ep2. <大洪水>
生まれたばかりの
慌てて空を見上げるけれど、そこには変わらず、青空が雲をたなびかせて穏やかに続いているばかりだった。
どうしよう。もう一度考える。森の中に戻ってしまうことは簡単だ。この子を見捨てていけばいい。
でも。
でも、そんなこと、私には出来なかった。
何にも失くしてしまう私の、唯一の、故郷を思い出すよすがになるかもしれない、と考えていた。
真紅の瞳。雪のように真っ白な、蛇に似た体。両手よりも小さくて、何だか胸元に入りそうなぐらいだ。
…今、私は何を考えた?
胸元に入りそうだ、と考えなかったか?
じっと、子どもの
森を抜けて、家に戻ると、母がシチューを作っているところだった。
「お帰りなさい、アリュー」
「…ただいま」
祖母によく似た赤毛を揺らして、母がにこりと笑った。
「早く着替えて、荷物、まとめちゃいなさい」
「お母さんは?」
「私は、良いの。…この店を、置いていけないもの」
お母さんは、ずるい。
私だけ助かったって、なんの意味もないのに。
そんなことを言うわけにもいかなくて、私は黙って部屋に入った。
曾祖父のお父さんの代から続いている料理屋。それが、私の家だった。
お母さんはそれをとても誇りにしていて、そして――このお店と一緒に、水の下に行くつもりなのだ。なんてひどい話だろう。
お母さんは、ずるい。
何度も思ったその言葉が、頭の中で反響する。
私だけ助かったって、なんの意味もないのに。
お母さんと一緒に、生きていたい。でも、そんなワガママ、言ったって、お母さんにはきっと通じないだろう。
胸元がごそごそと動く。慌てて私は
「…私、アリューって言うんだ。…あなたは、なんていう
「きゅ?」
首を傾げて、私にきゅぅきゅぅ鳴きながら身を寄せてくる。この子には、名前がないんだ、と気付いた。
「…じゃあ、あなたは、「ソラ」だ」
「きゅぅん?」
「青空から生まれたから、「ソラ」。白い雲、赤い夕焼け。きっと、あなたは大きくなって、「
それは、素敵な想像だった。
陸に縛られないこの子は、たとえ、あの森が水の底に沈んだとしても、ずっと、水の色をした世界に羽ばたき続けられるのだ。なんて素敵な話だろう。
「アリュー?荷物まとめたの?」
「…あ」
慌てて大きな声で、うん、と返事をする。
それから、静かな声で小さい布の袋を見せながら「ソラ」に言った。
「ごめんね、この中で静かにしてて」
「きゅぅ……」
寂しそうに鳴きながら、「ソラ」はもぞもぞと袋の中へと入っていった。ごめんね、ともう一度謝ってから、袋の口を緩く閉じた。
それを服のベルトに吊り下げて、私はトランクと鞄を持って、階下に向かう。
「お母さん、準備、出来たよ」
「そう。じゃあ、今日はシチューよ。これを食べたら、あなたは高台にある、リーゲラさんのお屋敷に行くのよ」
準備されたシチューは、湯気が立っていて、とてもおいしそうだった。きっと、こんなときじゃなかったら、喜んで口にしていたと思うぐらいには。
「……お母さんは、行かないの?」
お母さんは私の言葉に、ただ微笑むだけだった。
それに私は木のスプーンを放り投げて、地団駄を踏みながら、机を叩いた。
「…お母さんはひどいよ!お店、お店って、そればっかりで、私のこと、ちっとも考えてくれないんだ!私、私、お母さんと一緒に居たいだけなんだよ!?」
「アリュー。…でも、これはお母さんの決めたことよ」
「どうして!? 何でそんなこと、勝手に決めちゃうの!」
「…アリュー!」
私は飛び出していた。お母さんに、嫌いだ、と言いそうになったから。
そのまま飛び出して、気が付けば森に来ていた。
「…どうしよう、ソラ」
袋からソラを出して、私はぽつぽつと言葉を零していた。
「私、私、お母さんにひどいこと、言っちゃった。…お母さんだって、お母さんなりの考えがあったのに。…ひどい、こと、たくさん、言って…」
ぽたぽたと、ソラの上に涙が落ちていく。
ウロコから滴り落ちる雫。それに、別のものが混ざっていると気付いた頃には、すっかり青空は曇天に変わってしまっていた。
「…雨?………雨宿り、していこうか」
ソラと一緒に木の下に居ると、やがて、遠くから地鳴りのような音がしてきた。
地面が揺れて、目の前を濁流が流れていく。ゾッとした。
<大洪水>だ。<大洪水>が始まったんだ!
私は慌てて、村に戻る道を探した。けれど、向こうも濁流、こっちも濁流。どうしようもない。取り残されてしまったのだ、私は。
「ソラ、どうしよう…。このままじゃ、村に帰れないよ…」
「きゅぅ?」
ソラは首を傾げて、私の首に縋りついている。
どうにかして、村に帰らないと。そう思うのに、濁流が邪魔をして、帰れない。
「こんなとき、魔法が使えたら…」
「きゅ?」
「魔法にね、<
<
「きゅぅ!」
突然、ソラが大きく鳴いて私の首から離れると、腕に移動した。
そこから私の顔を見つめて――光輝いた。
「えっ、えっ、何!?どうしたの、ソラ!」
星のようにちかちかと瞬きながら、ソラが曇天を見上げて、大きな声で鳴いた。
それが合図だったかのように、雷のような光が私とソラを包んで――次に目を開くと、私は家に立っていた。
「アリュー!どうしたの、どうやって帰ってきたの?…いえ、いいわ、それより、早く荷物を持って」
「お、かあ、さん」
「どうしたの、早く荷物を持って」
私はお母さんに抱き着いて、泣いてしまっていた。
お母さんは、そんな私を抱きしめて、落ち着くまで、頭を撫でてくれていた。
「アリュー。大丈夫よ。……お母さんが居なくても、あなたはちゃんとやれる」
「どうして。…どうして、お母さんは、一緒に行ってくれないの…?」
「…ごめんね、アリュー。私には、アリューを守ることしか、出来なかったの…」
高台の家から、飛空船に乗って、私たちは別の街に行く。…飛空船の乗船料はとても高いと私は知っている。…私たちの家は、とても裕福とは言えなかった。
…そうだったのだ。最初から、お母さんは沈みたくて沈むわけじゃなかったのだ。
水に浸かり始めた家の中で、私は呆然とした。
「………きゅぅ」
小さく鳴いたソラの声で、はっと我に返る。
用意をしていたトランクと鞄を持って、私はもう一度、ソラに頼んだ。
「…ね、ソラ。お母さんも一緒に、高台の家まで、向かえる?」
「きゅぅ!」
任せろと言うように、私の腕で鳴いたソラに頷きながら、私は階下に向かう。
「お母さん!」
「どうしたの?」
「お母さん、一緒に、行こう。…私の貯めたお金じゃ、足りないかもしれないけど、一緒に……一緒に、高台のリーゲラさんのお屋敷に行こう」
「……ここまで水が来てしまっているわ。無理よ…」
私は首を振って、ぎゅっとお母さんの手を握った。
「…ソラ、お願い!」
「きゅ――ぅ!!」
大きくソラが一声鳴いて、眩い光が、私とお母さんを包んでいくのが分かる。私は、手を離さないように握りしめながら、高台にあるリーゲラさんのお屋敷を思い描いていた。
…次に目を開くと、私とお母さんは、リーゲラさんのお屋敷の裏に居た。
「……アリュー。あなた、その子はなぁに?」
「
「そう…なの。…なんて種族の子なのかしら?」
「分からない。でも、ソラって名前を付けたの」
ね、と言いながら私はソラの頭を撫でた。
きゅぅ、と答えて、ソラは私がベルトに吊っていた袋の中へともぞもぞ入っていった。
「…そう。…大事にするのよ。
そう言って、お母さんは袋を撫でた。
「うん。気を付ける。……お母さん」
「なぁに?アリュー」
「……ごめんなさい」
お母さんは私をぎゅっと抱きしめて、それから、優しく笑って言った。
「馬鹿ねぇ。そういうときは、ごめんなさいなんて、言わなくていいの」
私たち二人は、お屋敷の裏から出て、リーゲラさんのところへと歩いて行った。
「アリュー!アンゲラさん!二人とも、無事だったのかい!」
リーゲラさんは白髪を振り乱して、無事だったことを喜んでくれた。
「…しかし、アンゲラさん。あんた、船には乗れないよ」
「分かっているわ。この子も。それでも、何かきっと出来ることはあるはずよ」
それなら良いんだ、とリーゲラさんは離れていった。
間もなく、飛空船がやってくるだろう。魔法石が燃える音が、聞こえている。
「………お母さん」
「なぁに?アリュー」
さっきと同じぐらい、柔らかな声で、お母さんは振り向いた。
「行って、きます」
「行ってらっしゃい、アリュー。元気でね」
それに頷いて、私は荷物を持って、船に乗る列に並んだのだった。
いつか竜の羽ばたく蒼穹へ 山路 桐生 @mine1925
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