郭公(ほととぎす)

郭公なくや五月のあやめぐさ あやめも知らぬ恋をするかな  詠み人知らず


(驚いた。)


 御簾の内に走り込んだ姫の息は容易に整わなかった。


(あれは、誰?)


 父親と、時折外出するときに付き従ってくれる警護の者以外に、姫は男を見たことがなかった。


「姫様……?」


 姫が何も言わなくても、乳母には何が起こったのかわかるようだった。端近にともしてあった灯を吹き消し、姫を奥の間に誘った。


「縁になどお出になりませんようにと、あれほど申し上げておりますのに。」

「ごめんなさい……月がとてもきれいだったから。」


 乳母は息を潜めて外の様子をうかがった。かすかな衣擦れの音と、たきしめられた香のほんのわずかな香り。風が運ぶそれは、ざくざくという足音と共に、本宅の方へと去るようだった。

 乳母はその香に覚えがあった。用があって本宅にまかりこした際、若い女房たちがさわさわと騒いでいる時に匂い立った香りだ。

 

(面倒な。)


 乳母は顔をしかめた。その男に乳母はいい印象を持っていなかった。美しいと聞けば手当たり次第に文を寄越し、色よい返事をすればすぐにも忍び入り、飽きたとあればあっさりと来なくなる。花から花へと渡り歩く毒の蝶のような男。決して姫には近づけまいと思っていたのに、こんな風に垣間見されてしまうなど。

 迂闊だったとしか思えない。乳母は歯ぎしりするほど悔しかった。昼でも日の差さぬほどの厚い生け垣を館の周りに巡らせて、昼夜、源の武士に警固までさせているのに、今宵はなぜこのような油断ができたのか。


 姫は乳母の様子を見て、すっかり小さくなっていた。


「ごめんなさい……今宵はお父様の大事なお出かけで警固が手薄だから、よく気をつけるようにと言われていたのをすっかり忘れてしまったの。お池に映るお月様が本当にとても美しくて、お月様に琴をお聴かせしたら、母様のいらした頃のように心が晴れ晴れするかと思って……」

「姫様……」


 乳母は小さな姫の肩を抱いた。不幸な姫。母君の御方が存命であればまだ、こんなにひき隠れずともよかったかもしれない。いや、存命でも、大差なかったかもしれない。何しろ、この姫のお血筋は……


(お方様がこの屋敷のお殿様に見初められなさったのも、あってはならないことだったと。)


   ……ねえ、あなたは信じないかもしれないけれど、

   私の母様は、こことは全然違う世界から来たのよ。


 姫の母君が笑いながら告げた話は、乳母には信じられないことばかりだった。月の都のことでもあろうかと、夢心地で聞いたのを、乳母ははっきり覚えていた。


 龍に呼ばれてこの世に降り立った、龍の姫。

 龍は姫に羽衣を返さなかった。

 龍は人の姿を得て姫と交わり、生まれたのが自分であると。


   ……私は父様を知らないわ。

   母様は、どこかの小さな祠に私を連れて行って、

   ここに父様がいらっしゃるとおっしゃったけれど、

   そこもどこなのか、忘れて…

   というより、どこなのかもわからないほど私は幼くて、

   母様のお話が本当かどうかも知らない。


 ねえ、あなたはどう思う?と聞かれても、返り事などできるはずもなく。

 ただ、小さな姫の乳母として仕え始めた頃にこの館に共に仕えた老女たちは、形だけでなく本当に心から母君の御方に傅いていたし、館にも、神気とでも言いそうな他にない清らかな気配が満ちていたから、信じられないにしても、そういう不思議なこともあるのだろうと、少なからず気味悪く思いながらも仕えることにしたのだった。

 小さな姫がいかにも可愛く、素直で利発なお子だったから。

 母君の御方がふとした病を得て儚くなったとき、小さな姫は少しだけ泣いた。お気を強くお持ちでらっしゃいますねと声をかけたら、


「母様を、大きな龍が迎えに来たの。鱗が真っ白な、すごく美しい龍だったわ。私の目をじっと見て、泣いてはいけないと言われたの。」


 だから私は泣くのをやめたと姫は言った。きっとそれは母様のおっしゃる龍の神で、母様は神様に連れて行かれたのだからと。


 乳母はそのとき全てを信じることにした。龍の血をひくこの姫を守る者は自分しかいない。母君の御方が、この屋敷の主に見初められたのは、龍の神の導きでもあったのだろう。ならば同じように導く徴の見えるまで、姫を余人に見せず、隠し傅いて御身大きくなるまでお守りする。この命に換えても。


 ほととぎすが鳴いた。

 乳母はふうっと大きく息を吐いた。

 庭にはもう人の気配はない。闖入者は去ったのだろう。

 乳母は女童に命じて、縁に置き放された琴を部屋に入れさせた。

 小さな姫は張り詰めていた気持ちが緩んだのか、くったりと乳母の胸に顔を預けて、とろりとした目つきで眠そうだった。

 大殿油参らせた寝所に姫を誘い、乳母は姫にそっと上掛けを掛けた。

 健やかな寝息が聞こえる。


(どうぞこのまま、静かに時が過ぎていくように。)


 かの香りの主が、今宵のことを気にとめることがないようにと、乳母は祈らずにいられなかった。

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恋すてふ 美歩鈴 @miporine

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