞かずに、また芋汁に入った具を手づかみで食べていた。
隊長の説明に寄れば、おそらく女はその村のどれかから逃げ延びてきた生き残りだろうと言う事だった。ただし、女の状態が生まれつきのものなのか、それとも気が触れるほどに恐ろしい目に遭遇したせいなのかどうかは、判然としなかった。
一太は心配していた。女の事情がどうあれ、自分達は現在進行形で任務に従事している兵隊であり、だとすれば民間人でしかない者をこのまま保護してやるなんて可能なのかと。当然ながら同情はするだろう、誰もが。しかし、この基地の実状はお世辞にも余裕があるとは言えないものだ。そして一太には、隊長の決定に異議を唱えられる権利も無い。
果たして、隊長が発した結論は、そんな考えが杞憂に過ぎなかった事を教えてくれる内容だった。隊長は当面の間、女をこの基地で保護する事を決めた。
一太は思わず礼を叫んでいた。自分でもどうしてなのか今ひとつ理解していなかったが、それでもとにかく隊長や皆に感謝したかった。
とは言え、彼はやはりまだ全てを分かってなどいなかったのだ。つまり、女がどういう存在として扱われる事になったのかという事を。此処では一切の例外なく、働かざる者食うべからずであり、白痴の女に出来る仕事など限られていた。
女は基地にいる兵士全員の共有財産となった。
女が美しかったと言うのも幸いした。同時に、女の理性が壊れてしまっている事は、少なくとも女にとっては、やはり幸いだったのかも知れない。自身がどんな辛い境遇にあるのか、おそらくはそれさえも分かっていなかっただろうと言う意味で。
女は部屋を一つあてがわれ、さらに名無しのままでは不便だからと隊長から名前も付けられた。
白は基本的に何でも食べた。と言うか、一太が気を付けてやらないと皮も剥いていない生の野菜にまでかぶりつこうとするくらいだった。しかしながら、そんな彼女にもやはり好き嫌いはちゃんとあるらしく、中でも彼女のお気に入りは、一太が作る、皮を剥いて下ゆでした芋を適当な大きさに切って油で揚げ、冷めない内に少量の砂糖をまぶしたものだった。それはまた他の者にも人気の料理の一つで、普段は甘いものなど軟弱だと厳しい事を言う隊長でさえ、たまに一太がそれを作って差し入れると恐い顔をしながらも黙って受け取った。勿論、隊長に渡す際には、皿を使わず紙で包んで渡さなければならない。皿が空になる度に捨てられては、基地の食器があっという間に無くなってしまうからだ。
一太は、身も心も苛まれる戦場にいながら、楽しかった。皆がいない時は、白と二人で基地を掃除したり、食事の準備をしたりした。たいていの場合、彼女は役に立つどころか彼の邪魔をしてばかりだったが、時折、殊勝な態度で芋の皮むきを手伝ってくれる姿は、まるで必死で親のご機嫌を取ろうとしている子供みたいだった。ご褒美は、言うまでもなく揚げ芋だ。
結論から言えば、一太は白を抱かなかった。代わる代わる白の部屋を訪れる仲間を横目に見ながら、それでも一太だけは決して彼女を抱こうとしなかった。皆に臆病者だとか、腰抜けだと嘲笑われながらも、一度として。本音を言えば、抱きたかったにもかかわらず。
理由は簡単だった。白が、笑わなかったからだ。暴れたり、逃げだそうとしたりなんて全くしなかったものの、だからといって彼女がその行為に対して悦びを見出していないのは明白だった。いつしか、食堂で揚げ芋にかじりついている時以外で、彼女の笑顔を探すのはとても困難になっていた。
その日も、一太は皆がいなくなった基地で黙々と食事の用意をしていた。白は、昼前に飯をねだりに来たきり、一向に姿を見せる気配がなかった。部屋で寝ているのだろう。最近、やけに疲れている風に見えていて、一太はその身を案じていた。
一太はいつ白が顔を出しても良いようにと、何よりも先に揚げ芋を作り、それから夕食の下ごしらえをしていた。……静かだった。仲間は留守で、いつもはうるさいくらいに賑やかな白の声も聞こえず、一太は自身もひたすら無言で鍋の中をかき混ぜていた。
愚かな考えが、頭に浮かんでいた。やはり下手に脳みそなど使うものではないと、一太は肉体の動きを習慣に任せる事で、何とかそちらを無視しようとしていた。もう数日前から、ずっとそうしていた。
大切なのは、何よりもまず生き延びる事だと、一太は思っていた。どれだけ見苦しくとも、情けなくとも、生きてさえいればまだ諦める必要もないのだと。それは、もしも他の仲間に知られたら馬鹿にされるどころか、きっと思い切り殴られる考え方だったのだろうけれど、それでも一太はそれこそが人間にとって最も大切な事だと信じていた。そしてだからこそ、その為には、己の力を過信したり、迂闊な真似をしてはならないとも悟っていた。
だが、それなのに、一太の頭の中に居座った愚考は、あたかも甘く芳潤な果実のごとく、必死で忘れようとする彼の意識を誘っては彼の動きを鈍らせていた。実際、彼は今朝も指の先を包丁で切った。そんな失敗をするなど、ずいぶんと久しぶりだった。
一太はふと、視界の端をよぎったそれを見た。皿の上に盛られた揚げ芋は、もうとっくに冷めていた。
一つ、つまんだ。そして、情けなくなった。
安くて古い油は、揚げ立てであればともかく、冷え切った後では風味の壊れたべたつきを口の中に広げるばかりで、粗悪品ながらも稀少なせっかくの砂糖の味だって、舌にはくどさとしてしか感じられない。みすぼらしい食事の合間では格別に素晴らしく思えるそれも、所詮はやはり単なる気休めでしかなかった。
一太は心の底から思った。こんなものを、極上の菓子さながらに頬張る白の、何と不憫な事か。こんなものですら、満足に民間人に行き渡らせる事の出来ない自分達の戦いに、意義こそあれ、一体どれほどの価値があるのか。
分かっている。もしも戦う事を放棄してしまえば、こんな食べ物さえ手に入らなくなるのだろう。しかし、それではいつまで戦い続ければいいのか。どうなったら勝ちで、何を成せれば終わりを迎えられるのか。
そんな事、頭の悪い一太に分かるはずがない。そして、そうであるからこそ、一太は考えた。それでは、白はこれからも延々と、乱暴な男達の慰み者として生き続けなければならないのかと。
気付いた時にはもう、彼は走っていた。手には紙に包んだ揚げ芋を携えて。
その部屋の扉を叩くが、返事はなかった。だから彼は僅かに逡巡したものの、それを開けた。鍵は掛かっていなかった。
白は寝台の隅で、膝を抱えるような体勢のまま眠っていた。眠る時でさえ、何かに怯え、我が身を守ろうとするみたいに両腕を体に回すその姿に、一太は思わず彼女の名を呼んでいた。
ぼんやりと目を開けた白は、寝惚けているのかきょろきょろと部屋の中を見回していたが、一太は構わずに言った。持っていた包みの口を少しゆるめ、揚げ芋を覗かせながら、今すぐに此処から逃げようと言った。
当然、白は従うと思っていた。確かに、彼女には逃げる理由どころか、そもそもその意味さえ分かっていないのかも知れない。それでも、他の誰でもない一太が、大好物の揚げ芋を見せてやれば、彼女は何も分からぬままに付いてくるはずだった。
そう、そのはずだったのだ。しかし、現実の白は、まるで彼の予想していなかった行動を取った。彼女はようやくそこが己の部屋である事に思い至ったのか、感情のそげ落ちた眼差しを一太へ向けると、緩慢な動作で着物を脱ぎ……寝台の上に仰向けに寝転がって、両膝を浮かせるように足を上げた。
一太は、期待に表情を明るく染めたまま、凍りついていた。手から揚げ芋の包みが落ちて、床に砂糖の粉が散った。
白は天井を見ていた。まばたきさえほとんどせず、真っ黒の瞳はいっそ底の見えない穴ぼこみたいだった。
一太は震える声で呼び掛けた。それから何度も言った、逃げようと。微塵も動く素振りを見せない白に、露わになった乳房や薄い陰毛をひたすら視界から追い出しながら、一太は何度も何度も彼女の名を呼んだ。此処にいるのが自分であると、伝えようとした。
すると、そのおかげか、遂に白の視線が、ゆっくりとだが一太へと向けられた。
目が合った。一太はさらに声を高くした。……直後に、絶句した。
白は、一太の事などまるで分かってないように、またしても瞳を宙に飛ばした。一太は、それが自らを見つめたのではなく、ただ単にいつまで経っても行為に及ぼうとしない相手が未だに存在するのかどうかを確かめただけだったのだと、遅ればせながら気付いた。そうして彼は、悟らされた。
詰まる所、白は一太にだけ笑顔を向けていたわけではなかったのだ。彼女が笑いかけていたのは、食堂で揚げ芋をくれる相手、だったのだ。それは決して一太ではない。たまたま、此処では一太がその役を与えられていたと言うだけで、彼でなければならない必然性など皆無だったのだ。現に、彼の役は今、部屋を訪れた男の一人、だ。
一太は笑った。大声で嗤った。いっそ涙がこぼれるほどに喉を震わせた。そのまま寝台に近付いて、白に覆い被さった。足下で何かが砕ける音がしたが、気にも留めなかった。
服を脱ぐのももどかしく、一太は欲求に突き動かされるままに、彼女の裸体をまさぐった。本能に命じられるまま唇を貪った。さらけ出した己の姿に、激しい嫌悪感が生まれて、それは即座に仄暗い支配欲へと昇華した。顔色一つ変えないくせに、白の体はもう濡れていた。
赤黒く染まったそれを、遠慮も躊躇もなく、小柄な裸身に突き立てた。かすかに白の唇から吐息が漏れた。
一太は獣じみた唸り声を上げながら我を忘れて腰を振った。女の胸が柔らかな液体を丸めたものだとすれば、女の中はそんな液体を十分に吸った極上の海綿のようではないか。そしてあっという間に、彼はそこへさらに自身から放たれた汁を染み込ませた。それから、またすぐに腰の動きを再開させる。余韻に浸ろうなんて欠片も考えていないみたいに、卑猥な音の大きさを一層に激しいものにした。結局、彼は合計で三回もした。
その夜、食堂で夕食の後片づけをしていた一太の下を訪れた白は、いつも通りの仕草で食い物をねだってきた。一太は、その媚びるような笑みを無心で見下ろしながら、冷めた揚げ芋を渡してやった。彼女はやはり、本当に幸せそうに目を細くした。一太はもう、泣く事も笑う事もせず、美味そうに芋をかじる白を隣りに置いたまま、再び皿洗いを始めた。言葉を知らない幼児のごとく、白は口の周りに砂糖を付けたまま嬉しそうな声を上げていた。
日常は、やはり変わらず毎日訪れた。一度でも衝動に従った一太にはもう、逃げ出そうという気は無かった。ましてや、白を連れていこうだなんて思わなかった。決して、彼女を嫌いになったわけではなかった。ただ、自身の矮小さを学んだだけだ。己の無力さを誤魔化す為に、すでに出来上がっていた役柄は大いに便利な代物だった。だから一太は、彼女に笑いかけられる自分という殻にその身を押し込んでいた。
そんなある日、やはり窮屈な時間は一太の心を徐々に疲弊させていたのだろう。彼は珍しく、汲み置きの水を切らすと言う失敗を犯した。と言っても、それに気付いたのはまだ夜も明けていない頃で、隊長達が起きてくるまでには幾らかの時間的余裕があった。
一太は、入り口で見張りに立っている当番の仲間にも告げず、空の桶を二つ抱えて裏口からこっそり外へ出た。
昼間は汗ばむほどの森は、まだひんやりとしていて、一太は暗さに目が慣れてからは大した苦もなく近くの沢へとたどり着いた。それから桶に水をたっぷりと入れて、来た道をえっちらおっちら引き返す。やはり何事も起こらなかった、基地のすぐ傍にまで着くまでは。
突如として響いた銃声に、一太は体勢を崩して持っていた桶を勢いよく落とした。だが、派手に転がった桶の音も、続け様に鳴った銃声に掻き消された。
一太は慌てて木々の間に身を潜め、息を殺して基地の様子を窺った。そしてそのまま呼吸も忘れるほど眼前の光景に目を奪われた。
一発目の銃弾が、基地の入り口に立っていた仲間へと放たれたもので、二発目のそれが、撃たれた彼が最後の抵抗とばかりに放ったものであるのだろうと一太が悟った時にはもう、基地の向こうから現れた敵兵は、地に倒れた味方の屍を踏み越えて一気呵成に攻め込んでいた。鼓膜が破れそうなほどの轟音が、現実に一太の頭上の木の葉をざわざわと揺らした。
敵ながら見事な朝駆けだった。実際、おそらくは敵部隊の方が兵の総数は少なかったはずだろうに、決着は容易く付いた。死体となった一太の仲間が、同じく死んだ敵兵とは雲泥の差の扱い方で基地の外まで引きずられ、また体中を真っ赤に染めた仲間が敵兵に乱暴に銃で押されながら出てくる様子を、一太は身動き一つ出来ずに眺めていた。
まるで処刑を執行しようとする風に、敵兵が生き残った数人の仲間を建物の前に並べていく。見知った顔ぶれが、悔しそうに表情を歪めながら、一人ずつ地に膝を突いていく。それをにやけ顔で見守る敵兵の手には、きっと仲間の誰かから奪ったのだろう、抜き身の軍刀が握られていた。
一太は、恐ろしくなった。目の前で銃撃戦が繰り広げられ、仲間の大半がそれで殺された時よりも、さらに激しく恐怖した。いつもはあんなにも屈強そうな彼らが、こんなにも弱々しい態度をさらしている事実に、自分などでは絶対に太刀打ち出来ないのだと思い知らされた。
最早、逃げるしかなかった。今ならまだ、敵兵も一太の存在に気付いていない。そしてもうしばらくは、目の前の行為だけに集中してくれている事だろう。だとすれば、生き延びる機会は今しかなかった。
湿った土を舐めんばかりに地に伏した一太は、慎重に、細心の注意を払って、ゆっくりと身を翻す。蜥蜴さながらの格好でずりずりと、胸の下で一層に濃密になった草の匂いにむせ返りそうになりながらも、そうして今度はゴキブリのごとき素早さでその場から逃げ出そうとした。
だが、動きを止めた、およそ一尺すら進まぬ内に。
再び反転した一太の目に、細い体を敵兵によってがっしりと抱えられた白の姿が飛び込んできた。大声で呻きながら両足を振って暴れる彼女を、周囲の敵兵は下卑た目つきで眺めている。
一太は今度こそ、我を失うほどに恐ろしくなった。
このまま白を見捨てて逃げる。それによって何とか生き長らえる。その結果、きっと彼は、愚かな脳みそは、馬鹿なくせにそんな記憶だけはいつまで経っても忘れてくれないのだろう。己の生き残れた理由を、未来永劫、ことあるたびに思い出させるのだろう。そうして一太は、罪悪感を抱えたまま生き続けるのだ。
何と恐ろしい事か。そしてどれほど虚しい事か。好きな女一人守れず、仲間を裏切り、その果てにお情けのごとく与えられた命に、孤独の中でしがみつき続ける。確かに、それでも生きていられるのであれば、多少なりと意味はあるのかも知れない。だが、それでもだ。そこに一体、どんな価値までを見いだせと言うのか。
気付けば一太は飛び出していた。大声を上げながら、空になった桶を振り上げ、走っていた。
乾いた銃声が一発、鳴った。たったそれだけで、足を撃ち抜かれた一太はその場に崩れ落ちた。彼に何が出来るはずもないなんて、とっくに分かりきっていた。
一太も仲間の隣りに並べられた。足を曲げる際に激しい痛みに襲われたが、気丈にも耐えて見せた。体を触られるたびに指に噛みつこうとしていた白が、いつしか暴れるのを止めて彼を見ていた。その白痴美を、心から愛しいと想った。
見せしめのつもりか。いや、きちんと伝えるべき者も残さずにそれは成されるのだ。だとすれば単なる余興なのだろう。順に目隠しをされた仲間が、一人ずつ首を切り落とされていく。敵兵が哄笑する中、涙を流す者や、小便を洩らした者はいたが、命乞いをする仲間はいなかった。皆、雄々しく叫びながら死んでいった。
一太もまた、助けてくれと懇願しなかった。本当は、それで助かるのであれば、そうしたいと言う気持ちも皆無ではなかった。しかし、彼はそれをあっさりと塗りつぶして自らを満たす想いに従い、ずっと白を見つめていた。きっと、彼女だけは助かるのだろうと、様々な葛藤の果てに、せめて今だけはそれを喜ぼうと決めた。
しばらくして、最後に一太の番が回ってきた。背後に回った敵兵に目隠しをされる間も、彼はひたすら目を閉じないでいた。
敵兵の隊長が、最期に言い残す事はあるかと聞いてきた。一太は迷わず答える事にした。意思を無視して震える体はそのままでも、カチカチと鳴る歯だけは必死に止めた。
聞き慣れた白の声がした。やはりいつもと変わらぬ間抜けな声だった。それが妙におかしくて、一太は思わず頬をゆるめた。そうしたら腹から声を出せた。傍らに立つ敵兵が、白刃を振りかざした気配を感じながら。
その女が食堂を訪れたら、油で揚げた芋に、砂糖をまぶしてやってくれ。
〈了〉
そうして俺も生き続ける 淺羽一 @Kotoba-Asobi_Com
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