バニラアイス

日月明

第1話

 隼人はアイスが好きだ。その中でも特に、パティシエをしている父親の作るバニラアイスが大好きだ。

 薄い乳白色の雪原に、バニラビーンズの黒くて小さなつぶつぶ。それを見るだけで、隼人は心がキラキラするのを感じられる。

 そしてさらに、少しだけ溶けて柔らかくなったそれをスプーンですくい、大切に大切に口へと運ぶ。じんわりと舌で広がるのを感じてから、ゆっくりとやってくる優しい甘さ。アイスの色から想像してたよりも優しい味わいは、どんなに気持ちがグチャグチャに絡まっていてもすっと解いてくれる。


 バニラアイスは見ているだけで幸せになれるが、似たような柄をした天井はどれだけ時間がたっても好きになれない。昨夜隼人は、ベッドに横たわりながらそう思っていた。


 見上げた先にあるのは、真っ白い天井に所々黒い点々のある天井。初めて見た時から似てるとは思っているけれど、どんなに頑張っても好きになれない。ミルクジェラートのように白い床は、スリッパで踏むとキュッキュと音がして楽しかったけれど、三日も過ぎた頃にはもう飽きてしまったようで、母親に五月蝿いと叱られることもなくなっている。最近では、隣の病室のおじいさんと話をするのが楽しいようだ。


 今現在隼人は、市立青葉病院に入院している。六階にある六百五号室が、四年前から隼人の部屋となっている。四年とは意外と長いもので、母親が持ってきてくれる漫画本で本棚はもういっぱいになりそうだ。


 お昼を少し過ぎたこの時間は日が高く、窓からは暑そうに汗をかいて歩いている人がたくさん見える。普段は閉められている黄緑のカーテンが開かれていて、陽の光が病室にも差し込んでいた。

「あ! さっき入り口から出てきたの多分お母さんだ。あんなおっきくて白い帽子かぶってる人他に見たこと無いもん」 

 隼人はくすくす笑うと、ぼふんと羽毛布団のなかに隠れてしまった。


 今日の隼人は機嫌がいい。というのも、いつも買ってもらっている漫画の最新刊が出たそうだ。それを午前中に母親に持ってきてもらい、昼食を食べる前にはもう読み切っていた。


 本当なら今年の春で小学校四年生になっていたはずの隼人。院内学級には行っているものの、やはり学校に通いたかったのかランドセルを背負った子供を窓から見ると悲しそうな顔をしている。だからだろうか、窓から外を見るのは、夕方と母親を見送る時だけだった。

「お母さんは圭ちゃん連れてもっかい来るんだってさ」

 病室に残ってくれた父親が、漫画棚を整理しながら言った。


 圭人は、今年年長さんになった隼人の弟だ。とても仲の良い兄弟で、大きなベッドに並んで入り、ひとつの漫画を二人仲良く読んでいることもある。

 毎月何冊か増えていく隼人の漫画。最近では、売店のおばあさんが、隼人のリクエストに合わせて入荷してくれているようだ。


「漫画はね、いいよ。主人公になってね、いろんな世界に連れて行ってくれるから」

 いつか隼人が言っていた言葉だ。その言葉を聞いた母親は、満面の笑顔を見せたまま涙をポロポロと流していた。

「どうして泣いてるの? お母さんどっか痛いの?」

「ううん、なんでもないの。隼人はいいわね。いろんな主人公になれるものね。お母さんにいろんなお話聞かせてね」

 いつまでも泣き続ける母親の頭を、隼人はずっと撫で続けていた。「大丈夫?」と繰り返しながら。


 けれど、その日の夜中、不意に眼を覚ました隼人はこんな言葉を呟いていた。

「僕、今日お母さんがなんで泣いてたか知ってる。僕が死んじゃうからなんでしょ。もう九歳になったんだもん。それくらいわかるよ。それに、勇者レインが仲間が死んじゃった時あんな風に泣いてたもん。

 六百一号室の早川のおじいちゃんがいなくなった時だって、毎日来てたおばあちゃんすごい泣いてた。でも、泣きながら笑ってた。今日のお母さんと一緒だ」


 この前まで読んでいた漫画の主人公である勇者レイン。彼の仲間が死んだ時、同じ様に隼人も泣いた。漫画の主人公と同じ様に、声を上げて泣いた。

隼人は感動と悲しみの涙を知っている。そして、病院で過ごしてきた時間は、『死』というものが与える涙を、特に生々しく教えてくれた。


「隼人君、圭ちゃん連れてきたよ」

「お兄ちゃん! レインの続き読もう!」

 病院には不釣り合いな大声で母親の足元から駆けて出てた圭人は、そのままのスピードを逃すことなく隼人の布団に潜り込んだ。


「お願い圭人、お兄ちゃんをビックリさせるようなことしないで」

 叫ぶと余計にビックリさせると思ったのだろう。母親は、圭人を静かに諭すように叱った。

「大丈夫だよお母さん。今日はちゃんと朝ごはんだって全部食べたし、そんなにしんどくないから」

「ごめんね、お兄ちゃん」


 素直に謝る弟の頭を撫でると、近くにあった漫画の最新刊を手に取りそのまま二人で読み始めた。

 隼人は、自分が死ぬのが薄々分かっている。

 生まれつき心臓が弱い隼人は、体の成長に心臓が付いてこれていない。時々来る発作は、回数を重ねる度に大きくなり、頻度も近くなってくる。幼い隼人が死を感じるのは簡単だった。


 隼人が珍しく読んだ小説にはこんなことが書いてあった。『人はただ死んでいくのだ。まるで櫛の歯が欠けるように、朝日が昇るように、夕日が沈むように、ただ死んでいくのだ。』

 小学生なりに隼人が考えた結論は『じゃあ楽しく生きよう』だった。


 隼人は結果ではなく、過程に目を向けることにした。死ぬのは同じなら、生きている間に誰よりも楽しいと感じられる努力をしよう。弟とだって仲良くしたいと思う。僕はお兄ちゃんだ。なら、いいお兄ちゃんでありたい。小学生が到るにしては、早熟にして悲しすぎる結論だった。

 人を成長させるのは時の歩みではない、一歩の重さなのだ。隼人がそこまで人生を達観しているとは思えないが、少なくとも隼人はそういう生き方をしている。


「今回はレインどうなったの?」

「それを教えたらつまんないじゃん! 一緒に見ようね」

 一冊の漫画を片側ずつ持って、ゆっくりとページを捲る。静かになった病室には、紙がめくれる音と、身体を動かすと聞こえる布が擦れる音だけ。窓から差す温かい光は二人を包み込んで、優しく抱かれているように見える。

 二人で仲良く読む姿を見ているのが母親は何よりも幸せで、涙で視界を歪めるくらいなら、グッとこらえて目に焼き付けていようと決めていた。


 時々休憩を挟んで、三人仲良くおやつを食べる。「今日は折り紙をした」「昨日の仮面ライダーのキックはカッコ良かった」そんな話をしていたら、二人が帰る時間は足早にやって来た。

「じゃあ、明日も来るからね。おやすみなさい」

「うん! おやすみなさい」


 笑顔で手を振って母親と弟を見送る隼人。二人の足をとが完全に聞こえなくなった途端に、隼人は笑顔のまま涙の粒をポツポツと落とした。やはり小学四年生なのだ。寂しくないわけがない。しかし、隼人はぐずらなかった。


 隼人にとって、家族の笑顔を見るのが何よりも幸せだったから。バニラアイスを食べるよりも、漫画を読んでいるよりも幸せで仕方がない。そんな大好きな瞬間を、隼人が自ら壊せるわけがなかった。

「大好きだよ圭ちゃん、お母さん、お父さん」

 寝る前にそう呟くのが、隼人の日課だった。普通よりも早く終るであろう自分の一生だからこそ、たとえ聞こえていなくても、たくさん好きだと口に出したい。だれよりもたくさん大好きだと言いたいのだ。


 そしてその日の夜、隼人は今までで一番大きな発作を起こした。

 苦しい心臓。どんなに吸い込んでも感じられない酸素の味。苦しい胸は、誰かが考えられないほどの力で強く握りしめているように感じる。時々耳に入る、医者や看護師たちのパタパタという足音が気に触った。


 フッと意識が途切れては、一瞬で再び戻ってくる。戻った時には、まだ苦しい胸に悪態を付きたくなるのと、無事に意識が戻ったことに対する安堵が同時に来てなんとも言えない気持ちになった。


 夜が明ける頃、隼人の身体は何とか落ち着いた。今までにない発作で呼ばれた隼人の家族。父親は会社を休み、隼人の元に寄り添った。


「ありがとう隼人、頑張ってくれて。父さんな、苦しそうな隼人を楽にしてやりたいけど、まだ隼人とお別れしたくないんだよ」

 父親は、すうすうと寝息を立てる隼人に向かい声をかけた。家の主としてグッと涙はこらえたのだが、隼人の頭を撫でる手の震えは、とても止めることが出来なかった。


 その日は、日の暮れる頃に父親と圭人は帰っていき、母親だけは隼人に付き添うことにした。

「あ、お母さんおはよう」

 母親が少し眠気で船を漕ぎ出した頃、隼人は眼を覚ました。

「隼人! 目が覚めたのね」

「よかった、僕まだ生きてれたんだね」


 疲れた顔でニコニコ笑う隼人を前にして、母親は泣くのを我慢できなかった。

「ありがとう隼人。お母さんにもう一度笑ってくれて」

「こちらこそ、ありがとうお母さん」

 隼人が布団から手をのばすと、母親はそれを自分の手のひらで覆うように握った。取りこぼす事のないように、隙間なく埋められた手。握られた小さな手のひらは、あまりにも小さくて今にも崩れてしまいそう。


「僕ね、昨日は一番近く死を感じたよ。すっごい胸が痛くてね、痛さから逃げようとして眼を瞑るんだけど、次に目を開けても痛いんだ。すごいびっくりしたよ」

 笑顔のまま昨日のことを語る隼人。それをだまって頷く母親。しんと静まり返った病院の、そこだけが浮き彫りになっている。

「でもね、僕の苦しそうな姿を見ているお母さん達はもっと辛いんだろうなって。僕が大好きなくらい、お母さん達も僕の事が大好きなの知ってるから」

「そんなこと考えてくれてたのね。ありがとう。お母さん隼人のこと大好きだよ」

 涙声になりながら、一生懸命声を絞り出す。

「お母さん、僕も大好きだよ。お父さんも、お母さんも、圭ちゃんも。みんな大好き」

 隼人とお母さんは、泣きながら笑った。存在を感じられるように手をつないで。二人の体温を共有した。


 次の日の朝、父親と二人でバニラアイスを食べた。

「うまいか隼人! 父さんが作ったバニラアイスだぞ!」

「うん! お父さんのアイスも、お父さんも大好き!」


 圭人と一緒に漫画を読んだ。

「僕、お兄ちゃんと漫画読むの好きなんだー」

「僕も、圭ちゃんと漫画読むの大好きだよ」


 それから十日後、隼人は息を引き取った。今までの発作のように苦しむことのない、静かな死だった。


 家族四人で、病室でりんごを食べている時のことだ。

「お父さん、お母さん、圭ちゃん。僕はみんなが大好きだよ」

 まるでそのタイミングを予期していたかのように大輪の笑顔を咲かせると、隼人の心臓はゆっくりと動きを緩めて、止まった。隼人らしい最期だった。


 最後の日の前夜、いつも窓際の棚に置かれている俺を看護師に頼んで取ってもらうと、ぎゅっと抱きしめて話しかけてきた。

「君は、僕の一番の友達だ。産まれた時に僕のところにやってきて、一番僕を見てくれてる。そんな君だからお願いするんだ。僕の次は圭ちゃんを見てやってね。僕は死んじゃったらそれまでだけど、みんなはずっと生きてるんだから」


 自分の顔を俺のお腹に埋めると、隼人はもっとぎゅっと俺のことを抱きしめた。

「ねえテディ。僕、死にたくないなあ」

 隼人は、泣いていた。この時ほど、自分がぬいぐるみでよかったと思ったことはない。もし違ったら、余計な言葉を口走っていただろう。けれど、この時ほど人間になりたいと思ったこともない。一緒に泣いてやれないのが、何よりも悔しかった。


 あれから五年。圭人は隼人と同じ歳になった。「走り回れなかったおにいちゃんの分まで」と言い出し、最近サッカーを始めて、楽しそうにボールを追いかけている。

 あんなに小さかった圭人だったけれど、隼人のことを忘れたことはない。三年生の家族についてという作文で、圭人は隼人のことを書いたらしい。リビングで父親と母親が泣いていた。

 俺は今でも、隼人の笑顔の横で家族を見守っている。

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バニラアイス 日月明 @akaru0903

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