救いのない救済
その日、奈崩を歌で屠(ほふ)るつもりだった。
彼が少しでも動いた瞬間、歌う。そう決めていた。
対する奈崩は、わたしのみぞおちに突きを入れたり、喉を手刀で潰したり、膝を蹴って関節を潰したりして、こちらを制圧することが出来たはずだった。
けれど彼は動かない。
ただ無感情に、こちらを見上げるだけだった。
心音には軽蔑(けいべつ)が滲(にじ)んでいた。
わたしは彼の無感情さに、岩を溶かすような怒りを覚える。
とても酷い形相をしていたと思う。
― 苦痛の中で後悔しろ。……淫崩を潰したことを……! ―
「ひでえ顔だな。多濡奇(たぬき)。全部てめぇのせいだろうが」
一瞬、言葉が出なかった。
盗人猛々しいこと甚(はなは)だしい。
「っ……!! 淫崩を潰した、のは……!!」
この言葉に奈崩は肩をすくめた。
「そうか?俺は糞豚と因果でやり合っただけだぜ?あいつは俺に負けた。けどな、即死じゃなかった。いくらでも救えた。……そうだろう? 誰が一番迷って、みっともねえざまさらしたのか? 分かるよなあ?」
わたしだ。
一番ブレたのは、わたしだった。
わたしが速やかに屈服して、全力で彼女の元に駆ければ、間に合ったかもしれない。
夜の大気の中でも、彼女の遺体は温かだった。
命の境(さかい)で彼女を死に突き放したのは、わたしだ。
― だとしても……!! ―
「お前が、言う、な……っ!!」
わたしは咆哮するように叫ぶ。
既に鼓膜の内側には呪悔(じゅかい)の歌が渦巻いていた。
『その歌は疼(うず)く。招いた呪いを悔やむ程に』
駆他(かるた)の伝承が書かれた書物にこの歌を見つけたのは幼少の頃だ。
わたしの鼓膜の内側に呪悔(じゅかい)の旋律が渦巻き、それは旋律というよりも、長らく離されていた主人に喜ぶ獣のようだった。
わたしはその旋律に懐かしさと恐怖を覚えた。
脳内には像が浮かぶ。
失禁し目を剥きすぎて眼球が眼窩からこぼれている幾多の人間たちの前で、堂々と両手を広げて、オペラ歌手みたいに歌い続ける女性。
……おそらく、わたしの血に刻まれた『誰か』の映像なのだろう。
わたしは奈崩の前で歌う衝動に身を委ねようとする。
食堂にいた子供たちのほぼ半分が立ち上がり、出口に駆けだした。
もう半分はテーブルの下に隠れながら両耳を手でふさいだ。
誰かが何かを叫んだ。
無駄な事だ。
感情を込めた、直接の歌声。
赤子の弱い声ではないのだ。
耳を塞(ふさ)いで防げるものではない。
頭蓋から三半規管でも引き抜かない限り、確実に届く。
― どれだけ涼しい顔で御託を唱えようが、奈崩、お前は苦痛(うずき)に後悔するだろう。これは、わたしの。……報復(うた)だ。 ―
まだ幼い手のひらが、左手と右手の二つが、わたしの右腕をつかんだ。
須崩が見上げていた。
潤んだ瞳で、紅潮した頬で、彼女は哀願していた。
わたしの眉根は寄り、頬に力が入る。
食いしばる奥歯。
「でも、すだ、れ。わた、し」
わたしの声を遮(さえぎ)るみたいに、彼女は、まだ幼い首を横に振った。
再びこちらを見上げる。
無力な視線だった。
力なき故の絶対的な哀願。
……わたしは彼女から淫崩を奪った。
この上わたしは彼女から命さえも奪うのか。
どれだけ醜悪なのだ?
この駆他(かるた)は……!!
……わたしは両手で口を塞いで、両膝を床についた。
涙を目じりからいくつも出る。
頬を伝う。
須崩も泣きだした。
「忘れもんだ」
奈崩が静かな声色で、わたしの頭に何かをのせてきた。
下着とスカートだった。
恥辱に肩が震える。
けれど、歌えなかった。
須崩が泣いていたからだ。
そんなわたしを奈崩は見下ろす。
「……つまんねえ奴」
ぼそっとつぶやいたその声は、とても冷(さ)めていた。
心音には失望と落胆が、微かににじんでいた。
理由は分からない。
が、わたしは彼の行動によって、2つの事を思い知らされた。
1つは、彼が死を恐れない強者であること。
もう1つは、わたしが喪失を恐れる弱者であること。
結局、淫崩の報復を遂げれなかった。
結局わたしは負けたのだ。
彼を葬るのならあの時しかなかったのに、須崩(すだれ)への罪悪感に潰れてしまった。
頭蓋に溢れ返る憎悪に楔を打ち込んだのは、須崩の存在だった。
復讐に燃えていた時は、彼女のことなど、忘れてしまっていたはずだ。
そして、わたしが奈崩に抱いた著(いちじる)しい憎悪は、絶対的な自責の念に換(か)わってしまった。
それに、なりふりを構わなくなるには、色々なものが喪われ過ぎていた。
そもそも全てはこの身が招いた因果なのだ。
奈崩はというと、もう完全にわたしへの興味を失ったようで、結局保育所を出るまで、わたしと関わることは無かった。
思うに、彼の視界をいつも占めていたのは、淫崩だったのだろう。
わたしのぐだぐだで、彼は生き延びる事になった。
けれど、わたしがこんなへたれじゃなかったら、彼は死んでいた。
それでも良かったということだ。
恋を募らせたゆえの無理心中的な行動。
それがあの夜の彼の行為について、わたしが至った結論だった。
わたしを屈服させたのは、気まぐれに過ぎない。
この推測に確信を与えた事実は、彼が卒業まで須崩を守り続けた事である。
……あの日以降、わたしたちひよこ3姉妹は2姉妹になってしまった。
さらに、わたしは罪悪感に促(うなが)されるままに、須崩に、彼を密かに助けていたことを打ち明けてしまった。
彼はわたしの助けで生き延び、あの夜を引き起こし、淫崩を潰した。
打ち明けたのはあの夜から一週間も経ったころだったろうか。
居室に引きこもって出てこない須崩を訪れた昼下がりだった。
締め切ったカーテンの隙間から、静かな秋の陽が差し込むその部屋で、彼女はベッドの隅に膝を抱えて、うずくまっていた。
「……ごめん。あたし、多濡奇姉ちゃんを、許せない」
彼女は全てを聴き終わった後、長く沈黙してから、とても静かにそう言った。
言葉が薄暗い部屋と一体化したみたいな感覚を覚える。
「そう」
「……淫(みだ)ねえも許してないと思う」
「うん」
「だから、あたしは。淫(みだ)ねえの分も、多濡奇姉ちゃんを許さない」
「そう」
わたしたちは沈黙した。
カーテンの向こうには光が溢れている。山林は紅(くれない)に色づき始めていた。
― だからこそ。こんなにも喪(うしな)われている。 ―
わたしは須崩に背を向ける形で、ベッドの端に腰を下ろす。
薄く明るい天井を見上げながら、こんな時淫崩だったら、彼女にどういう声をかけるのだろうかと思った。
が、全く思い浮かばなかった。
淫崩がいないわたしは本当にダメダメだった。
ため息の代わりに歌が漏れそうだったので、唇を真一文字に閉じると、とぎれとぎれの嗚咽が聞こえた。
肩越しに振り返ると、須崩が抱えた膝に顔をうずめて、心音は悲哀と喪失を刻んでいた。
わたしは腰を上げる。
ベッドの上を膝立ちで歩み寄った。
右手でそっと須崩の柔らかな髪を撫でようとする。
と、ぱしっ、と振り払われた。
わたしの右手が受けた衝撃はとてもささやかなものだったけれど、だからかもしれない。
胸に刺すような痛みを覚えた。
「……出てって」
顔をあげずに、呪うように言う彼女に、
「うん、分かった」
とうなずいて、そのまま部屋を後にする。
― 望んでいた言葉だった。わたしは責められたかった。けれど、何故こんなにも、痛い、のだろう? ―
……それが須崩とちゃんと言葉を交わした最後だった。
とまあこんな感じで、わたしたちひよこ2姉妹は自然解散となった。
だけれど、問題が一つあった。
須崩はわたしと行動を共にすることを毛嫌いするようになったのだけれど、周りは、放っておいてはくれなかった。
保育所(ここ)は強肉強食であり、強さこそ至高である。
なのに淫崩という戦力を欠いたわたしたちはとても弱かった。
食堂の一件で、『須崩(ひだるがみ)を人質(しち)に取れば、多濡奇(かるた)は無力化される』という事実が公(おおやけ)になってしまった。
実際この手法は有効だった。
わたしはこれをされると、もう、罪悪感で何もできなくなる。
須崩はわたしの告白の後、引きこもりを止めた。
けれど、もうわたしと行動することはなくなった。
彼女はすすんで独りになった。
それこそ助け合う友人の一人も作らず。
……1人。
彼女と同い年の女の子が情けをかけてくれた。
真ん中で分けて肩の先まで伸ばした黒髪がきらきらしていた。
黒めがちな瞳が大きくて、お人形さんみたいにくりくりとしてるけど、ちょっと下がった目じりが印象的だった。
もしそのまま育っていたら、ものすごい美人になるんだろうな、と思えるくらい、美しい女の子だった。
それはその女の子が、食堂で一人、ヨーグルトを口に運ぶ須崩に、
「一緒に食べない?」
と声をかけた次の瞬間だった。
この子は、吐血して悶絶した。
須崩は拒絶の意思表示として、因果を使ったのだ。
悶絶した子は一命をとりとめたけれど、結局意識は戻らなかった。
まあ、それは勘違いで、この18年後に案件で、彼女と組む事になるのだが、この時のわたしは、そんなことは全く知らない。
……その出来事以降、ひだる神に話しかける勇者は現れなかった。
けれど、手はいくらでもあるのだ。
必然、幾多の因果の切っ先が彼女に向かい、実際彼女は何度も攫(さら)われて、わたしは呼び出しを受け続けた。
けれど、呼び出された先、体育館、ため池、橋のたもと、登山口、神社、……そして、炭焼き小屋などに到着した時には、現地はいつも死体だらけだった。
みんな全身イソギンチャクみたいになっていて、カビまみれで真っ白だった。
わたしの聴覚は自然に研ぎ澄まされる。
そういう時はもれなく、ひだるの男神の心音を遠くに知覚する。
それは、雨に沈黙する鉄のように無感情な響きだった。
警戒を解かないまま、須崩の手首の縄をほどくたびに、釘の痕(あと)が視界に飛び込んできて、わたしは心を痛める。
縄から自由になった時の須崩は、わたしなどいないかのような面持ちで、いつもそのまま立ち去った。
けれど、その無言が、彼女の言葉だったのだろう。
こう書くと彼女は酷くつんけんした感じの女の子になってしまったように思われるかもしれない。
けれど、酷く荒(すさ)んだのはこちらも同じである。
ある夜のことだ。
酷い殺気に満ちた子が歩いてくるなあ、と思って呼吸を整え、戦闘の準備をすると、その子も同時に、口をかすかに開いた。
仕方がないので構えをとると、相手も寸分たがわぬ構えをしてくる。
瞳から酷く暗い殺気を放っているが、しかし心音も呼吸音も聴こえない。
― 心臓を止める因果? もしかして、お化け? ―
と、ぞわっとしてから……。
その子が、夜の窓の硝子(かがみ)に映った影だと、はたと気づいた。
これにはかなりの衝撃をうけた。
わたしは居室に戻り、しばらく対策を思案してから、明るい黄色の布とはさみと針と糸と針金を引っ張りだす。
いざ工作を始めようという段になって、3人分の材料であることに気づき、酷い無常を覚えながら、要らない分を戻して、作業を再開した。
終了は明け方で、試行錯誤が汲み取れる、ちょっぴり寂しげなひよこのかぶりものが完成した。
その朝から、わたしはこのひよこをいつも被(かぶ)るようになった。
このおかげでわたしは顔を隠すことができ、無駄な殺気を振りまくとか、はしたないことをしなくても済むようになった。
それに、口元で歌い出しを読まれなくてもすむようにもなり、抑止力は向上した。
しかそれは、須崩を守るまでには至らない力だった。
彼女はわたしの庇護を拒否し続けた。
代わりに、奈崩が彼女を救い続ける。
ひだる神の救う、という行為は裏を返すと、あらゆる敵の屠殺(とさつ)だったので、わたしの卒業年度の卒業生はとても少なかった。
彼がひたすら屠(ほふ)った結果である。
……何故、彼は須崩を救い続けたのか?
わたしが考え続けた結論は、彼は淫崩を想っていたのだろう、ということだった。
だから、彼女の大切な妹分である須崩を守り続けたのだ。
守られ続けた彼女は、わたしや奈崩が卒業した後も、何とかその身を守り続けた。
けれど、そんなに強くもない斑転だったので、卒業後に臨んだ最初の案件で死亡した。
わたしはというと、あれだけ酷い初体験をしたせいだろう。
案件で必要と思われた男にはみずからすすんで体を開くようになった。
すすむ、というよりも、急(せ)き立てられる、の方が言葉として正しいのかもしれない。
淫崩を救うために間に合わなかった分を補うみたいに、早く関係してしまいたいと思うのだ。
そこに相手の容姿や性格は関係しない。
ただ、急(せ)き立てられる。
それから、相手が絶頂に達する時の心音に、わたしの心は、あの炭焼き小屋に引き戻される。
そして酷く傷(いた)む。
この傷みは、交わる相手がどれだけの色男だとしても、性格が魅力的でも、必ずわたしの全てをえぐる。
けれどさすがにいつまでも10代の女の子ではないので、ポーカーフェイスも上手くなり、幸福の演技もさまになる。
それでも、引き戻された翌日はトイレなどで用をたしながら、両手で口を押えて、歌が漏れないようにして、静かに泣く。
……そういう日々の果て、つまり特殊任務である案件と休暇(おふ)の繰り返しのある日。
25歳のわたしは案件を1つ引き受けた。
この案件で組んだ嘘月という男は、強く、粗暴だが優しく無邪気な男だったので、それなりに愛着を覚えたのだけど、肌を重ねた結果は同じだった。
傷は傷なのだ。
わたしはこの傷に痛み、そして救済されるのである。
それでも、共にすごして快いと思える嘘月と案件に臨めることは、幸せなことだった。
案件は、人身売買組織の壊滅。
依頼は、別の闇ブローカーからのもので、要は同業者同士の抗争である。
わたしの因果は無条件殺戮なので、こういった類の案件にはよくお呼ばれする。
なので、これはいつもと変わらない案件だった。
でも、これが大きな転機となることを、この時のわたしはまだ知らなかった。
黒疫(くろえ) くろすろおど @crossroadtkhs
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