抽象商店街
韮崎旭
抽象商店街
ちゅうしょう商店街ではさまざまなちゅうしょう商店があり、そこではさまざまなちゅうしょうが売られていると言うのだがそこまで行くのにまず3回ほど電車を乗り換える必要があった。その商店街は駅前にあったのですぐに見つけることができた。そこには抽象商店街との看板があり、商店街の外観もとても商店街のイメージに合致していたのだが、私はそれを中小商店街だと考えていたので、若干の驚きがあった。しかし、見れば見るほど、それは、抽象商店街という名前がついているのが不思議なほど何の変哲もない商店街だった。私は無性にそこに「スズラン銀座商店街」という名前をつけたくなった。通行している人に尋ねると、「ここは結構まだ、中小商店主による商店が活発に経営されていてね、品ぞろえもなかなかだから、地方都市では珍しい方だと思うよ、最近では地方都市の商店街はシャッター通りが多いからね、隣の駅の、あ、いや、隣の隣か、そこの駅ももうだいぶ廃れてきていたからね、先月……か、靴下と上履きを買いに行ったんだが、洋品店の店主がこぼしていたよ、全く以前は平日でも人通りが絶えないのにね、今じゃあ休日でもこのざまでさ、まばらだものね、人が、みんな県庁所在地に行かずに首都圏まで出てしまうよ、ちょっと暇があると、ほら近いから、電車でね、だってそりゃここなんかより品物はあるしね、仕方ないけれどね、とかそういうことをね、それで釣りに行ったんだが、すごくブラックバスが釣れた。あとオニバスがたくさん元気に生き生きと咲いていた。でも問題なのは、オニバスはその葉が広いってことで、上に鳥とかが良く乗っていたよ、特にバンはね、うん、いるよね、でね、水鶏っていう、あれは何だろうな、釣具屋さんでもないんだよな、まあ何かではあるんだが、それがそこにあって、ああ、そこっていうのは、その釣りに行った水辺にね、あって、そこでサンショウウオとか展示しているのさ。でそこの名物がカレーなんだが、これがブラックバスの有効利用で、何でも衛生管理の担当者をおいていて月に何回か衛生管理に関する検査とかもあるらしくて、もともとブラックバスはこの辺ではなんだったかな……放棄された養殖池から逃げ出して、野生化した奴が、在来種を頻繁にかつ量も多く食べるというので、問題視されていたのだが、まさか池などの水をすべて抜くわけにもいかないだろ、だから地道な……よく言えばね……焼け石に水っていうか……、駆除が行われているわけで、でもハブほどの危険物ではないから役所に持って行っても何ももらえないというか役所の方でもブラックバスとかもちこまれて当惑した時期があったらしいので、『でしたら焼却ゴミとして処分していただいて』とか返答していたらしいが、ただ燃やすのも、っていうんで、まあ地元の商工会とかでもいろいろ考えてね、それでまあ、商店主とか、池の管理者とか、環境課とかが外来生物町おこしプロジェクトみたいなものをし始めたのがもう何年前かな? まあとにかくそこのブラックバスカレーは、具が魚でさえなければ結構うまいから、食べに行くといいよ、あ駅名いってないや。ええとね、長いに沼に家屋の屋でいしざわって読むんだわ。まあわからないからね、いや正直地元の人間でも意味が分からないし、当て字かなんかじゃないかな、その、アナウンスで『いしざわ』っていうから、そこでおりればいい、で、いしざわ水辺の公園というのがあるから、そこで、園でも釣りの道具とかは貸し出してるし、ブラックバス用の焼却炉もあるんでまあ取れたらそこに繋がってるブラックバスポストに入れるもよし、ただし捕まえても戻すなよ、ブラックバスはな。園の方でも『さかなのみわけかた』っていうリーフレット用意しているから、それで判断して、わからないようなら職員に、でそれで、ブラックバスカレーは、その園じゃなくて、その一駅先の三山(みやま)駅からバスで約12分くらいの、『長沢郵便局東』バス停で下車して、右に向かって直進し、二つ目の信号を右折して、左手にある建物だ。あなたはそれを容易に見つけるでしょう。まあそういうわけだ。この商店街にはで、何を求めてきたのか?」
「ブラックバスってやっぱ泥臭いんですか?」
「それはもうこれ以上ないくらい泥臭い。食えたもんじゃない。いくら泥抜きしてもまるで無意味。だから乾燥させて魚質燃料、ほら、木質燃料ってあるだろ、あれの魚版で、魚質燃料にでもして、火力発電所の燃料にでもした方がいいね、絶対に。それがだめなら家庭用に小売りするとか、とにかくあれは人間の食いもんじゃないね、確実に」
「それはそこの水辺が特に泥臭いんでしょうかね」
「ああ、水質も良くないから絶対泳ぐなよ。生活排水が流れ込んでる」
「アオコとかも」
「毎月見られる」
「なるほど、で、ここに私は……、」
「それからポールは看板を読み間違えたのかと誤解したんだな、無理もないさ、あ、ポールっていうのはマークの知人の姉の知人で、マーク自身は留学生として千葉県に滞在していたんだが、千葉県ではその日人身事故で同じ路線が一日に二回止まってさ、マークは考えた、『今日は日曜日。明日が月曜に。明日が出勤や通学の開始と重なるから、大抵憂鬱になる人間が多い。だから憂鬱になるのを避けたい人間もいる。誰もが抗不安薬を処方されるわけじゃない。自律神経失調症だと思っても、かならずしも医療機関を受診するわけではない。まして、どの科に行けばいいのかわからないことだって少なくない。まして、精神症状と身体的な不調が重なった場合、精神疾患の身体症状なのか、体調不良によって精神状態が害されているのか判断できない。この場合、心療内科か精神科か内科かで迷うことになるが、精神科に受診するのをためらう人もいる。だが、内科や近隣の医院などで医師の診察を受けても、具体的な不具合がかならずしも見つかるとは限らない。さしあたり、季節の変わり目ですから、よく眠るように、などといわれて、吐き気がしたときには、と、胃腸の働きを整えるような薬をもらったりもする。でも日曜日になるとひどい憂鬱になり、吐き気どころではなくなる。吐き気がしても、対処しようという気概がない。そもそも、外出する時点では吐き気はなかったのかもしれない。不安感を、辛うじてごまかして延命している。その点では現在の延命医療の在り方の問題点ともつながりを感じる。治癒の見込みのない、生活の質を著しく損なう状態の継続を行うことが、果たして医療・福祉として正しいのか? 今日は日曜日なので、極めて憂鬱なのだ。従って日頃の不安感が増幅しやすい。些細なことでもひどく落ち込む。だから、実際に何かの問題を抱えているのではないかと疑う。それでも、医療機関を受診した挙句に、「あなたは医学的に正常の範囲内です」つまり?「健康、ということですね。まあ、ちょっと疲れがたまっているようですから、深刻に考えずに体を動かすなど、あなたなりにリラックスできる方法を試してみてください」などと言われたら? と考えると受診をためらう。辛さに然るべき収まりどころがなくて持てあます。だからといって、薬物療法をこちらから申し出ることもこと精神症状に関してはためらわれる。乱用の危険性、嗜癖との相性の良さ、そういったものを見出されたらと考えると居ても立ってもいられない。吐き気や頭痛に関しては気軽に投薬を望むことができたとしても、向精神薬の処方をこちらから申し込むことはいかにも気がひける。「副作用の危険もありますし……」などと諭されたらと思うと考えただけで、気まずさで電車に飛び込みたくなる、あ、電車が来た。電車に飛び込みたい。電車に飛び込もう。そうして、電車に飛び込んで死ぬ……。むろん薬物療法を必要とし始めている感じがある時点でそれはもう社会病理に通ずる何かの存在を背後に感じる。ごく普通に生活することに、中枢神経系に作用する薬物の使用がなくてはならないのは明らかに無理がある。だが、手に負えない』と。でポールっていうのは……」
「電車が止まったんですか」
「ええ毎日ね、人身事故で」
「私はここの商店街に……」
「でポールがまた血が見たいっていうから、仕方ないなって屠畜解体の映像がええと何だったか、DVDで、あの屠畜場っていうか食肉加工場で出しているのがあってね、教育的なやつさ、貸したんだが、いやだって、他にないだろ、血液が映ってる映像とか。それで貸したんだが、まあ映像的には悪くないがもっと淡々としていた方がいいね。というか牛が何頭死のうと自分が死ぬ訳ではないから基本的に面白くない。と言っていてね。でもポールはそういうことを言いつつも礼儀正しいから、礼儀正しく礼を述べて私に借りたものを返したよ。ポールのやつそのうち自分で自分の動脈切って死ぬんじゃないかな本当に。実際昨月は何かを縫合しに整形外科だかに行って、医師に落ち着いた様子で諭されて精神科の受診を勧められたが、丁重にはぐらかして帰宅したとか言っていた」
「へえ、ポールさんって珍妙な方ですね」
「いやポールはこういうこと誰にでも平気で話すからな。でも決して刺青を入れない。なぜかって聞いたら、多分すぐに自傷で台なしにするし意味がない。施術の痛みは一回だけだから、繰り返せる自傷の方に、より一層のメリットを感じる。だそうだ。実際ポールは誰にでも平気で話すし、よく当惑させる。だから、私は具体的にそのことをポールに話したのだが、何が不愉快かは人により異なるし、すべてを知ることはできない、だから私はあきらめた。らしい」
「それで私はここの商店街に」
「大抵のものはあるから、商店主に聞くといいよ、パンフレットとかもあるらしいし」
その屠畜場は使われなくなって久しく、コオロギや鈴虫のすみかとなっていた。
雨が止んだら電車に乗ってここから去ろうと思っていた。混乱と混沌が頭蓋の裡を支配するから、私は描く。黒い渦を白いまだらを、斑紋型に切り抜かれた思考の残骸を。案外その場に置き忘れて気がついていないだけなのかもしれない。それで健康そうな人間を演じられるのであればとんだ茶番もあったもので、鍋はとうの昔に吹きこぼれて、台無しになった日記ばかりが私を語る証拠品となる。
どこへ去ろうかを考える能力がなかった。きっと一生ウェルニッケ野とブローカ野の区別がつけられないままだ。タツノオトシゴは私を雨の向こうのバス停で笑う。悲しげな雛菊の、その枯れた花弁が誰かの遺言のように聞こえて、私は始終遺書をつづることに生活を消費していた。
嘆くのなら殺せ。
突き刺した空想を引き裂け。
諦観は麻酔、血を流す時こそ私は見る。
朝を失い続ける路線を辿る深夜に、霜のように星が降る。
その心臓を潰し、その骨髄をささげろ。
溺水は青色発光ダイオードの明るさで目を焼く。
埋めつくす酸素が善意が呼吸を奪い、書き記す間もなく灰となる。
泥の中で死んでいる残忍が薄くわらった。
嘆くのなら殺せ。
ウェルニッケ野とブローカ野の区別がつかない私は立ちくらみの悪化に怯えながらあたたかな陽気の商店街を歩き始めた。いたるところに架空の言葉たちの遺骸、干からびた憂愁、ひび割れた不安がはびこってまるで雑草。できあいの感情を積み重ねて挨拶と別離の繰り返しを歩く。商店街にはいかなる抽象も並んでいた。私は恐れた。狼が幻想的な文学的素材に祭り上げられることを。水路の溢れるさまを覚えてから記憶の中の水死は生々しい。昨日のことのように思い出せる呼吸困難、鮮やかなオレンジの光の粒が目を覆うことを、四肢の自由を失う時を、麻痺が視界を包み込むさまを。
囁きが聞こえた。それは忘れた睡眠時の淡い空想に似て、魚のように空を泳いだ。私がここにいないのであれば平穏な森の中をさまよい続ける文字たちにも安眠が訪れる。失われた含意が、忘れ去られていくメタファーが、あらゆる意味がフラットになる今日日に出会うことを待っている。個人商店主はそこでただ待っている。迷妄と錯誤をならべ、整頓しながら、その日の終わりを願っている。黙示録は誰も信じない。
嘆くなら殺せ。失え。願望をどぶに捨てろ。
鼠色の光が雨のように降り注ぐ日は傘を持たずに生温かい街区を逍遥して、カナリアの声を聞いた。このあたりの市場では、鳴き声の美しい鳥が良く売られている。
麻酔剤を昼食にして、出口のない後悔・怠惰・先送りが血管を埋めている。無力と劣等感が謝肉祭をとり行い、町は紙ふぶきと風船で埋められた。子供たちの歓声が作りものめいて響き、私は自殺する。それから私はしばらくあてもなく商店街を見て回った。
団子を売る店舗の奥ではだれにも読まれない哲学書が全集として積まれていた。
ステップのひとつひとつが弾けるナナカマドの実となって気怠い空気にいっときの閃光をうんだ。私が生まれた日はきっとすべてが凍り付くような鬱積に覆われていたのだろう。推測のゆきさきには、新鮮な神経症的振る舞いと病がこわばった笑顔で立っていた。
立ちくらみが酷いので。
私は話すことができない。必要としないから、それを長らく放置して棄ておいたのだ。
古びて錆びたガードレールの向こう側の、手入れの行き届かない山林に詩の破片を投げ落として、それはひらひらと崩れ落ちて去って行った。県道を歩く時にはいつも、漠然とした陰りを感じている、もうならないラジオは誰にも放映内容を聴き取られることがない。
さようならとだけ。
幻想の対象としての病院は静かに眠りまた眠らせる。幾百の化合物がそこでくるくると輝いていた。遮光瓶の中には無が閉じ込められている。
どうか失われて。私の全ての臓腑と血をここにささげるから。
私は自分の大部分を失った状態でそこで待っていたのかもしれない。私にふさわしいような言葉を見つけられるのを。それはこのような曖昧で定義に苦しむ商店街ではとりわけうまくいくことが多い。
「概日リズム」
「乳酸菌飲料」
「猫の剥製の硝子の眼」
「化膿」
「時間の剥製」
「いなくなる愉楽」、などが辺りをただよう。悲惨な内面を抱えたまま、その紛争地を平らげることが、能力がなくてできないでいる。せめて知るだろう、私はその負を、その陰、泥沼、気鬱、無秩序な喧噪の形をおびる自己への毀損、疎外を。
見たまえ静脈は微笑む、タナトスが扉を叩き、モルフェウスが瞳を覆い隠す。仮面はいかにも簡素で滑稽でそして実用的だ。あらゆる自己への毀損と軽侮を呑み込んでなお飽き足らぬ私の貪欲が自分の肉を抉り引き裂きながら卑屈に笑う。白い皿に幻視する私の残骸と孤独そうに振る舞う眼球を。水のようには消えやしない自己否定が私を形づくり、その場にいないだけで私は死者のような生を生きる、実に無為に。
「概日リズム」の商店を私は見つけた。そこにはあらゆる概日リズムが並べられ、それらは鮮烈な、ぼやけた、うつくしい、毛虫のような、さまざまな外見を持ってそこにいる。私は望みの概日リズムを手にすると貨幣で以てそれを購う。
私の大規模半壊した概日リズムは市販の概日リズムとの交換の結果としてじつにうまく機能するようになった。私はしたいことを適切にできる手段を概日リズムで手に入れた。私はその商店街を去ってからそのようになった。私は日課を適切に管理し、十分な睡眠を適切なタイミングで取り、朝食をかかさずに摂り、だからつねに機嫌がいいので誰に対しても友好的に振る舞うことができ、グロテスクな印象をしばしば視野に見ることもなくなり、あらゆる作業がしかるべく進んだ。私は生まれて始めて経験した適切な概日リズムに感動したが、私はやがていつかの怨嗟を懐かしんでいることに気がつき、私自身への軽蔑が温かい目をして私を待っていたことを思い出して、私はそれの手を再び取ろうと決意し、再び商店街に向かうと、死を取り扱う商店でさまざまな死を物色し、その中で窒息を選び、更に中枢神経抑制剤を用意した。
私は浴槽に湯を張ると、中枢神経抑制剤をほおばりながら落ち葉が風に吹き寄せられていく音に耳を澄ましてしばらくしてから意識が薄くなっていくことを認識し、その浴槽へと私自身を沈める。
嘆きごと、殺した。
抽象商店街 韮崎旭 @nakaimaizumi
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