恋すてふ
美歩鈴
序
「お通りになるわ。」
「……良い香り。どのように合わせておいでなのかしら。」
「おいでの前からうっとりするわね。今宵はどちらへお渡り?」
「……あなたのところでないことは確かね。」
「まあ! もちろん、あなたでもなさそうだわ。」
御簾の内からさんざめく声になど耳も貸さず。
(忍ぶ恋……ね。)
人知れず、というのが恋の雅というものであろうのに、あのかまびすしい雀たちはどうだ。黙らせるには……唇をふさいでみようか。
御簾に視線を送ると、どよめくほどの嬌声。
(やれやれ……)
今宵の逢瀬の興までふと冷める。そばに従う者に耳打ちした。
「よろしいのですか?」
「……そういう気分でなくなったのでね。」
「勘弁して下さいよ、恨み言をいただくのは私の方なんですから。」
「すまないね。よろしく頼むよ。」
従者はぶつぶつ言いながら屋敷の奥に向かった。男はゆらりと踵を返した。御簾の内から、期待と落胆が入り交じったため息が聞こえる。男はふっと笑って、元来た方へ歩を進めた。
(おや。)
男のいるのと反対の方角の対屋の更に向こう側から、かすかに琴の音が聞こえた気がした。
(あの奥に、まだ人の住む館があるとでも?)
男がこの屋敷に忍ぶようになったのは昨日今日ではない。女房どもがかしましくするほど、風情あるとか美しいとかいう評判ある女には片端から恋を仕掛けてきた。東西どちらの対屋にも元恋人がいる。この屋敷の建物は、ひとつ残らず知っていたつもりだったが……
対屋に近づくと、かすかだった音が確かに聞こえた。誰かが琴を弾いている。決して上手ではないが、よい響きの音色だ。新しい曲を習ってでもいるのだろうか、時々つかえたり、音を探ったりする。
興がわいた。
(どのような姫君が弾じておられるのか。)
対屋を越えた向こうから聞こえる音。しかし、どこから入り込んだものか、通じる小道すらなく、高く茂った植え込みに遮られて建物の影も見えない。
(よもや、妖の類ではあるまいが……)
いつまでもうろついていては、庭を警護する武士に見とがめられる。男は、ままよと視界を遮る植え込みに体を入れた。細い枝がばきばきと無粋な音を立てる。男は肝が冷える思いだったが、自分に聞こえる程には大きな音ではなかったらしく、誰何の声はしなかった。
やれやれと顔を上げると。
月を映す池の向こうに、小さな館があった。
琴の音は、そこから聞こえるようだ。
男は、池の岸を巡って館に近づいた。先ほどまでの屋敷とはまた異なった風情の庭だが、趣が似ているのは、おそらく、仕切られていただけで、所有者は同じなのだろう。別宅……というには近すぎるが、おそらくそういった扱いの館なのだろう。
どんな人を住まわせているのか。訳ありの……匂いがする。
館に近づくにつれ、音は大きくなる。この館が源なのは間違いない。
が。
急に音が止まった。
男の目に、鮮やかな色彩が映る。
「あ……」
鮮やかなものから発せられた……声。
「あなたは……?」
返り事などあるはずもなく、鮮やかな色彩は館の奥に消えた。
(少女だった……)
十になるやならずの年頃だろう。そんな年頃の女童が身につける衣を着ていた。しかし、そこに残る香りは艶やかで、少女が並の身分の者ではないことをうかがわせた。
(この屋敷の……?)
幼い姫君がいるとは聞いていない。この屋敷の姫君は皆、それなりに歳を重ねて、今に女御として入内されるとか、しかるべき男君を婿に迎えるとか、そういう噂のある姫ばかりのはずだ。
しばらく息を潜めて佇んでいても、館の中からは話し声ひとつ聞こえてこなかった。御簾の端に置かれた灯火が消され、館の中はひっそりと静まりかえっていた。訪ねる者を拒む静寂が男を包んだ。
男は仕方なくその場を離れた。先の植え込みから元の庭へ戻ると、従者が慌てて近寄ってきた。
「あの向こうへいらしたのですか?」
「ああ……ちょっとね。」
「まずいですよ。あちらへは決して行かないように言われました。」
「……なぜ?」
「はっきりとは誰も教えてくれませんが、何でも、高貴の方が住まわれている、と。」
高貴の方……あの姫が?
「ひえ……!! 殿、もうおやめください。早く帰りましょう。見つかったら何を言われるか……」
男はいよいよゆかしく思った。年端も行かぬ姫君だが、近しく見たいと強く思った。
かの池に映ったのと同じ月が、何か物言いたげに見下ろす。
(手の届かぬものほど、欲しいのだよ……)
我ながら、困ったものだ。
男はひとりごちた。月は雲間に姿を隠した。
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